第三章 妖精の丘
第9話 少女の提案
「目の下すごい
灰色の瞳が自分を見つめている。アトラはふと我に返った。
「や、やあ、フラガリア。今日もいい天気だね」
相手は天を見上げた。空を覆い尽くすのは、白黒はっきりとしない灰色の雲。
「えっと、本当にだいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶ、たぶん……」
左右を緑に囲まれた細い道で、少年は見知った少女と出くわしていた。
「なにかあったの?」
「昨日、お墓に本を忘れて、取りに来たけど無かったんだ。風に飛ばされたのか、誰かが持っていったのか。たぶんリタが、従姉妹が気づいて持っていったんだと思う」
「どんな本?」
「子供のころの思い出だよ。単に捨てられないだけで、もう要らないのだけど」
「お墓って、レジーの?」
「うん。レジーは行方不明だから、本当の墓ではないんだ」
「そう。きっと会いに来てくれて喜んでいると思うわ」
姉たちと同じ対応をされて、アトラはもはや反論する気力も失くしていた。
「そうだね……」
「ふふ、口から魂が抜けてるわよ」
「……そうだね」
沈黙が流れた。
「わっ!」
つと、フラガリアは脅かすように声を出した。
「な、なに?」
虚ろだった目が丸くなる。緑を映していた翠の瞳が灰色になった。
「あんまり深く考えすぎないほうがいいよ。ねえ、この前のこと教えてよ。いったいムーアへ何をしに行ったの?」
少年はとうとう観念した。もはやどうでもよくなっていたのかもしれない。
「満月の夜に妖精を見に行ったんだ。ポベル・ヴェーン──すなわち《小さな人たち》。彼らがボドミンムーアの丘にいると話を聞いて、どうしても確かめたかったんだ」
「なんだ、隠すほどでもないじゃない」
「今でも信じていると思われるのが嫌だったんだ」
「信じていてもいいじゃない」
自分が思い悩んでいたことを気楽に否定され、アトラは思わず苛立った。
「僕が悩もうが、君には関係ないでしょ。もう構わないでよ」
直後、これは決定的な亀裂になる言葉であると気づく。最近になって、ようやく会話をするぐらいに親しくなれたものの、それもこれで終わりだと少年は思った。
だが、そんな破れかぶれの言葉すら、即座に否定されてしまう。
「関係なくなんてない。放っておけないじゃない」
「……どうして?」
「私がコーンウォールに来たのはパパが亡くなったからよ。母とは一緒に暮らしたくないから、親戚の姉さんと一緒に、お爺さまの家があったここに住むことにしたの」
「そうだったね。お父さんが亡くなったのは聞いていたのに、ごめん」
「べつに、それはいいのよ」
「どうして君は、そんなに気丈なの?」
「考えないようにしているだけ。だから、ちゃんと向き合うのは立派だと思う」
「そんなことはないよ」
意外な慰めに、軽く首を横に振る。フラガリアは少し思案してから言った。
「ここを選んだ本当の理由は……」
そこまで言うといったん息を整え、続ける。
「初恋の人に会いに来たの」
アトラの耳がぴくりと反応した。
「幼いときコーンウォールに遊びに来て、三人の男の子と遊んだ記憶がある。いつかまた会えたらいいなと思って探してた。それがあなたたちだと、なかなか結びつかなかった。
ねえ、憶えてる? この緑の道を抜けた先、大きな木のある家で昔話を聞いたこと」
頭の中の記録をたどる。似たような出来事はあった。
「どうしてそれを? よそから来た女の子と遊んだ憶えはあるけど、その子は薄茶色の髪をしていた──」
フラガリアは悲しそうな表情を浮かべて、自身の髪をつまみ上げる。
「ちょうど一年前にお爺さまが亡くなって、すぐにパパが亡くなった。嫌なことって続くものなのよ。気丈に見える? そうね、平静を装ってるつもりだった。でも、髪は正直者だったみたい。私たち、髪の色が逆になったのね。お互い気づかなかったわけだわ」
風に揺られてなびく灰色の毛に、少年は息を呑んだ。
「そんな、君があのときの……。まさかレジーに会いに来たの?」
絞り出だした言葉に、相手は首を横に振る。
「あのとき会った背の高い子、あれがレジーだったのね。優しくて格好良くて賢そうで、まるで絵本に出てくる王子さまみたいだった。でも私が気になったのは、いつも明るくて楽しそうに笑っていた子よ。家が恋しくて泣いていた私を、外に連れ出してくれたの」
「ハル、か──」
「鋭いようで、そういうところは鈍いのね。ハロルドくんはお喋りで、自分の興味に夢中な子だった。彼だってあなたを励まそうと悩んでいるのに、あんな冷めた態度をとって、下ばかり向いているからわからなくなっちゃうのよ」
憐れみの籠もった灰色の
「レジーは今でもみんなの心の中で生きている。でも、私が好きになったあの子は、もうこの世にいないみたい」
アトラは
「あーあ、こんなこと言うつもりなかったのに。これじゃあ私、お説教しているみたい。本当は励まそうと思ってたんだけどな……」
柔らかな声はだんだんと小さくなっていった。
冷たい北風が、乾いた音を立てながら丸まった枯れ葉を転がしていく。
暖かな西風はそれに逆らって、後ろから髪を跳ね上げ通り抜けていった。
無言に耐えかねた少年はおそるおそる顔を上げ、目をつむった横顔をうかがう。
「このままじゃいけないのは自分でもわかってる。でもどうしたらいいのか、自分じゃあもうわからないんだ。誰か、知っているなら助けてほしい……」
「そうね……」
フラガリアは頬に手を添え天を見上げる。少女の髪と瞳に似た、どんよりとした灰色の曇り空。見ていても心が晴れる気はしない。長く感じる時間が過ぎた。
「励まそうとしてくれる気持ちはうれしかったよ、ありがとう──」
「そうだ、いいこと思いついた!」
「考えても答えなんて──なんだって?」
「ムーアに行ってみるのよ。ちょうど今夜は満月でしょう? 真夜中に七年前とまったく同じことをしてみるの!」
「いったいなんのために……」
「お爺さまはいつも言っていたわ。迷ったら、いちど迷った地点に立ち返りなさいって」
「だめだ、危険だよ」
「どうして? 鳥の観察や天体観測をしに行く人もいるじゃない」
「そうだけど、雨が降るとひどくぬかるむんだ」
「しばらく天気は安定してるはずよ」
「この島はいつ雨が降るかなんてわかったものじゃない。それに、どうして友達を
「あら、夜のムーアに妖精を見に行くなんてステキじゃない」
「興味が湧いたからやりたいだけじゃないの」
「ええ、そうよ」
あっけらかんと言う少女に、少年は当惑した。
「君は楽しいかもしれないけど、僕は楽しくない」
「じゃあ、私だけ行ってくる」
アトラは、自らと対極にあるような彼女に心惹かれた自分が理解できなくなった。
「やめなよ。実際、レジーは戻ってこなかったから言ってるんだ」
「パパに付いていろいろな所に行ったから、夜だろうが荒地だろうが慣れてるの。さあ、どういう道のりだったのかを教えて?」
ずっと守ってきた心の聖域を侵されたように感じ、額に手を当て首を振る。
「まったく強情で、人の意見も聞かない──」
「それって誰のこと?」
フラガリアは少し腰を屈め、いたずらっぽい笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる。
図星をつかれたアトラはたじろいで、押し黙るしかなかった。
「あ、そうだ。私、買い物に行く途中なんだった」
突として墓荒らしは目標を変える。守護者は拍子抜けして戸惑った。
「な、何を買うの?」
「いつもの物よ。家事はぜんぶ私が任されてるから。それとパーティに持っていくお菓子の材料も買いたいの。アズレアちゃんが誘ってくれたんだ。ねえ、荷物持ってくれない? 一緒に来てくれたら、すごく助かるな」
ぎくしゃくとした会話の途中、急に満面の笑顔でものを頼む少女。呆れつつも断れない少年。ふたりが本格的に争うのは難しそうだった。
いったいどれほどの荷物を持たされるのだろう。ひょっとしたら妹よりも厄介な相手に捕まってしまったのではなかろうか。アトラは新たなる不安をいだきつつ、フラガリアにおとなしく従うことにした。
「一度にこんなに詰め込んで、まるでアーンクーだ」
あれからしばらく経って、運び手を得たのを良いことに、容赦なく荷物が投げ込まれていくショッピングカートを、アトラは呆気にとられながら眺めていた。
「アーンクーって?」
「古代ブリトン人の神話におけるサイコポンプ──死者の魂を導く存在だよ。ひとたび姿を現せば、荷車を魂で満たすまで帰らないとされる、強欲な死神なんだ」
「ふふ、アトラくんって面白い例えをするのね」
「ところで、パーティに何を作っていくつもりなの?」
「そうね。目玉のゼリーと骨の手クッキーは鉄板でしょう? 赤色でドロっとしたものも受けが良さそう。私の名前はイチゴからきているの。それをたたき潰して──」
「そ、そう。いい趣味をお持ちで……」
「発掘のお手伝いをしてたからね。本物を見てきたから、リアルに作る自信はあるんだ」
笑顔の裏にお菓子の魔女を垣間見て、少年は絶句した。
「今日の夕方、アトラくんも行くんでしょ?」
「行かないよ。そんな気分になれないし、こんな奴が行っても迷惑だ」
「もう、そういうこと言わないの」
フラガリアは、もはや後ろ向きな言葉を気にも留めず、店の奥へと突き進む。
アトラは嘆息混じりに横を見やった。さまざまな菓子が並ぶ棚に、迷路にも似た渦巻く奇妙な図柄の描かれた小さなケーキが目に留まり、足を止める。
「あら、それも買うの?」
「いや、なんだか懐かしいと思ってね。あの日、僕らは多めに食料を持っていった。夜中に出かけ、朝までには帰るつもりだったのに」
「どうして?」
「ただの迷信だよ。向こうの物を口にすれば、二度と戻ることはできない。レジーは本当に妖精の世界に行けると思っていたんだ」
「それ、私も聞いたことあるわ。アトラくんは行けるって信じていたの?」
「どうかな。昔からフォークロアは好きだったけど、あのころどこまで信じていたのか、今となってはわからない」
「それじゃ、これも買って行きましょ。ふたり分」
「どうしても行く気なの?」
「ええ、そうよ。行ったきり戻ってこれないかもしれないけど──」
「冗談でもそんなこと言うな!」
思わず荒げた声にフラガリアの肩が跳ね上がる。アトラは慌てて周囲を見まわしたが、さいわい誰かに聞かれた様子はない。少女はうつむいたまま、素直に謝ってきた。
「……ごめんなさい」
「こっちこそごめん、怒鳴ったりなんかして。アズレアは君をとても気に入ってるんだ。いなくなったら悲しがるよ」
「うん、戻らないなんてことはないわ」
少女は決して行かないとは口にしなかった。少年もまた自分が悲しむとは言えず、妹に代弁させるほどに、まだ大人にはなれなかった。
店を出たころには、天を埋め尽くしていた灰色は割れ、青空が広がり始めていた。
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