終章
第30話 朝日影
一同は気が抜けたように肩を落とし、安堵にあふれる深い深いため息をつく。
背後から、小さな白馬を従えた王妃が、キースリーとピスキーを伴い現れた。
「ジョーン!」
アトラの頭上のレジーが叫んだ。
「どうして名前を知ってるの?」
「よく妹と遊びに行ってたからだよ。あの子のたてがみを三つ編みにしたのは僕らだ」
「君の仕業か!」
「あはは! 君に落ち込んだ顔は似合わない。そんなふうに笑っていたほうがいいよ」
「……努力するよ」
王妃が前に進み出た。傍らの子馬は、見知った顔を見てうれしそうに跳ねる。
「夜明けは近い。丘は閉じ、ふたつの世界は再び分かたれる」
「あの、あなたは……」
問いかけに、澄んだ優しいほほ笑みだけが返ってくる。彼女は家族と共にこの地で暮らすことを選んだ。それが良いのかどうか、少年には判らなかった。
「帰れなくなる前に帰るとするか」
そう呼びかけたジャドは、振り向くなり笑みを浮かべる。
「ところでお前さん方、いつまで仲良く引っ付いてるつもりかね」
はっとしたアトラとフラガリアは、顔を赤らめながら慌てて離れた。
「そ、それじゃあまたね、レジー。それと……この子、なんていう名前なの?」
「妹には名前がないんだ」
「そう……。そうだ! レジーの妹だから、レジーナはどう?」
「良い名前だ!」
「またね、レジーナ」
それが自分に向けられたものだと気づいた幼いピスキーは、うれしそうに少女の周りを
「あはは! あなたたちもまたね、ヴーガ、バル!」
いつの間にか白と黒のブッカもそばにいた。二匹は名前を手に入れるや、喜んで前脚の蹄をたたき合い、小さな翼で上空を飛び回る。その言葉は、『洞窟』と『鉱山』を意味するアトラが教えたコーンウォール語だった。
「ちょっと!? 付いて来たらどうするのさ!」
本気で動揺する少年に、皆の顔がほころんだ。
月は落ち、太陽が昇ろうとしている。いよいよ別れの時は近づいていた。
「お別れの前に、ふたりだけで話をしたら?」
フラガリアの呼びかけに応えて、仲間たちは距離を取った。
アトラが包み込むように手を広げると、レジーは頭から跳び移り、顔を見上げた。
しばらくふたりは、黙ってお互いを見つめ合っていた。むかしアトラより背の高かった少年は、いま自らの手の上に居る。
その姿を見つめたまま、震える声で口を開く。
「レジー、こんなに小さくなって」
「君が心配だったんだ」
「お願い、もうそのちからを使わないで」
手のひらに乗る小さな少年は、黙ったまま見つめ返す。そのためにどうすればよいのか、それは言わなくてもわかることだった。心友のあいだに言葉など不要。ふたりは互いにうなずいた。
「レジー……ありがとう」
「うん。また会おう」
アトラは目をしばたたかせながら、待たせていた仲間たちを振り返る。
その瞬間、両手が輝いたかと思うと、ムリアンの王子は一羽の鳥となって飛び立った。
それは赤い嘴と黝黒の翼をもつ、コーンウォールを象徴する鳥──チャフ。
「あー!」
炎の色をしたカラスは頭上をぐるりと一周し、母のもとへ向かう。
王妃は、鳥の姿をした息子に耳を傾けると、呆気にとられる少年に言った。
「最後の一回ですって」
「まったく!」
たったいま交わした約束とはなんだったのか。見守る仲間たちにも笑顔が浮かぶ。
少年の心は、髪の色とともに暗くなっていった。髪は一時的に色を失い、心は再び光を取り戻し始めている。そしてそれは、これから更に変化していくことだろう。
レジーはあの日からなにも変わらない。賢くて、優しくて、そしてなにより人を驚かすのが好きだった。この丘で、昔のまま、これからもずっと変わらない。変わってはほしくない。アトラはそう思い、願った。
五人は丘の麓に降りた。頂上を見上げれば、開かれた岩がゆっくりと閉ざされていく。最後まで手を振る女性がその中へ消えていくと、石の丘は完全に元の姿へと戻った。
朝の日差しに照らされて、森は見る間に草地となっていき、空には早くも目を覚ました小鳥たちが飛び交っている。光に暖められたムーアに寂しさは感じられなかった。
「きれい」
フラガリアから感嘆の声が漏れる。
「うぅ、まぶしい……」
縮こまるジャドにこれまでの優雅さは見る影もなかった。
「
「石にでもなるんじゃない」
フラガリアの冷やかしにアトラが追い打ちをかける。
「お前さん方、さては寝てから来たな?」
「当然よ」
「ふぁああ……。こっちは宿でお前たちを見掛けて、そのまま付いて来たからな。さすがに眠くなってきたぜ」
大あくびをしながらダウがぼやくと、キースリーも口元を手で覆った。
「まさか、こんな時間になろうとは……」
「早く帰って寝るとしようか」
自らの高揚感に対し、男たちからは精気が失われていく。アトラはフラガリアと思わず笑いあった。
「そうだ、子供は笑っていた方がいい。それにしても、お前さん方なかなか見所がある。良かったら俺の弟子にならないか?」
「えー?」
「あはは、考えておきます……」
はにかみながら返したアトラは、顎に手を当てる。
「じつはあの時、誰かがちからを貸してくれた気がするんです。急に神を
「ひょっとして、墓場で会った姉ちゃんか? なんか声が聞こえた気がしたんだよな」
「占い館のアウレアさんでしょう? だってアトラくんの髪は金色に輝いてたもの」
「え? ぼくには姉さんの声が聞こえた気が……」
少年は神妙な面持ちで思考をめぐらす。
「よくよく考えてみれば、ぼくに魔術の才があったととするなら、ペラーを名乗っていた姉さんたちはいったい何なんだ。ぼくにアウレアさんを紹介したのも、リタのもとへ行くよう仕向けたのも姉さんだ。魔女とはたいてい三人組なんだ……」
瞳を閉じて、さらに続ける。
「ぼくは姉たちに流されるままレジーの墓に行き、そこでジャドと出会った……」
翠の目を見開き、薄青の瞳を見据える。
「まさかジャドは、三人とグルなんてことはないでしょうね?」
「…………なっ、何を言ってるんだ、お前さん人を疑りすぎだろう? 考えすぎにもほどがあるぞ!」
「ずいぶん声がうわずってるわね。そういえば丘で、予定と違うとか叫んでたわ」
アトラは疑念が確信に変わり、頭を抱えてうつむいた。
「いったいぼくには
「ちょっと、そんなことで落ち込まないでよ。みんなが影となって、陰から支えてくれていたなんて羨ましいじゃない」
「そうだ、贅沢だぞ!」
影占い師が語気を強めると、ダウとキースリーもうなずいた。
少年は素直に反省し、照れくさそうに頭を掻いた。
ふとわびしげな灰色の瞳が視界に入り、たちまちある事が
「フラガリアだって、お爺さんが見ていてくれたかもしれないよ」
「どうして? お爺さまもムリアンになっていたとでも言うの?」
「違う、アーンクーだよ。古代ブリトン人に伝わるサイコポンプのことだ。一年の始まりに亡くなった二名がお供となり、終わりに亡くなった者がアーンクーとなる」
「買い物に行った時に聞かせてくれた死神の伝説ね。たしかにお爺さまはちょうど去年の今日、日付が変わる前に亡くなられたわ。でもそれならどうして、お爺さまは私に会いに来てくれなかったの? そんなの気休めよ」
それに対し、アトラは自信をもって言葉を返す。
「アーンクーは
少女は突然、少年に背を向けた。華奢な右手が顔に触れるのが後ろから見えた。
「
アトラはついに、フラガリアに一矢報いた気分になった。笑顔を浮かべる三人の男たちと共に、しばらくその様子を見守った。
(梟を使い魔?)
今、自分はそう言った。鬼火に騙されて崖から落ちかけたフラガリアを助ける少し前、梟の鳴き声とともに、何者かの呼びかけを聴いたことを思い出す。
やがて笑顔で振り返った彼女を見て、それ以上なにかを言うのは無粋だと考えた。
「──さて、と。ここらでお別れだな」
不意にジャドが切り出した。
「どうして? 一緒にリスカードへ帰らないの?」
「街に出るならこのまま西に突っ切った方が早い。おっさんたちはもう体が限界なんだ」
「ランズエンドにまで行くんですね」
「なんだ、お見通しか」
「そっか……。いろいろありがとう。最初は悪い人だと思っていたけど」
「じつはワイルドハントなのかと思ってた」
「ふん。俺は『在りの
「ダウさん、キースリーさんもお元気で!」
「ありがとうございました」
フラガリアは笑顔で手を振り、アトラは丁寧にお辞儀をした。
「おう、達者でな」
「ふたりとも気をつけて帰るんだよ」
「なんだか敬意に差を感じるんだが……」
「やあね、ジャド」
「より親しみを感じるからですよ」
ふたりから満面の笑顔を向けられて、影占い師の白い頬が見る間に赤らんでいく。
「んじゃ気をつけて帰んな。あばよ!」
ジャドは背を向けると、逃げるように西へと歩き出した。去り際に、男の弱点が露呈する。
強い朝日に照らされて、影はとうとう退散した。
「行っちゃったね」
遠ざかる三人がついに見えなくなると、フラガリアは穏やかにつぶやいた。
「うん。さて……ぼくたちも帰ろう」
朝日影に向かって歩き始める。子馬はうれしそうに跳ねまわりながら付いてきた。
会話はなかった。葉擦れのなか、ランタンの金具がきしむ音がときおり聞こえてくる。緩やかな風はふたりの髪を揺らし、雲影をはるか彼方へと追いやっていく。
右を歩くフラガリアが少し遅れていることに気づき、アトラは足を止めた。
「疲れた? 少し休もうか」
「ううん。いろんなことがあったから、まだ感情が
「みんなで夢でも見ていたのかな」
「さっきキースリーさん穏やかな顔をしてた。ずっと思い詰めたような表情だったから。ダウさんもなんだか晴ればれとしてた」
「そうだね」
「ジャドは結局、何者だったのかしら」
「ひとつ気になってたことがあるんだ。あの木のマグカップは四つしか無かった。ジャドはいったい、いつ飲んだんだろう?」
「う~ん、どうだったかな……」
「最初から胡散臭い人だと思ってたけど、最後までそれは変わらなかったね」
「ふふ、そうね。ここに来たのは、あなたのためかのように言っていたけど、結局、私も心の整理が必要だったみたい」
「つらいことがあったんだもの、仕方ないよ」
「うん。たまには家に帰ろうかな」
「それがいいね」
一瞬、強めの西風が吹いて灰色の髪がふわりと舞う。少女は少年に振り向いた。
「ねえ」
「なあに?」
「あなたはだいじょうぶ?」
真面目な顔に見つめられ、アトラは思わず朝焼けの空に視線を逃がした。
「みんな優しく手を差し伸べてくれていたのに、ぜんぶ振り払っていたみたいだ。結局、好きなものは好きなんだってわかったよ」
鞄の上から本を軽くたたいて、言葉を続ける。
「帰ったらこれもアズレアに貸してやろうかな。真似をしないといいけど……」
「ふふ、やりかねないわね。……ねぇ」
「なあに」
「もう、だいじょうぶ?」
フラガリアが再び尋ねる。これを聞かれるのは何度目だろう。アトラはしばらく考え込んだ。
深く息を整えて向き直ると、少女はじっとこちらを見つめて言葉を待っていた。
「すべてを
照れくさそうに、美しい灰色の視線から目を逸らす。朝日に暖められた緩やかな風が、広がる草原に幾重もの波をつくり出していく。体だけでなく心まで温まるのを感じる。
アトラはあらためて向き直り、瞳を見つめて言った。
「ありがとう、フラガリア。もう大丈夫だよ」
感謝を込めてほほ笑むと、少女はなにも言わずに晴れやかな笑顔を返した。
こうして、七年前、七つの時に死に至り、墓の中に眠っていた少年の魂は、考古学者の娘と三人の男たちによって掘り起こされ、再び本人の体へと戻ってきた。
ふたりは再び東へと歩き出す。太陽の昇る、東へと。黄金色の日差しが美しいムーアを果てまで照らしていく。ゆっくりと歩くふたりの後を、長い長い影が追った。
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