第二章 影を畏れ迹を悪む

第6話 ふたりの姉

「アトラ、フェレンさんを知らない?」


 ある休日の昼下がり、リビングでぼんやりとくつろいでいた少年は、姉のスクラレアに声をかけられた。

 長い純白の髪にときおり赤く見える透明の瞳。幼いころは仲の良かった七つ上の姉を、アトラはいつしか恐れるようになっていた。


「レジーのおばさんがどうかしたの?」


 フェレン──それはレジーのファミリーネームであり、彼の母親を指していた。


「それがね、リタが言ってたのよ。フェレンさんの行方がわからないんだって。親戚から連絡を受けて、今日の午後にも鍵を開けて家に入るみたい」


「たしかに長いこと見てないね。お姉ちゃんは?」


「それが最近見てないのよ。会えば挨拶ぐらいはしてたけど、なんだか人目を避けているみたいだったから心配ね。それよりあんた、昨日うなされてたけど、悩みでもあるの?」


「なんでもないよ。暇だし見てくる」



 アトラの住むコズグレイヴ家から北へ歩いて数分の所に、フェレン家はあった。古風でこじんまりとしているが、緑に囲まれた美しい家だった。

 扉の前に、黒い制服姿ですらりとした女性がひとり。


「リタ!」


「あら、アティ。良い子にしてる?」


 帽子の下から薄茶色の髪を覗かせる、はつらつとした表情の警官が振り向いた。


「いいかげん子供扱いするのはやめてよ」


「はいはい、声変わりしたらね。そろそろ来る頃合いだと思ってたよ」


 アウリタ──通称リタは近所に住む六つ上の従姉妹いとこで、幼いころので目をつけられている少年にとっては、外での動きを監視するもうひとりの姉のような存在だった。


「なにかあったの?」


「あるどころかなんも無いのよ。家具とかはそのままだけど、冷蔵庫にはなにも無いし、腐ってるものは無い、干された洗濯物も無い。

 これは自分から出ていったようね。許可は取ってあるから、あなたもちょっと協力して。久しぶりだろうし、懐かしいでしょ?」


 促されるまま家に入ると、さっそくリタは辺りを物色し始めた。


「いつからいなかったのかしら」


 アトラは懐かしみながら部屋を見まわす。質素な室内の隅には、ぬいぐるみや乗り物のおもちゃがあるべき所に納まっていて、子供のころの情景が思い浮かんでくる。


 ふと棚に置かれた額縁に目が留まった。

 色褪せた写真に納まるのは、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて椅子に座る黒髪の少年と、その肩に手を添える長い黒髪の女性。

 成長した今、あらためて心友の姿を見ると、そこに気高さと美しさが感じられた。


「これはレジーに妹が生まれた時のだね。すぐに亡くなってしまって気の毒だった」


 アトラは、自分が妹を大切にするようになったきっかけを思い起こしていた。

 甘えん坊だった幼いころ、母を奪ったアズレアに嫉妬した。友達の妹が生まれてすぐに亡くなったのは強い衝撃だった。自ら面倒を見るようになったのは、それからではなかったか。


「家族三人ともいなくなってしまうなんて……」


しまったのね」


 額縁を手に取って裏返すと、右下に小さな文字が記されていた。


〈妹と一緒に レジナルド 七歳〉


「僕の家は誰ひとり欠けることがないのに、レジーの家は誰もいなくなってしまった」


 うなだれるアトラに、リタは少し間をおいてから言葉をかける。


「ねえ、こんな話があったのを覚えてる? フェレンのおばさまには、妙なうわさがあった。彼女は妖精と結婚して、レジーはその子供だって」


「うん。子供心に、なにか悪い例えなんだと思ってたよ」


「それが、ご本人が言ったことなのよ。あの人は妖精の夫から逃げてきたと話し、子供が夫に取られないよう、まじないに傾倒していた。レジーが生まれて六年が過ぎ、別の男性とのあいだに生まれたのが、そこに写る女の子だよ。


 その子は産まれてすぐに亡くなってしまった。彼女は元の夫が連れていったんだと大騒ぎして、みんな心配したんだ。子供が亡くなったんだもの、無理もない。


 でも不幸はそれで終わらなかった。彼女は新しい夫と別れて再びフェレンを名乗り、その一年後、今度はレジーがいなくなってしまった」


「僕がムーアに行こうと言ったばかりに──」


「それは違う! こうなる運命だったんだよ。彼女は、子供をふたりとも妖精に取られてしまったんだ」


「慰めてくれるのはありがたいけど、もうそういうのはいいんだ、そういう話は」


 リタはしばらく考え込むように黙っていたが、そっと左手で従兄弟いとこの肩に触れ、右手で写真立てを取り上げて、見えないように伏せて置いた。


「もう行こう」


 家を出ると、傾き始めた日差しのまぶしさに、アトラは思わず太陽から目を背ける。


「手掛かりはなにも無し、と。本当にどこへ行ったのかしら……。あら、なあに?」


 施錠のあいだ、翠の瞳は無意識に、薄茶色のポニーテールをぼんやりと見つめていた。


「ははーん。あんた昔からこの髪色の子が好きだもんね。でも私はダメよ」


「ち、違うよ、からかわないでよ!」


「あはは、顔真っ赤にしちゃってかわいい~」


「何するんだよ、やめてってば!」


 アトラはいやいやをするように首を左右に揺らして、頭を撫でるリタの手を振り払う。

 その途端、脳裏に浮かびかけていた誰かの面影はあっさり消えてしまった。


「やれやれ。私には言えるんだから、先生にも言いなさいよね。ハルが云ってたわよ」


「なんのことさ」


「あなた、ひとりでいろいろ頼まれごとしてるんでしょう。いじめられっ子をかばってた強いアティはどこに行ったの? まったく、自分のことは我慢しちゃうんだから」


「仕方ないんだよ。僕がやればすべて丸く収まる。それにひとりの方が楽なんだ」


 それ聞いたリタは軽くため息をつき、苦笑を浮かべて言った。


「意地を張るのもほどほどになさいな。まっ、我慢しなきゃいけないこともあるけどね。はぁ、このあとはもっと嫌な仕事よ。下っ端はつらいわ」


「なにかあるの?」


「それは秘密。……そういえば、あなたもたまにはレジーの墓参りに行ってあげたら?」


「行ったってしょうがない」


「きっと喜んでくれるよ」


「喜ばないよ。だってレジーはあそこにはいないんだもの」


「そんなことない。きっと空のどこかで見守ってくれてる」


「そういうのはもういい」


「ふふん。近ごろ塞ぎこんでるみたいだし、行けば気分が変わるかもよ」


 若い警官はいたずらっぽく笑うと、背中を向けて手を振りながら去っていった。

 アトラは見られていた気恥ずかしさに襲われる。と同時に、何かが自分を引き寄せるのを感じた。リタの『連れて行かれた』という言葉に、妙な胸騒ぎを覚えていた。



 帰途につくと、自宅の庭から陽気なハミングが聞こえてくる。扉をくぐれば、アズレアが大きなとんがり帽子をかぶり、黒のローブをひらめかせてくるくると回っていた。


「あっ! お姉ちゃん、お兄ちゃん帰ってきたよー」


 アトラが掃き出し窓に視線をやると、眼鏡を掛けた姉のスクラレアが立っていた。


「ただいま。フェレンさんはやっぱり行方不明みたい。このままレジーのお墓に行ってくるから、すぐ戻るってお母さんに言っといて」


「ちょっと待って、花を持っていきなさい。いま包んであげる」


「いいよ、どうせレジーはあそこにはいないんだから」


「お墓に行くのにそういうわけにはいかないの。すぐに済むから、そこで待ってなさい」


(ちぇっ、いつも偉そうに命令して。……なんで満足そうな顔してるんだ)


「その帽子ちょっと貸して」


「あー、だめ、それわたしのなんだから」


 ひょいと取り上げられたアズレアは、姉の腰元にしがみ付く。

 べつに怒っているのではなく、口実をつけて甘えたいだけなのが、アトラには透けて見えた。

 妹は視線に気づくとぺろりと舌を出す。まるで姉がいれば兄は不要と言わんばかり。


 スクラレアは紙とはさみを持ってくると、不満顔を浮かべる弟をよそに、庭一面に咲く色とりどりの花からひとつずつ選んでは摘み取っていく。


「どうして持っていかないといかないの? レジーはあの墓には……」


「花を供えると、亡くなった人が鳥となって会いに来てくれるのよ」


 またか、とアトラは思った。さっそくアズレアが庭の片隅を指差して尋ねる。


「ねえ、また餌場にロビンが来てるよ。あれは誰だと思う?」


「きっとひいお爺ちゃんね。オレンジが大好物だったから」


「だからあんな色してるんだ!」


(まったく、お花畑で羨ましいね……)


「ほら、これ。セミアトラータとアズレアも入れておいたわよ」


 手渡された花束の中に、兄妹が名前を貰った二種類のサルビアが混じっていた。

 くるまるように咲いて二色の表裏を見せる紫の花と、丸みを帯びた愛らしい水色の花。

 母はそれらをいたく気に入って、夜空と青空を想い、子供たちに名づけた。


「お姉ちゃんの花は~?」


「スクラレアは季節が違うのよ」


「……ありがとう。それじゃ行ってきます」


「場所はわかってるの? レジーのお墓は大きなイチイの樹のそばよ」


「わかった」


「気をつけてね」


「行ってらっしゃーい!」


 少年はいつものようにそっと門を閉め、うつむきながら家を出た。


(お姉ちゃんもリタと同じことを言う。空想を信じてるという点ではもっと上だ。今でも妖精のためにミルクを置けっていうんだから。結局ワンダーが飲むから、無駄にはなっていないけど。もうそういうのはいいんだよ、うんざりなんだ!)


 苛立った途端、強烈な花の香りを吸い込んで、思わず顔を上げる。


(うっ……。だいたい、妖精に《エッセンス》を抜き取られた残り物を飲まされる犬の身にもなれというんだ。じつにくだらない……)


 花束を少し顔から遠ざけて、とぼとぼと街はずれの墓へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る