第一章 小さな人たち

第2話 暖かな風に吹かれて

 イングランドのコーンウォール南東部に、リスカードという古い街がある。かつてすずの一大産地であったこの半島で、錫税の管理を担っていた小さなマーケットタウンである。

 今なおビクトリア朝の建築物が残る美しい街並みは、一面まばゆい金色の陽光に包まれ、『ワン・アンド・オール』と刻まれた旗が偏西風に吹かれてそよいでいた。


「お兄ちゃん、早く!」


 青と白のワンピースを着た幼い少女が、開いた玄関に向かって急き立てた。軽快に身を躍らせるたびに、青いリボンで留めた長い白銀の髪が揺れ動く。


「慌てなくても平気だよ。そんなに急ぐとまた転んじゃうぞ」


 黒服に身を包んだ少年は、取っ手をつかみながらあきれるように言葉を返す。黒ずんだ銀色の髪はわずかな白みを残し、声は成長にあらがってまだ高かった。


「まったくアズレアときたら、一秒に針がふたつ進むんだから」


「お兄ちゃんが二秒にひとつなの!」


 翠の瞳の少年は、あおい瞳の少女にやり返されて軽くうなった。

 髪と瞳の色が異なる兄妹。十四歳になる兄のアトラは、そっと静かに扉を閉める。七歳の妹アズレアに近づいて左手を差しだすと、小さな右手がそこに乗った。


 ふたりは家々の影が差す赤レンガの道を歩き始めた。風に散った木の葉が片隅に黄色い絨毯じゅうたんを生み出している。肌寒さのなかに暖かみを感じる、のどかな昼下がりだった。


「早くハロウィン来ないかなあ」


「もうそんな季節か」


 青空をにこやかに見上げる妹に、兄は車道に目を配りながら話を合わせた。


「ともだちと仮装して、お菓子いっぱい集めて、パーティでいろんなことするの」


「忙しくなりそうだね」


「帰りにもらえる幸運のリンゴを枕元に置いて寝ると、未来の恋人の夢を見れるのよ」


「ふうん」


錫占いモリブドマンシーで溶かしたものを光にかざすと、夫となる人の影が見えるんだって」


「女の子はおませだな。アズレアにはまだちょっと早いんじゃないの」


「じんせーせっけいは大切なのよ。お兄ちゃんはカノジョまだ?」


「余計なお世話だよ」


 妹のうきうきとした細い腕に揺らされながら、アトラはたわいもない話に耳を傾ける。

 ちょうど大通りの角を曲がり、車の来ない小道に気をゆるめた時、ばったりと顔見知りの少女に出くわした。


「あら、コズグレイヴくん。こんにちは」


「キャムデンさん、こんにちは。……いい天気だね」


 思いがけない相手に目を白黒させた少年は、はにかみながら視線を泳がせた。


 その少女は、やや大人びて利発そうな顔立ちをしていた。女性的でありながら隙のない衣装に身を包み、かすかに清潔な香りを漂わせている。血色のいい肌に浮かぶ灰色の瞳は活力に満ちあふれ、首元まで伸びる灰色の髪はそよ風に吹かれてはかなく揺れていた。

 彼女はアズレアの存在に気がつくと、すぐに顔をほころばせる。


「その子、妹さん?」


「……お兄ちゃん、このお姉ちゃんだあれ?」


 上目遣いに少女を見つめていた少年は、袖を引かれてはっとした。


「同じクラスの子だよ。九月に引っ越してきたばかりなんだ。ほら、挨拶して」


 促された妹は兄に隠れるようにして、小さな声で「よろしく」と言った。


「アズレアっていうんだ。いつもは元気なんだけど、ちょっと人見知りで」


 落ち着いた物腰の少女は、膝に手を当て身を屈め、幼い少女に視線を合わせた。


「私はフラガリアというの。よろしくね、アズレアちゃん」


「うん」


「ふふ、かわいい妹さんね、アトラくん」


「え? あ、うん」


 唐突にファーストネームで呼ばれた少年は、意味も考えずに肯定した。


「どこかに行くところだったの?」


「ペラーのとこに行くの」


 兄の後ろから出てきた妹が、おずおずと答える。


「ええと、ペラーさん?」


「ペラーとはコーンウォールの魔術師のことなんだ。アズレアが占いをしたいんだって」


「おもしろそう! ねえアズレアちゃん、私も付いていっていい?」


「うん、いいよ」


 妹にあっさりと了承され、兄はどぎまぎした。新学期の始まりとともに現れた少女は、たちまちアトラの心をつかんだ。だが、おとなしい少年はなかなか言葉をかける機会を得られずに、すでに二カ月近くが過ぎていた。

 しぶしぶ請け負った妹の付き添いがこんな出会いを呼ぶなんて。いつもは子憎たらしい妹が、急に天使に思えてくる。


「わたしのおうちもペラーの子孫なんだよ。お兄ちゃんは妖精とか魔法の絵本をいっぱい持ってるの」


(そうそう、僕の部屋には──)


「えっ!」


 アトラの白い顔はたちまち耳まで真っ赤になった。


「あれは絵本じゃなくて神話とか伝説の本なんだよ。この辺りには真のペラーの血を引く魔女が住んでいて、僕らはその遠い親戚というか、そんな話もあるってだけで……」


(あああ、何を言ってるんだ僕は。急に恥をかかせるな!)


「ふうん、アトラくんはそういうのに詳しいのね」


「あはは、自分たちのルーツに関わることだからね。歴史として興味があるんだ」


「そうなんだ。私も歴史が大好き。わが家は代々、考古学を研究しているの」


「すごいね、キャムデンさんは頭も良いし……さ、さあ、暗くならないうちに行こう!」


「……変なお兄ちゃん」


 アズレアを中心にして、三人は道を進みだした。フラガリアと打ち解けた妹を尻目に、アトラは冷や汗を垂らす。妖精という言葉を聞いた途端、醜態を晒された気分に陥った。十四歳にもなってそんなものを信じていると思われては困る。


 また余計なことを言われはしないかとおびえていると、前方から新たに不審な人影が現れた。


「アトラとアズレアが一羽ずつ。それにキャムデンさんが一羽……」


 双眼鏡を覗きながら計数機を握る、ブレザーに半ズボンの小柄な少年がひとり。鳥の巣を乗せたような茶色い頭を見れば、顔を見なくてもアトラには誰かがすぐわかった。

 アズレアが先ほどとは打って変わり、ぞんざいに尋ねる。


「ハル、あんたこんなとこで何してんのよ」


「本日は街の鳥を調査中なのだ。やはりゴーレドクレストはなかなか見つからないな」


 くりくりとした茶色の瞳が現れ、角ばった字が書かれたノートを見せてよこす。


「こんにちは。ハロルドくんはバードウォッチングが趣味なのね」


「そう、鳥こそわが生き甲斐。おや、僕の名前をおぼえてくれたんだね、キャムデンさん」


「フラガリアでいいわ」


「そうかいフラガリア。ところで、この珍しい組み合わせの三人はどこへ行くつもり?」


「ペラーのとこに行くの!」


「ほほう。この街の魔女婆さんはどこかへ行ってしまったが、近ごろその孫が受け継いだと聞いている。なんでも、たいそう美しいとの評判だ」


「あんたは来なくていいわよ」


「その人は鳥と会話ができるそうでね。ちょうど挨拶に伺おうと思っていたところさ」


 こうして四人になった子供たちは、のどかな小道を再び歩き出した。

 ハロルドは笑みを浮かべながらアトラを肘で小突いてくる。暗髪の少年は苦い顔を浮かべて、身振り手振りで余計なことを言うなと訴えた。


 やがて小川のせせらぎとともに、緑のつたに覆われた古い建物が見え始めると、アズレアはつないだ手をぱっと離すや駆け出して、三人を急かすように大きく手招きした。

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