幽刻のワイルドハント

かぐろば衽

神翳礼讃

序章

第1話 狩猟月

 幼いころの記憶には、夢と現実が入り交じる曖昧なものが紛れている。

 十四歳を迎えた少年の心中で、熱に浮かされて見た悪夢としか思えぬ情景が、意識の深層へとうずもれようとしていた。

 あれは冷たい北風が吹きつける、満月の夜だった……。




 荒れ果てた野を石の丘が支配する、ここは荒野ムーア。グレートブリテン島、イングランド南西部のコーンウォールに広がる湿地帯──ボドミンムーア。


 かつて、この地には森が広がり、人間が住んでいた。

 今は、陰陰滅滅とした大地に、石の遺物がたたずむのみ。


 真夜中、わずか七つのアトラという名の少年が、灯りも持たずにおぼつかない足取りでさまよっていた。

 暗闇に浮かぶ白い肌と月光にきらめく白銀の髪をもち、頬にはまだ丸みが残りあどけない。先を見据えるみどりの瞳には、言い知れぬ不安が満ちている。


 狩猟月と呼ばれる秋の満月が照らし出すのは、草に覆われた大地、そこかしこに転がる岩々。寂寥せきりょうとしたムーアに漂う物悲しさは、冷えた空気以上に寒々しい。

 アトラは重たい足を止めると、口元に手を添え力強く叫んだ。


「レジー、どこにいるんだ!」


 その声に応えるものは、無い。こうべを垂れて、再び道なき道を力なく歩む。

 凍える風が首筋から入り込み、汗ばんだ細い体は芯まで冷えきっていた。襲いくる睡魔を振り払い、重いまぶたで空を見やると、天高く白い円を背景に無数の鳥影が目に映る。絵画のような美しさに胸騒ぎを感じて、小さな足が止まった。


 それはV字の編隊を組んだグースの群れ。かまびすしく鳴きながら少年の頭上を颯爽さっそうけ抜けていく。彼らがやってきた北東の空遠くには、いつの間にか巨大なかなとこ雲が、まるで大波のごとく逆巻いていた。


 満月の夜は明るい。大地は満遍なく照らされ、点在する丘陵のシルエットはもちろん、己の影すらもはっきりと見て取れる。だが、ひとたび月が黒雲に飲み込まれてしまえば、このムーア一帯はたちまち闇に閉ざされてしまうであろう。


「どうして、こんなことに……」


 ふとアトラの視界の隅で、何かが光を発した。目を凝らせば、孤影の傍らに小さな火がちらついているように見える。疲れた体にむち打って、すがるような思いでそこへと向かう。


 逃げ惑う白雲とすれ違ったころ、ようやくその正体があらわとなった。ひとりの男が地に腰を下ろし、ランタンの灯火ともしびで手を温めている。ざわつく風が足音をかき消し、顔がわかる距離まで近づいても、彼はまったく振り返る様子がない。

 疲れているのか微動だにせず、小さな光源をただ空虚に見つめる。その瞳は炎を映し、妖しく赤く輝いていた。

 人ならざる気配を感じるも、アトラは意を決して尋ねた。


「すみません、ぼくのともだちを知りませんか?」


 振り向いたのは、赤毛で青い瞳をした、二十歳ほどの青年。薄汚れてほころびた衣服が悲愴感を漂わせ、子供の目にも哀れに映る。

 彼はどういうわけか、年端もいかない少年に恐れる表情を見せた。だがすぐに身構え、氷のように冷たい視線を向けてくる。


「トモダチ? いや、知らんな。こんな夜更けに子供がひとり、いったいどうした?」


「ボドミンムーアの……丘を見に……」


「丘? 子供だけか? 大人は? 何しにきた?」


「ともだちとふたりだけで来ました。はぐれてしまって探しています。ぼくらはムリアンを見るために、丘へ行ったんです」


「ムリアン──……」


 眉をひそめた青年は、急に警戒の色を緩め、一転して優しそうな笑顔を浮かべた。


「あぁ、蟻の妖精か。懐かしいものだ。俺にも昔は妖精がいた。いつの間にかみな死んでしまったが……。それでお前は、《小さな人たち》に会えたのか?」


「ううん。なにも見つからなくて、レジーには置いていかれちゃった」


「そうか、それは災難だったな。お前も火に当たるか? なんだか気分が悪そうだ」


「いえ、ぼくはレジーを探さなきゃ。ありがとうございました」


 落胆するも子供ながら丁寧に会釈する。アトラは場を後にしようときびすを返したその時、岩陰に転がったある物に気がついた。淡い緑をした小さな鞄。それは友人が背負っていたものによく似ている。不思議に思い、じっと見つめた。


 ふと我に返る。はっとして青年を見返すと、彼は最初に見せた時と同じく、氷のように冷たい視線を向けていた。


 ──今すぐ、この場を離れなければ。直感的に危険を感じて後ずさる。


 相手は立ち上がると、視線を向けたままゆっくりと歩み寄ってきた。

 小さな体が恐怖にすくむ。アトラは勇気を振り絞り、声を張り上げた。


「この鞄はレジーのものだ。レジーをどこにやった!」


「おいおい、ひどい誤解だな。俺は落ちてたのを拾っただけさ。なにもおびえることないだろう? 一緒に探してあげようじゃないか」


 暗がりに白い歯がひらめいた刹那、ついに黒雲の大津波が、大地を照らす夜空の灯台に到達した。満月は瞬く間にかげり、ムーアが暗闇に閉ざされていく。

 風にかき分けられた草が千切れんばかりに悲鳴を上げる。ざわめきの中、大地を乱暴に踏みしめる足音がはっきりと徐々に近づいてくる。少年は微動だにできず、ただおびえるしかなかった。

 男がすぐそばへと迫った、その瞬間──


 激しい明滅とともに、つんざくような雷鳴が辺りにとどろきわたった。


 アトラは恐怖のあまり白銀の髪を抱えてうずくまる。まばゆい閃光せんこうがムーアの南一帯を照らし出した時、そこに数えきれない片影を見た気がした。


 人は沈黙し、自然はたけり狂う。


 時間だけが過ぎていく。少年がつむった目をおそるおそる見開いて顔を上げると、青年は雷が落ちた影面をじっと見つめていた。その視線の先を追い、どす黒い荒野の闇を見る。


 そこに、木のようなものが不自然にぽつんと立っていた。ムーアの川沿いには草木の茂る森があるが、このような開けた場所で外れて育つのは妙に目立つ。分厚い雲越しのわずかな月明かりと、男が手に持つ小さな灯火では、その正体を知るのは難しい。


「見たか? 今のを」


 かけられた言葉に黙って小さくうなずくと、相手は腰元から何かを抜き取り身構えた。たとえ暗闇の中にあっても、それが何かは子供にも理解できた。拳銃を握った男はもはや少年には目もくれず、慎重にへと歩み寄っていく。

 彼がすぐそばへと迫った時、雲の絶え間から顔をのぞかせた月が大地をうっすら照らし出す。


 黒馬。そこにまたがる、黒い人影。


 仰け反った青年が落としたランタンは石に当たって砕け、一瞬にして火が消える。

 おののくふたりの眼前で、それは厳かに声を発した。


「──なんじ、祈る神はありや?」


「なんだって?」


 青年は空いた左手を添えて、銃口を向ける。


「荒野をさまよう罪びとよ。汝がすがるものに祈りを捧げよ」


「馬鹿馬鹿しい、そんなもんいるものか!」


 突如、火が灯るように暗闇にふたつの赤光しゃっこうが浮かんだ。それはとてもこの世のものとは思えない、禍々まがまがしい光を放つ赤い瞳──


 青年は咄嗟とっさに後方へ半歩跳びのくと、その影の胸に向けて二発、顔に一発、立て続けに発砲した。


 だが、それは銃撃に動じることなく、同じ場所にたたずんでいる。


「血に飢えたその瞳、気に入った。よかろう、我らがの軍門に下れ!」


 革手袋に包まれた指先で青年を指し示し、逆の手で力強く手綱を引くと、黒馬は白い息を吐いて赤い眼を輝かせながら、前脚を高く上げいなないた。

 すると、暗闇に潜んでいた何かがそれに応える。


『ガルル……』


 うなり声とともにおびただしい数の赤い眼が闇に浮かび上がった。現れたのは仔牛ほどの巨大な黒犬。

 アトラは騎手に気を取られ、足元の存在にはまるで気づいていなかった。


 群れはよだれの滴る口から白い息を吹き出しながら、弧を描いてにじり寄る。

 無数の迫りくる獣に狼狽ろうばいし、それまでの威勢はどこへやら。青年は銃を投げ捨てると、影に背を向け逃げ出した。


 すぐさま犬たちは獰猛どうもうに吠えながらその跡を追い駆ける。地に伏せた少年の両脇を抜け、頭上をも超えて、白銀の髪に強烈なかぜが伝わってくる──


 直後、背後からけたたましい悲鳴が闇の夜空を切り裂いた。


 それまでえていた黒雲がついに大粒の雨を大地に降り注ぎ始める。ときおりとどろく雷鳴と、激しく岩を打つ雨音が無ければ、このムーア一帯に不快な咀嚼音そしゃくおんが響きわたったことであろう。


 大地から伝わる振動を感じ、アトラはゆっくり前を向いた。正面に黒馬の脚が見える。恐怖におびえながら視線を上げると、息を荒げる馬首の上から、燃え盛るような赤い双眸そうぼうが見つめていた。


 その男は黒皮の前掛けから筋肉質な腕を露出する、馬を乗るにはおよそふさわしくない出で立ちをしていた。精悍せいかんな顔立ちには、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきたような、得も言われぬ自信が満ちあふれている。


「荒野をさまよう幼子よ。汝、祈る神はありや?」


 アトラは胸の前で指を組み、冷たい地面にひざまずく。小さな体は憐れに震え、衣服の金具がかちゃかちゃと弱者の音を奏でた。


 無心に祈る。恐怖に支配され、まるで考えることができない。言葉だけでなく相手すらも浮かばない、ただ形だけの祈り。いったいそのような祈りが、いかなる神に届くのか。


 辺りには烈しく渦巻く風音と、激しく岩を打つ雨音が響きわたっている。前方の存在はなにも言葉を発しない。それは少年にとって、とても長い時間に思えた。



 ふと冷たい北風の中、場違いに生ぬるい風が自らを包み込むのを感じた。



 やがて、ぽつりと声がする。


「少年は祈っている……」


 相手は興味を失くしたのか、おぞましいことが起きた後方へ頭越しに呼びかけた。


「罪深き者よ、汝は幸せだ。我が兄弟となりて、死してなお、我らが万物の父に仕えよ。そしていつの日か──」


 恍惚こうこつとした声は風にかすれた。


「引き揚げるぞ!」


 角笛が吹かれた。獣たちが主のもとへ駆け戻る音が聞こえる。


 危機が去りゆくのを感じて、アトラはゆっくりおもてを上げた。

 男が向かう先にもうひとり、黒馬にまたがる赤眼の人影がある。それは黒のローブをまとう老人のように見えた。

 固く組んだ手はそのままに、目の前で繰り広げられる奇妙な光景を眺める。


 合流した二頭の黒馬は、大地を蹴って大きく飛びはねると、中空に着地し、再び跳ぶ。それを幾度となく繰り返し、付き従う犬と共に天高く舞い上がっていく。

 上空で待機していたほかの群れと隊列を組んで、不可解な軍団は北東の彼方へと飛び去っていった。


 吹き荒れる風と打ち付ける雨はしだいにその勢いを弱め、満月が雲の切れ間から再び姿を現すと、けがれた大地はぼんやり照らし出されていく。


 ムーアには、濡れた地面に呆然と座り込む幼い子供がひとり、取り残されていた。




 《ワイルドハント》──それは、馬や犬を引き連れ夜空をかける、魂を狩る猟師の群れ。

 ゲルマン民族の古き主神オーディンの『渡り』が起源とされ、いくつもの国をまたぎ、本来ならば交わることのない信仰をも超えて、ヨーロッパに広く知れわたる伝説である。


 集団を率いる首領には、サイコポンプと呼ばれる死者を先導する冥界の神や女神、妖精、魔女、勇敢に散っていった英雄などが名を連ねる。


 『狩り』の対象には、時として何らかの罪を犯した者が選ばれ、無残にも殺されたり、いずこかへ連れ去られてゆく。そうしてさらわれた者たちは、新たに群れの一員となって、永遠に終わることのない狩りを続けるのだという。


 いにしえの神話は、神々と巨人の大いなる争いの末、主神はたおれ、双方の滅亡により終わる。



 夜空を翔るワイルドハントが、かの神々の眷族けんぞくだとするならば──


 なぜ、彼らは主亡き後も狩りを続けるのだろうか?


 なぜ、かの神を崇めぬ土地にまで現れるのだろうか?


 なぜ、罪深き者を連れ去るのだろうか?


 そして、終わりないとされるその狩りは、今もなお、続いているのだろうか……?

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