第5話 届かぬ声

 あくる日、夕陽の差し込む学校の片隅で、アトラはひとりで大きな荷物を抱えていた。明るい会話を交わす子供たちが、入れ違いに横を通り過ぎていく。

 昨日の一件以来、少年は他者と距離をおいていた。用事を済ませ、物思いに耽りながらゆっくりとした足取りで教室へ向かっていると、曲がり角の手前で、透きとおった少女の声が聞こえてきた。


「ハロルドくん。アトラくんを見かけなかった?」


「やあ、フラガリア。あいつなら先生の手伝いをしに行ったよ。まあいつものことさ」


「たまにいなくなると思ったら、そういうことだったの」


「いつも面倒事を片っ端から引き受けちゃうんだから。嫌なら断ればいいのにね」


 胸がつまり、思わず唇を噛みしめる。


 アトラは周囲から感受性が高い子供と見なされてきた。外向性と内向性の相反する二つの気質を併せもち、社交的で力強い一面を見せることがあれば、繊細で急にひとりになる弱さを露呈することもあった。


 他者から影響を受けやすいために、外面ばかり取り繕い、内面は恥として隠しとおそうとする。感情に重きを置き、遠い昔の想い出を鮮明に描ける反面、つらい記憶がいつまでも残り続ける。


 正義感が強く、弱きものを助ける一方で、己の罪を罰し続ける。好奇心が強く、鋭い五感で子細に気づくものの、あふれる刺激にたちまち心は傷ついてしまう。


 この変えることのできない矛盾した気質は、自らを苦しめることがあれば、助けることもあった。普通ならば聞き取りづらい距離で、アトラはじっと耳をそばだてる。


「昨日のことが気になってるのよ。レジーって誰か教えて?」


「レジーは僕らの親友だった。でも、七年前にボドミンムーアで行方不明になったんだ」


「いったい何があったの?」


「それがはっきりしないんだよ。あまり覚えてもいないし思い出したくもないみたいだ。わかっているのは、深夜にアトラとレジーがムーアに出かけて、あいつは戻ってきたけどあの子は帰ってこなかったってことだけ。

 アトラは自分のせいでレジーが死んだと言って聞かないんだ。あいつの時は、もう七年も止まっているのさ」


「ハロルドくんは行かなかったの?」


「本当は俺も行くはずだったけど、寝過ごして置いていかれたのだ」


「何をしに行ったの?」


「ダメだ、それを言ったら怒られる! あいつ怒るとメンフクロウみたいに怖いんだ!」


「ちょっと、大声を出さないで。その例えはさておき、どうしてよ?」


「それだけは言うなってうんだ。べつに大したことじゃないと思うんだけど、あいつのプライドが許さないみたいだ。まあ、今はそっとしておこう」


「ふぅん……。私、探して聞いてくる」


「ちょっと待った、俺がいま言ったこと聞いてた?」


「うん、でも聞かないとわからないじゃない」


「きっとだんまりさ。いったんああなると、ハシビロコウより動かないんだよ」


「じゃあ、あのまま放っておくつもり?」


「時が解決してくれるのを待つばかり」


「七年間も時が止まってると言ったのはあなたよ」


「そうだけど……」


「やっぱり聞いてくる」


「ダメだって、勘弁してくれ」


「私は考古学者の娘よ。気になることは探り出さないと気が済まないの。それじゃ」


 軽い足音が近づいてくるのを感じて、アトラは閉じていた足を前後に開いた。


「あぁ、俺もう知らない……」


 確認せずとも、傾いた鳥の巣頭が目に浮かぶようだった。


「あっ! アトラくん、ここに居たのね」


「どうかしたの?」


「ねえ。七年前、ムーアで何があったのか教えてくれる?」


「ハルから聞いたんじゃないの。あいつは口が軽いから」


「なかなか吐かないから聞きに来たのよ」


 このまま引き下がる様子には思えない。力強い灰色の視線に、翠の瞳は根負けした。


「子供のころ、僕はいつもレジーとハルの三人で遊んでいた。七年前のちょうど今ごろ、ある満月の晩にムーアに行こうと僕が誘ったんだ。ハルは来なかった。帰り道にレジーとはぐれ、ひとりだけで帰ってきた。僕が、殺したんだ……」


「はぐれただけでしょう?」


「そうだけど、ああなったのはぜんぶ僕のせいだ」


「気持ちはわかるけど、そうじゃないと思うわ。わからないのは、いったいどうして夜にムーアへ行ったのかってことよ。それを教えてくれないから聞きたいの」


「それは言いたくない」


「どうして?」


「……幼稚な理由だから」


「七年前って七歳でしょ。そんなに恥ずかしいこと?」


 アトラは目だけを動かして、前に立つフラガリアをうかがった。

 新学期を機に編入してから二ヶ月。少女は多くの少年の心をつかんだに違いない。優しい性格ではあった。だが抑えられない好奇心と何事にも物怖じしない度胸が、彼女を孤高の存在にしていた。


 表面上は真面目で穏やかであるがゆえに周囲から信頼されてしまい、やたらと面倒事を押しつけられるアトラは、内心は孤独を好み詮索されることを嫌う。根掘り葉掘り聞いてくるこの少女は、どうも自分とは価値観が違うように思われた。


「心配してくれてありがとう。でも、思い出したくないんだ。たわいないものを信じて、友達を死なせた事実は変わらない。少しでも明るい時間を過ごしていた自分が許せない。僕にはそんな資格なんてないんだ」


 そう言うと、立ち尽くすフラガリアの横を抜けて、ロッカーに向かった。



 その夜、アトラは部屋の灯りを消して、ベッドの上で仰向けになり、天井をぼんやりと眺めていた。

 室内には立派な本棚を除けば必要な家具があるだけで、そのどれもが暗色をしている。足元には、毛むくじゃらで大きな老犬が一匹、おとなしく丸まり眠っていた。


 頭に友人たちのことが渦巻く。気を使わせていると理解はしていても、会話をする気が起きない。昔のことでいつまでも悩んでいるわけにはいかないと頭ではわかっていても、亡くなった友との想い出がよみがえると同時に、罪悪感にさいなまれる。


 レジーを忘れたことなんてないと自分では思っていた。だが騒々しい妹とお調子者の親友、心をかき乱す少女にすっかり振りまわされ、いつしか己の罪を忘れて人生を謳歌おうかしていたのではあるまいか。


 満月の夜にムーアの丘へ行く計画を自分が立てなければ、心友が死ぬことなどなかったはずだ。たとえ直接手を下さずとも、とうてい許される行為ではない。人をひとり死に追いやっておいて、幸せでいるのは間違っている。


 何度考え直しても思考のわだちにはまり込み、堂々巡り。自分はこのまま悩みながら死んでしまうのではないだろうか。少年の心は暗澹あんたんたる思いに鬱々としていた。


「お兄ちゃん遊ぼー!」


 突然、ドアが乱暴に開かれた。悩ましい静寂を遮って、白銀の髪をした少女が部屋に飛び込んでくる。アトラとその愛犬は、驚いて同時に跳ね起きた。


「ノックぐらいしろ、アズレア!」


「したもん! お部屋真っ暗、まさかもう寝てたの?」


 考えごとに夢中で聞き逃したのだろうか。容赦なく灯りがけられ、目がくらむ。

 少女の背後から鳴き声がしたかと思うと、白い体に黒い顔をした仔猫が現れ、大胆にも犬の頭上へと跳び乗った。老犬はそれに構うことなく、再び床で丸くなる。


「ねーねー、遊ぼうよ~」


「悪いけど、お兄ちゃんは頭が痛いんだ」


「絶対ウソ!」


 アズレアはひらりとベッドに跳び移り、壁を向いた兄を転がして馬乗りになった。


「お姉ちゃんは書斎から出てこないし、遊び相手はお兄ちゃんしかいないんだよ~」


 揺さぶって歩みを促すカウガール。おとなしい馬は頑なに動こうとしない。


「ねえ、ワンダーもなんか言ってよ」


 しびれを切らした少女は、老いたビアデッド・コリーに応援を求めた。

 穏やかな犬は、長い毛が覆うまぶたを持ち上げて首をかしげる。幼いシャム猫が跳び下りると、ゆっくり立ち上がり、ベッドに向かって軽く吠えた。


「バウ!」


 アトラは驚いた拍子に、壁で頭をしたたか打った。腹を抱えて笑うアズレア。

 少年は妹を押しのけ起き上がると、飼い犬へと振り返り、目が合った瞬間に思わず顔を逸らしてしまった。寂しそうな鳴き声が胸に鋭く突きささる。

 痛めた頭をさすりながら、逃げる口実を探して部屋を見まわすと、ふと本棚に目が留まった。


「本を貸してあげるから、今日はワンダーを連れて、僕をひとりにしてくれないかな」


「どうしてもダメなの?」


「どうしても」


「うーん、わかった」


 少女はベッドから跳び下りると、素直に本棚へと向かった。


「なに借りてもいいの?」


「どうぞ」


 普段アトラは、がさつな妹が本棚に触れることを嫌がっていた。それが今日は許されるのだから、彼女にとっても悪い話ではない。

 しばらく物色する音がしていたかと思えば、アズレアは満足げに大きな本を三冊も抱えてきた。


「行こうワンダー、おいでタウマ。お兄ちゃんまったね~」


 老犬はふたりの顔を交互に見て当惑する。やがて主人が相変わらず相手にする気がないと察して、悲しそうにうなだれながら妹君に従った。

 仔猫がその面黒い顔を少年に向けて出ていくと、扉は軽い音を立てて閉められる。

 小刻みに走る足音は遠ざかっていき、部屋には再び静寂が訪れた。


(何をしているんだ、僕は……?)


 妹とペットたちを部屋の外に追いやると、アトラは再び自己嫌悪に陥る。


 ワンダーは自分が物心ついたころにやってきた犬だった。苦楽を共にしてきた忠犬は、時の流れとともにすっかり老犬となった。

 あるじに似ておとなしく、めったに鳴くことのない彼が吠えた時、己の体が拒否反応を示したように感じた。


 腕を組み、心にかかるものを思い出そうと、深い思考の淵へと沈み込んでゆく。


 ──突然、横からパタリと音がする。それが何かはすぐに察した。


(あいつ本立てを挟み忘れたな。何を持っていったんだか)


 仕方なく体を起こし本棚へ向かう。

 そこには、神話・伝説・英雄譚・妖精物語、そして魔術……といった空想の書物であふれていた。

 倒れた本を引き抜くと、『コーンウォールの民話フォークロア』と題字が見える。それは少年にとって、とても思い出深い本だった。


 なんとはなしにページをめくる。


〈石になった笛吹きと九人の乙女、魂を売った男、少年とピスキーの女王、いたずらな風の精霊、妖精丘の守護者、優しい鉱夫と意地悪な鉱夫、蟻の妖精……〉


 書影は年季を感じるが、子供時代の本にしては、目立った汚れや傷は無い。懐かしさにかられて挿絵を楽しみながら読み進めていると、はらりと何かが舞い落ちる。


 それは、四葉のクローバーが挟まれた一枚のしおり


 いったいいつごろ作ったものだろうか。遠い記憶をすぐにたどることは難しい。諦めて再び本に戻そうとし、はっとした。


 《ワイルドハント》──その小題にぞくりとする。左のページには、馬にまたがり夜空をかける、恐ろしい亡霊の集団が描かれていた。


 アトラは思わず本を閉じる。これを妹に見せたくはない気持ちが心のどこかにあるのを感じ、無造作に鞄へ突っ込む。すぐさま灯りを消して、ベッドの中へと潜り込んだ。

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