第19話 いにしえの伝承

 圧し潰すように真っ暗な夜の森に、ランタンの赤い火が灯っていた。暖かくも頼りない小さな光は、四つの人と二つの妖精の姿を放射状に映し出している。地に落ちる影先は、鬱蒼とした木々の狭間へ飲み込まれるように消えていた。


 暗闇の中から、無数の見えない森の影に覗き見られているかのような不安に駆られる。アトラとフラガリアは身を寄せ合って、倒木の上に腰を下ろしていた。


 地面にしゃがみ込んだ白い山羊の妖精ブッカ・グウィデンは、不思議そうにランタンの灯りを見つめ、前脚の割れたひづめをゆっくりと近づける。


火傷やけどしちゃうよ」


 フラガリアがそっと手を伸ばしてそれを制すと、ブッカはぽかんと口を開け、大人びた顔をまじまじと見返した。鼻先をクンクンと震わせて少女の服に顔を近づけると、何かに気づいたようにぱっと表情が明るくなった。


 アトラは、老婆から渡されたパスティを懐に忍ばせていたことを思い出す。体を外から温めるための食べ物は、いまだ温もりを残していた。


「どうしよう、お腹すいてるのかな?」


 首を横に振って答える。このような状況において、それは貴重な食料だった。


「ごめんね、あげられないの」


 申し訳なさげに断られると、ブッカはつまらないとばかりに顔をぷいと背けた。


 風に擦れる葉の音が木々の梢から聞こえてくる。それはまるで、森に踏み入れた人間の処遇について、妖精たちがささやき合っているかのよう。アトラに付いて来たピスキーの少女は、ふわふわと飛びながら、ざわめきに耳を貸すように手で音を集めた。


 目も合わせずに押し黙る三人に対し、フラガリアが切り出した。


「ねえ、これからどうしましょう」


「どうするもこうするも……」


 苔生した地面に座り込み、痛めた体をさすっていたジャドが声を荒げる。


「キースリー! なぜあんな物を持ってきた?」


「必要になる気がしていたのだ。こんなことになってしまって、すまない」


「今ごろダウがどうなっているか。あの馬鹿、自分を【犠牲】にしやがって!」


「本当にすまない……」


「ちょっとジャド、キースリーさんを責めても状況は変わらないでしょう? どうすれば助けられるかを考えましょうよ」


「生きてると思うか?」


「それは……」


 すると、それまで黙っていたアトラが口を開く。


「あの妖精は間違いなくスプリジャン。太古の昔、この地に住んでいた巨人の亡霊です。邪悪な性格とされるけれど、伝え聞くのは、住み家を脅かした人間に呪いを掛けて病気を引き起こしたり、物や赤子を盗んだりで、殺めるまではしないかもしれません」


「おれのことは本気で殺しにきてたけどな」


「最後に見たダウさんは蜘蛛の遊糸ゴッサマーに絡め取られていました。それにあの男たちの中に、妖精を殺さないよう言っている者がいた。人間も殺さないかも……」


「そうは言い切れないが、ひとまずはそれを祈るしかないな」


「何者なのかしら。あれがお婆さんの言っていた──」


「ワイルドハント」


 三人の視線がアトラに集まる。中央の灯火を照り返して、皆の瞳は赤く輝いていた。


「それはいかなるものかね」


「グリム兄弟の兄ヤーコプが見出した物語の類型です。彼らには神々や魔女、王や英雄、悪党、果ては子供までもいて、その根源はオーディンの『渡り』にあるとされている」


「英雄と悪党なんて真逆で統一性がないわね。どうして悪魔扱いされるのかしら」


「そりゃあ、ほかの信仰にとって都合が悪いからだろうな。悪魔なんて、古い神々を蔑むレッテルに過ぎない。しかしわからんな。オーディンは死んだ神だろう?」


「ラグナロクで滅んでしまったのよね」


「……これは僕が以前から考えていたことだけど」


 アトラは両手を組んで、膝に肘をつき、ランタンを見据えながら語り始める。


「ゲルマンの神々は、死者の魂を死の種類によって分担し、管理していた。オーディンは来たるべき終末の日──ラグナロクに備えて人の世に戦乱を巻き起こし、神に仕える兵士エインヘリヤルとすべく、戦場に散った英雄たちの魂を集めていた。


 それを分け合う女神フレイヤは女性の魂を司った。女神ゲフィオンは乙女のまま死んだ者を、海神エーギルは海で死んだ者を、そして病や老衰で死んだ者は冥府の女神ヘルが司る。彼女はおそらく、罪深い人間の魂をも管理していた。


 神々は死後どこへゆくだろうか? オーディンの息子バルドルが死んだとき、その魂はヘルの元へと向かった。冥界ヘルヘイムの女王であるヘルには、死者を蘇らせるちからがあったからだ。


 神々がバルドルの復活をヘルに頼むと、ヘルの父であるトリックスターのロキが邪魔をした。神々と巨人が死力を尽くしラグナロクが終わりを迎えると、バルドルは兄弟と共に蘇り、人間を見守る神の一柱になる」


「神々は全員が死んだわけじゃないのね」


「そう。ヴァイキングには女の人もいたけれど、女神たちが戦ったとは思えない。男神であっても、エーギルに至っては戦いにすら参加していない。ゲルマンの世界観である九つの世界は戦いで焼き払われ、エーギルの支配する海にいちど飲み込まれ、再び現れる。


 では、ヘルヘイムはどうなった? 蘇った神々が限られているということは、つまり、少なくともヘルはオーディンを含めた神々を幽閉したはずだ。主神が斃され、生き残った神々の眷族すべてが、世界を人間の手に委ねることに納得しただろうか? オーディンがヘルヘイムに囚われているとするならば、残された者たちが動かない理由はない」


「なるほど。残存する勢力が暗躍しているというわけか」


「神々がヘルにバルドルの復活を請い願ったように、死者の完全なる復活を為せるのは、おそらくヘル、ただ一柱。でも、不完全な復活なら?


 フレイヤと同一視される女神グルヴェイグは、槍に三度貫かれ三度焼かれてもそのたびに蘇った。フレイヤの夫オーズと同一視されるスヴィプダグは、母の影を呼び出し助けを乞うた。

 オーディンに仕えた戦乙女ヒルドルは、戦場で死者を蘇らせ続け、ラグナロクに至るまで延々と争わせた。何度も蘇るカーラは、まさに《荒ぶるものワイルド・ワン》を意味した」


 影占い師は何か思うところがあるのか、顎に手を当て「ふむ」ともらした。


「彼らの中に、主神の復活を願う者がいるとすれば。オーディンが罪人としてヘルヘイムの奥深くに幽閉されているとすれば。冥界へとたどり着ける悪しき心をもった人の魂を、今度はエインヘリヤルに代わる新たなる兵士として集めているとすれば。


 《神々の黄昏》と呼ばれるラグナロクに対する《神々の夜明け》。その戦いに必要な兵士、それこそが、ワイルドハントなのではないだろうか」


 アトラは話に区切りがつくと、満足して深く息をつく。すっかり静まり返った三人は、みな呆気に取られたように自分を見つめていた。


「どうしたの? みんなそんな顔をして」


「驚いた」


「うん」


 ジャドが短く答えると、フラガリアも続いた。


「でしょう? これは僕の想像に過ぎないけど、彼らが本当にそんなことを考えていたら大変だよ!」


「いや、おれたちが言いたいのはそういうことではなくてだな……」


「うん……」


「え?」


 アトラはわけもわからず首をかしげた。


「お前さんってこんなに喋る奴だったんだな」


 黙ってコクコクうなずく少女。キースリーとブッカまでもが首を振ったように見えた。


「なっ……! ジャドさんなんて出会ってからずっと喋っているし、フラガリアも歴史の話が出るなり熱くなっていたじゃないか!」


「一割も言わずに止められたわよ」


 少年は頬が紅潮するのを自覚しながら、早めに止めて良かったと思った。


「やれやれ。まあ、こうなってしまった以上、その知識もあながち無駄にはなるまいて。連中が何者かは知らんが、ダウを救うには今一度、奴らと相まみえることになるだろう」


 茶化す男の表情が真面目なものに変わると、黙っていた初老の男が口を挟む。


「私は確実に、あの男の眉間を射抜いたはずだ……」


「ふむ。お前さんが言うのなら、やはり連中はただものではない。キースリーは射撃の腕を買われて、あの組織に入ったんだからな」


 アトラはレドリーについて、子供のころに伝え聞いた淡い記憶しかなかった。だがどういうわけか、その男が死んでいるのは確かなように思われた。


「過ちだった。娘が殺されたのも、すべて私の責任だ」


「組織って?」


 フラガリアが臆せずに尋ねる。


「……窃盗団だ。私は故買屋に関わっていたんだ。ダウも私も、レドリーの死体と引き換えに組織を抜けるつもりだった。金に困った私を射撃仲間が紹介してくれた先が、そこだった。断れず、家族ぐるみで悪事に手を染めた。


 ある日、娘はロンドンで、抜け出せない沼にはまり込んでいた青年を拾ってきた。それがダウだ。だが、私たちは与えられる仕事にどうしても抵抗があった。逃げ出そうとして、あの男に弱みを握られた。


 信じてはもらえないだろうが、人に向けて撃ったのはさっきのが初めてだ」


「信じますよ」


 少女は穏やかに言葉を返した。

 アトラは、キースリーが同じような想いを抱えてきたことを知る。すべて自分の責任。そのとおりかもしれない。それでも、自身もこの悲しい父親の力になりたいと思った。


 己を取り囲む人々を思う。いったいどれほどの者たちが自分を励まそうとしてきたか、見えていなかったことに気づかされる。


 うつむき、耳を塞ぎ、心の扉を閉ざす。そして、行き詰まった状況をある意味では肯定し、その惨めな姿こそ罪深きわが身にふさわしいと断じていたのだ。


 しかし、周りはそうではなかった。自分は差し伸べられた手を取ってもよいのだろうか。フラガリアに核心をつかれ、渦巻く自責の念に堪えられなくなった時、助けてくれとつい口に出た言葉こそ本心ではなかったか。


「──じゃあ、ジャドとダウさんもやっぱり悪い人なの?」


 フラガリアは聞きづらいことをいた。


「おれは単に盗まれた物を探して出入りしていただけさ。ダウの奴はがたいが良いから、立っているだけで役に立つんだよ。


 しかし今、そんなことはどうでもいい。考えるべきはどうすればあの連中──ワイルドハントをどうにかできるかだ。弾が効かないとなれば、何か手を打たねばなるまい。お前さん、知っていることはないか?」


 問われたアトラは頭をひねる。


「うーん、弱点か。物語におけるワイルドハントは大人向けブギーマンのようなもので、戦うというよりは知恵比べが多い。塩に関する逸話なら読んだ記憶があります」


「塩をあげれば帰ってくれるの?」


「ははっ、そんな馬鹿な」


「ソルトはサラリーやソルジャーの語源でしょ。彼らが兵士なら、地獄の沙汰も金次第ということじゃないかしら」


「塩は退魔の効果で知られる。聖水の材料に使われることもあるようだ。連中が仮初の命を与えられた存在だとするならば、ひょっとしてそれが効くのかもしれないな」


「聞いたことはあるわね」


「この国は海に囲まれてはいるが、天候不順によって慢性的に塩不足で悩まされてきたと聞く。森が少ないのは、塩を精製するために木々を伐採しすぎたのも一因だと。

 だから、ほかの国のように、厄払いで贅沢に使うのを見たことはないかもしれないが──」


「ところで」

 キースリーがジャドを遮った。

「誰か塩を持っているのか?」


 途端に沈黙する三人。白い仔山羊も真似をして肩を落とした。


「キースリー、お前さん銀の弾は持っていないのか?」


「そんな物あるわけがない」


 期待が失望に変わり、皆はため息をついた。そんなとき少女があることに気づく。


「あら、あの子どこに行っちゃったのかしら?」


 言われて辺りを見まわすと、すぐそばを飛んでいたピスキーの姿が無かった。


「どうしよう。心配だわ」


「案ずることはない。ここはあの子が住む森だろう」


「そうかもしれないけど……」


 アトラは、森の中に一瞬ちらりと光る青いもの見た気がして、すかさず指し示した。


「待って、あそこに何か見えた」


 暗闇に浮かぶ木々の間から、火の玉が現れては消えを繰り返している。それはまるで、森の奥へといざなうかのようにも見えた。


「また厄介なことが起こりそうだな」


「あてもないし、付いて行ってみる?」


「どうなっても知らんぞ」


 フラガリアがランタンを取ると、アトラは尻の汚れをはたく。四人と仔山羊の妖精は、現れた青い燐火を追って、森の茂みへと足を踏み入れていった。

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