ヴァット王妃ステファニー視点

助けて

 もう、耐えられなかった。

 もう、逃げ出したかった。


 けれど元子爵令嬢である私の両肩にかかる重責は重く、捨てることができないもの。


 そんなとき、ツェツィーリア様を思い出した。

 ツェツィーリア様は、セントラル・ヴェリテ学園に入学した際に親しくさせていただいたエインスボルト王国の第一王女殿下。


 私がツェツィーリア様のお父上である王配殿下を尊敬していると知られてからは、王配殿下直筆の翻訳本を頂いたり、その御礼にとお父様に頼んで、手のひらサイズのジェードの原石をお渡ししたりした。

 …ツェツィーリア様は、言語学もそうだけれど鉱石や化石が大変お好きなの。考古学、といったらいいのかしら。古い時代の神秘を追い求めるのが浪漫なんですって。ジェードは周辺国では手に入らないから、とても喜ばれていたわ。


 そのご縁で、留学中はとても楽しく過ごすことができたの。

 お父様とお母様に好きな方が出来たと伝えた。相手のことも伝えたら、良いお方だと、卒業前に婚約の申し込みをしようと言ってくれて。相手の方も私のことが好きだと、返してくれて。


 幸せに、なれると思っていたの。


 最終学年に進学する前に王命で国に戻ることになって、退学せざるを得なかった。

 ツェツィーリア様から「困ったらわたくしに頼って!力になるわ」と、社交辞令でも言っていただけたの。


 だから、だから…本当は、ツェツィーリア様にご迷惑がかかることだと分かってる。

 手紙の内容は至って普通の、友人向けのやり取り。けれど便箋の飾りに見せかけるようにベガルド語で現状を綴った。



 助けて、と。



 そこから間もないうちにエインスボルト女王フィーネ様からご招待頂き、私は数年ぶりに出国し、表向きはエインスボルト王国へ親善のために訪問することが出来た。

 フィーネ様からのご招待では夫妻で、とあったけれど陛下は「忙しいからステファニーだけで行ってくれ」の一言で私ひとりだけ。


 でも、それは私にとっては好都合だった。

 だって本来の目的は親善じゃないから。



『……さてと。これでいいだろう』


 部屋に人払いと遮音の結界を張ったエインスボルト王国第一王子、エヴァン様が私の向かいに腰を下ろした。

 その隣には、ツェツィーリア様が座られている。この部屋には三人だけ。

 私が王命で退学してから六年経過しているけれど、おふたりとも相変わらずお美しいわ。


『ステファニー様、お話いただけますか?』

『……私を、王から助けて欲しいのです』


 エインスボルト語で簡潔に述べる。

 遮音結界が施されたこの部屋で吐露した言葉は、王妃として出して良い言葉ではない。


 王から逃げたい。離婚したい、と言っているようなものだから。

 本来であれば私自身の力でなんとかすべき事案なのだろうけど、私にそんな力はない。実家も元は子爵家。


 …どうして子爵家の娘が王妃となれたのか。

 簡潔に言えば、国内でも有数の経済力を持っていた子爵家我が家に、財政難の王家が王命を出したから。


 子爵家程度がなぜそんなに経済力を持っていたのかというと、我が家は二世代程前はただの商人で、国へ多大なる貢献をしたということで叙爵されたから。領地は保有していない。国内最大と謳われるクォール商会を管理しているの。


 ヴァット王国は海に面する国で、この大陸でも五指に入るほどの広大な港を持つ。

 ヴァット王国から北西に二~三カ国程離れると、標高数千メートルにも及ぶ連峰に阻まれ、その他は海に面しているため交易がし辛い立地になっている。そのため、ヴァット王国はこの陸の孤島となっている六カ国の玄関窓口である海洋貿易の要所として栄えていた。


 その、海洋貿易で手腕を振るい王族が保有する私財よりも財力があると言われていたのが我が家だった。


 ―― もちろん、船が沈んだり海賊や海洋モンスターに襲われて巨大な損失を被ったこともあるわ。

 けれどそれをバネに成長を続けてきたのが、仇になった。


『途中退学されたのも、結婚も…いま、ステファニー様が周囲からと呼ばれるようになったのも、現ヴァット王のせいなのね』

『…よくご存知で』

『…ごめんなさい。どうしても、退学されていったあなたの様子で気になってしまってお母様に頼んで、時々ヴァット王国の様子を見てもらっていたの』


 …本当に、ツェツィーリア様はお優しい方だと思う。

 学友とはいえ、私は子爵令嬢。ツェツィーリア様は第一王女。しかも私は隣国に戻る留学生の身だった。

 その後を気にかけていただく必要など、なかったのに。


 エヴァン様はじっと私を見つめてくださっている。

 その視線には優しさが含まれていて、私は泣きそうになったのを堪えた。


『…連れ戻されて王命による結婚。ヴァット王国の王立学園で在籍した一年の間に同い年の…当時王太子殿下だった陛下と仲が深めれば良かったのですが…』


 ぐ、と言葉に詰まった。

 その言葉を引き継ぐように、エヴァン様が呟く。


『…王にはすでに恋仲の人がいたんだな』

『……はい』


 ベルリア伯爵家のご令嬢、カタリナ様。

 陛下が王立学園に入学後しばらくしてから仲が良くなり、恋仲になったのだという。

 ヴァット王国では伯爵位以上であれば正妃になることができる。だからこそ、カタリナ様が正妃になられるのだと学園では誰しもが思っていたところに ―― あの、王命。


 ベルリア伯爵家では王族を支えきれないことは社交界では周知の事実。

 だからクォンタム子爵家に白羽の矢が立った。それでクォンタムは子爵から、王家に嫁ぐことができる伯爵へと無理やり陞爵しょうしゃくされた。

 大人たちは事情を理解していた。けれど、未成年の生徒たちはそうでもない。

 ああ、思い出したくもないことを思い出して、膝の上に置いた手を握りしめる。


『も、申し訳ない』

『いえ…』


 私の様子の変化に気づかれたエヴァン様が慌てたように謝ってくださったけど、本来なら私は悟られないようにしなければならない。

 王妃教育ではそう叩き込まれた。それはそうだ、社交界や外交で感情を悟られては不利になることもある。


 でも今は、今だけは。

 ツェツィーリア様たちの前でだけは、そんなものかなぐり捨てたい。

 それを許してくださるからこそ、この部屋に人払いと遮音結界を張ってくださったのだから。


 ボロボロと涙が勝手に出てきた。手の甲にパタパタと落ちていく涙を見て、エヴァン様がギョッとして腰を浮かした。

 エヴァン様がハンカチを差し出してくださったので、ありがたく受け取って涙を吸わせる。


『……ご、めんなさい』

「仔細をご説明願えますか。ステファニー様」


 エヴァン様からヴァット語でゆっくりと告げられたその言葉に、私は言葉を失った。

 いいの?

 いいの?助けを求めても。


 だって、私を助けてもエインスボルトには何の利はない。むしろ、厄介事を背負い込むことになるかもしれないのに。


 でも私にはもう、耐えられない。



「初夜、に…っ、白い結婚を、と言われて…!」

「なんですって」

「私、私だって、あの方と!添い遂げたかったのにっ、あんな人と結婚なんて嫌だったのに!!」


 一度、堰を切った感情は止まらなくなった。


 国に戻ってからすぐに結婚させられ、王太子妃になったこと。

 金を使って陛下とカタリナ様の間を引き裂いた悪女だと周囲から罵られたこと。

 帰国してから翌年には当時王太子だった陛下が即位され王妃となってすぐ、カタリナ様が側妃として嫁いでこられ、学生時代からの恋仲であるおふたりが結婚されたと社交界でもしばらくは噂されたこと。

 当然、”真実の愛”を邪魔したとされる私は針の筵状態であったこと。

 他国が絡む式典や行事等でのエスコートは最低限してくださるが、国内のみとなるとエスコートするのはカタリナ様。それをおかしいと言う者はいない。むしろ、私が陛下の隣に立つことがおかしいと言う者さえいる始末。


 公務はほぼ私に丸投げで、私には休まる時間がほとんどない。

 王宮で働く者たちからの嫌がらせもあり、私の食事がないときもあれば私に回される書類に文官が処理しておくべきものが含まれることもある。表立っては宰相のレガール卿、裏ではウォレット侯爵とカリスト伯爵が味方してくれているけど微々たるもので。

 私の功績もすべて信じていた侍女の裏切りによってカタリナ様の功績になっていたこと。

 お父様もお母様も色々と手を尽くしてくださったけれど、どうにもならなかったこと。


 本当はツェツィーリア様やエヴァン様にお伝えすることじゃない。

 でももう、もう、限界だった。

 死にたい。死んでしまいたい。


 止まらない涙と共にそう、思いを吐露してしまった。

 ツェツィーリア様方でもどうにもならないことは分かってる。分かってるの。


「貴女の想い人のお名前、差し支えなければお聞きしても?」

「シェル様…グランパス伯爵家の、シェルジオ様です」


 シェルジオ様は、ここエインスボルトのセントラル・ヴェリテ学園に留学中に知り合った。


 いつも中庭でぼーっとしている姿に少し心配になって、話しかけたのがきっかけ。

 グランパス伯爵家は代々竜人族の血を引き継いでおり、シェルジオ様は先祖返りされた方で、爬虫類に似た縦長の瞳孔の金色の瞳、燃えるような赤い髪に赤黒い角をお持ちの方だった。

 一見すると強面でちょっと恐ろしかったのだけれど、話しかけると意外と優しい方で、ぼんやりとしていた理由は「空がきれいだったから」と。また「雲の形が変わっていく様子を見るのが楽しい」とも。

 空模様なんて天気のことしか気にしていなかった私には、意外な観点だったの。


 それから、私も時々空の観察に参加するようになった。

 あれは魚の形に見える、あれは鳥だろうか、それとも…と話していくうちに、お互いを愛称で呼ぶほどに親しくなれた。

 当時は私にもシェルジオ様にも婚約者はおらず、私は留学生ということもあって気楽な部分があったのだと思う。


 接していくうちに私は、シェルジオ様 ―― シェル様が好きになってしまった。

 シェル様はタレ目気味で、真面目な顔は強面だけれど笑うと愛らしい。それにとても親切で、私が紅茶が好きだと知ると都内にあるカフェに案内してくださり、ここの紅茶がオススメだと教えてくださったり。

 あまり座学は得意ではないのだと、口を尖らせたり。

 時折、優しく頭を撫でてくださるその大きな手にドキドキしたりした。


 グランパス伯爵家はエインスボルト王国に存在するいくつかの騎士団のひとつ竜騎士団の団長、または副団長を代々務めることが多い実力派の家系。

 海洋貿易をしている我が家も荒事に対応することもあり、もし夫を迎えたり嫁ぐのであれば商いに才がある者か、武力を持つ者と言われていたからピッタリだというのもあったと思う。


 シェル様から告白された。

 ただ、結婚は竜人の成人まで待って欲しいと。

 私も告白を返したわ。あなたが好きって。待ってるって。

 両想いだったと分かってお互い舞い上がった。両家の当主にも連絡して、婚約の準備を進めていた。


 ―― もっと、もっと早く。婚約締結をお願いしていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。いいえ、王命だから無理だったかもしれないわ。


『……お兄様。グランパス卿って、婚約者まだいらっしゃらないわよね?』

『そうだな。すぐに連絡をとらせよう』

「えっ」


 聞き取れた内容に驚いて思わずハンカチから顔を上げた。

 エヴァン様は至って真剣な表情をしているし、ツェツィーリア様は「名案だわ!」と明るい表情。


「お、お待ちください!シェ…グランパス様にそのようなご迷惑は!」

「迷惑じゃないわ!むしろ、何も伝えない方がグランパス卿を悲しませるだけだもの」

「はは、シェルジオがすっ飛んでくるな」


 そんな。だって、でも。

 ああ…お会いできると喜んでいる私がいる。


「そうだわ。ステファニー様、ちょっと気になっていたのだけれども」

「はい」

「…どうして、あの手紙を出すまで我慢していたの?」


 私が結婚してから六年。

 現状にどうして六年も耐える必要があったのか。

 …そうね。私も逃げ出したかったわ。でも、ふたつ事情がある。


「…ツェツィーリア様、エヴァン様、ヴァット王国では…王と王妃は非常に離婚し辛いのです」

「そうなの?」

「はい。それと…祭司長様からエレヴェド様からのお告げをいただきました」


 ツェツィーリア様とエヴァン様が目を丸くして私を見る。

 …通常、祭司長様、いや、エレヴェド様はお告げを出すことは滅多にないから。私もいただいたときは心底驚いたもの。


「私が結婚してすぐの頃、我が国の大神殿を訪問されたことがあったのです。王妃としてご挨拶した際に、こっそり伝えられまして」



 ―― エレヴェド様からのお言葉を。『辛いだろうが、今の夫が即位してから五年耐えた後、心を預けられる友を頼りなさい。そこからあなたは救われるだろう』



 すぐにでも相談したかった。けれどエレヴェド様からのお言葉から考えると、当時王太子だった陛下の即位は翌年に控えていたからあと六年。

 だから、耐えたのだ。

 どうして陛下が即位してから五年なのか分からなかったのだけどきっと何か、理由があるのだと思って。


『…お兄様どうしましょう。わたくし、ステファニー様に【心を預けられる友】と言っていただけたわ!』

『良かったな』

「ステファニー様!ぜひ、ぜひわたくしのことはツェツィとお呼びくださいな!」

「…それでは、私のことはステフと」

『やったわお兄様!』

『はいはいどうどう』


 興奮して喜ぶツェツィーリア様…ツェツィ様に、思わず頬が緩む。

 エヴァン様はツェツィ様に苦笑いを浮かべつつ、私を安心させるように微笑んでくれた。


「まずはひとつずつ、片付けていこう」

「…はい」

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