第二章 そんなの恥ずかしいに決まってるじゃないですか!

侯爵令嬢ジャネット視点

気づいたら溺愛されて、事が終わっていました


 第一印象は、優しげな雰囲気の方だった。

 ややくせっ毛の茶髪に、王家の血筋を現す金から紫にグラデーションがかった瞳。

 エインスボルト王国第二王子、ゲオルグ殿下。

 わたくしは今日、この方の婚約者となったのでそのご挨拶に伺っていたのだ。


「グェンジャー侯爵家が娘、ジャネットと申します。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします」


 練習で培ったカーテシーは、自己評価で低く見積もっても乱れはない。

 殿下は微笑むと、そっと手を差し出してくれた。


「こちらこそよろしく、ゲオルグだ。名を呼んでも?私も名で呼んでほしい」

「はい、ゲオルグ様」


 こうして、十五歳の冬。

 わたくしはゲオルグ第二王子殿下の婚約者となった。





 ゲオルグ様は我が家に婿入りする形で臣籍降下される。

 すでに第一王女である王太女殿下は夫君を得てお子様もいらっしゃるし、第一王子殿下もいらっしゃることからある意味「もうスペアは不要」と王家に判断されたのだと思う。


 この国は基本、血縁者の能力に応じて後継者が決まる。

 場合によっては自身の子息子女では能力が足りないため、親戚筋から養子を入れて継がせることもあるぐらいだ。

 王太女殿下は第二子ではあるが能力も申し分ないという評判がほとんど。

 唯一苦手なものは語学らしいが、そこは夫君がサポートされているとのことだ。


 王家で唯一人、臣籍降下することになったゲオルグ様の心境は分からない。

 学業に励む傍らわたくしと共に領地経営に関するノウハウも学ぶ。

 婚約者としての交流もあるし、贈り物もいただいている。けれど、恋愛小説にあるような心躍るやり取りはない。

 政略結婚なのだから、それは仕方ないこと。


 …と、思っていたら、最近は少しドキッとすることが増えた。

 いかにも義務だという態度がチラホラ見えていたのだけど、ある日それがすっかりなくなってわたくしと交流してくださるようになった。わたくしの好みを気にしてくださったり、話題を合わせよう勉強してくださったのが垣間見えるようになって、心から笑い合える日が増えた。

 そうやって共に学び、笑い合っていくうちにわたくしは少しずつ、少しずつゲオルグ様をお慕いするようになっていったわ。

 ―― ゲオルグ様がどう思っているのかは、分からないけれど。わたくしと同じ気持ちだと良いなと、思っている。



 この国では、身分に関わらずすべての国民がすべからく学び舎に入ることが義務付けられている。

 国内にいくつか学園が存在し、その中でも王都にあるここセントラル・ヴェリテ学園は貴族や平民でも成績優秀な者たちが集まるところ。

 原則、貴族は家庭教師がつけられるため下位貴族でも最低限のマナーは備わっている。

 また貴族といっても、領地の経済が芳しくなかったり、自然災害・モンスターによる被害によって金銭面で家庭教師が呼べなかった貴族の場合は各地にある領地に近い学園で学べるようにもなっていて、取りこぼしがないようになっているの。

 ここは遠方から来る者たち向けに学園寮が備わっており、これも金銭面が苦しい場合は審査が通れば飲食費以外は無償で住むことが可能。



 実力がある平民にも門戸が開かれた学園内の風紀は、さして悪くはないわ。

 平民にも下位貴族向けのマナー講習の授業が施されるから。

 なぜなら彼らの中で、成績優秀な者は王宮で文官や騎士として働けるようになる。

 文官の長は総じて貴族が多い。接する機会が多いので予めここで身につけておこう、というのが目的。

 下位貴族向けのマナーは、商人が世界各国へ飛び回るときにも役に立つと言われている。

 だから皆、マナーが習得できていない者は平民・貴族に関わらず励むのよ。



 ―― 目の前のような、例外を除いては。



「…もう一度仰ってくださる?」

「ですから!私、ゲオルグ様と愛し合ってるんです!」


 嫌悪で表情が崩れそうになるのを抑えて、じっと彼女を見つめる。

 ピンクブロンドにくりくりとした丸い瞳はまあ、世間一般で可愛らしいと言われるでしょう。

 その立ち振る舞いはとても「可愛い」とは思えないけれど。


「あなた、ゲオルグ様の婚約者がわたくしであることを知ってその発言なのかしら」

「そうじゃなければ言いに来ません!」


 人払いをした空間でもない、ただの廊下。

 当然人はいるわけで、ざわりと周囲がざわめいた。


 …愛し合ってる。愛し合ってるですって?

 ゲオルグ様はわたくしと婚約してからは最初こそ義務的だったけれど、今はとても大切にしてくださっている。それは言われなくとも彼の振る舞いからも分かること。

 でも政略による婚姻だもの。愛してるだのなんだのは言われたこともない。

 わたくしから言ったことがない、というのもあるかもしれないけれど。


 ゲオルグ様は、彼女に愛を囁いたと?


「…そう。それで?」

「え?」

「ゲオルグ様とあなたが愛し合っているとしましょう。あなたは何をしたいの?わたくしに何を求めているの?」

「あ、え、えと…グェンジャー様に認めていただきたいんです。おふたりが政略での婚約とは知っています。ゲオルグ様がグェンジャー侯爵家に婿入りされるのも。ですので、女侯爵となられるグェンジャー様に私がゲオルグ様の愛人であることを認めていただきたくて!」


 目眩がした。

 現状を理解せずゲオルグ様が王族のままわたくしが第二王子妃となり自分は側妃になるんだと言うのかと思えば、現状を理解した上で、ゲオルグ様の愛人としてグェンジャー家に来ることを認めろ、ですって?


「宝石もドレスもいりません。子もいりません。ただ、ゲオルグ様と時折過ごさせていただければ私は十分ですので、どうか」


 ただただ、純粋にゲオルグ様を慕っているのだと真剣な眼差しで告げる彼女にぐらりと視界が揺れる。

 それでも倒れない、悟らせないようにするのはわたくしのちっぽけなプライド。


「―― 爵位を継いでいないわたくしの一存ではお答えできないわ。ただ、あなたの話は覚えておいてあげる」

「ありがとうございます!」


 ぱあ、と嬉しそうに笑った彼女。

 わたくしはそれを一瞥するとその場を立ち去った。

 心配そうにわたくしの後を追ってくる友人たちを振り返る余裕はない。

 本当は余裕を持って、友人たちと会話するのがいい。頭ではそう分かっていてもどうにもできなかった。


 脳裏にゲオルグ様との思い出が蘇る。

 つい最近のデートのことまで。とても、とても楽しかったの。

 ゲオルグ様も「ジャネット嬢といると落ち着くし、楽しいよ」と仰ってくださったの。

 それは、偽りだったということ?ゲオルグ様を信じるべきだとどこかでは分かっているけれど、胸の内は嵐のようだ。


 …そういえば、彼女。

 どこの誰なのかしら。名乗りもしないあの振る舞いからして少なくとも貴族の子女ではないような。





 彼女の直訴から一週間後。もとから予定されていた観劇デートの日。

 その間もお茶会はあったけど、ゲオルグ様は何事もないかのように普段通りだ。

 お優しいし、話題も豊富。わたくしを楽しませようとしてくださる。


 …政略結婚だということは分かっているわ。

 でも、わたくしだってお慕いしてるのに。

 そんなことを考えながら、わたくしは幕が上がった舞台を見つめた。



 ―― 予定していた観劇を終えて。

 劇場の近くにあるレストランの個室で、ゲオルグ様と先ほどの舞台の感想を言い合う。

 内容は勧善懲悪のようなもので、過去に実際にあった話をベースにしたものらしい。


 魅了魔導具の制限がまだかかっていなかった頃の話。

 お互い愛し合っていた恋人同士であるゲイザーとエレナ。ところが、ゲイザーに横恋慕したヴェルミナが魅了魔導具を使いゲイザーが惑わされ、仲が引き裂かれる。

 エレナの方はなんとか解呪しようと足掻くが、ヴェルミナの方が上手で空回りするばかり。

 ついには魅了魔導具は同性にも及び、エレナは街ぐるみで虐待紛いの扱いを受けるようになる。

 とうとうその辛さに耐えかね、命を絶とうとしたそのとき、彼女に救いの手が差し伸べられた ――。


「わたくし個人としては、エレナに手を差し伸べたザックスとのあの場面にとても心打たれましたの」

「ああ、あの場面は私もとても良かったと思う。よくぞ、エレナに手を差し伸べた!ってね」


 ゲオルグ様も同じ感想を!

 そう思うと、心が弾む。


「そう、そうなんですの!直前までのエレナに対する仕打ちがあまりにもと思っていたところでしたので、ザックスがエレナに救いの手を差し出したあの場面が…」


 そこまで喋って我に返る。

 嫌だわ、外なのに無邪気にはしゃいでしまって。咳払いをして「申し訳ございません」と微笑む。


「はしたのうございました」


 淑女として、はしゃいで感想を述べるのはよろしくないわ。

 ここは個室だけど、屋敷の中ではない。信頼のおける侍従や侍女たちしかいないけれど、万が一ということもあるのだ。


「気にしなくていいのに」

「いえ、わたくしはグェンジャーに連なる者、ゲオルグ様の婚約者でもあります。外の者に見られる場所でこのような振る舞いはふさわしくありませんわ」


 自邸であれば、どんなにはしゃいでもいいんだけれど。

 そう思っていると、ゲオルグ様が不意に手を上げる。離れていた侍従のレオンがさっと寄ってきた。


「レオン、グェンジャー侯爵家に先触れを。ジャネット嬢をお送りがてら、少しお邪魔したいと」

「畏まりました」

「ゲオルグ様?」

「外でなければ問題ないんだろう?私としてはもう少し感想を言い合いたいのだが…」


 ダメだっただろうか?と首を傾げられた。

 ゲオルグ様は時折格好いいと感じたり、可愛らしいと感じたりすることがある。

 今は可愛らしい。同い年のはずなのに。それにちょっと胸がきゅんとしつつも「いいえ」と答えた。


「ジャネット嬢」

「はい」

「君に伝えておきたいことがあって」


 とうとう来た、と自然と表情が引き締まる。


 あの後調べたら、訴えてきた彼女はミーナ・ウェーバー。ウェーバー男爵家の一人娘。

 下位貴族の振る舞いすら身に着けていなかった彼女にどこに惹かれたのかしら。


 でも、嫌だわ。ゲオルグ様の口からウェーバー様を「愛してるから愛人に」なんて言われたくない。

 それなら先手必勝、理解していると先に言ってしまえばいい。


 …本当は嫌。

 でも、ゲオルグ様と一緒にいられるならそのぐらいは飲み込んで見せる。だってわたくしは誇り高いグェンジャー侯爵家の嫡子なのだから。

 ぎゅ、と膝の上の手を握りしめた。


「ウェーバー様のことですよね?大丈夫です、きちんと仕事をしていただければわたくしとて愛人を持つことを拒否いたしませんわ」


 ゲオルグ様の瞳が大きく見開かれる。


「…ジャネット嬢?」

「ただ、もう少し知識をつけていただきたいものです。何度かお話させていただきましたけど、高位貴族に求められる常識をお持ちではないようですので…そちらは、ゲオルグ様が手配いただけますか?さすがに愛人の教育は、」

「ジャネット嬢、ちょっと待ってくれ」

「はい?」


 一気に捲し立てたところ、止められた。

 それでゲオルグ様の様子を伺うと、頭を抱えている。

 あ、あら…?どうしたのかしら。


「ゲオルグ様…?」

「私はそのウェーバーとやらを知らない」

「……え」

「付き纏ってくる女生徒がいるにはいるが、周囲を飛び回る羽虫ぐらいの認識しかない」

「は、え、むし?」


 え?愛し合ってるのではなくて?だって、ウェーバー様はあんな堂々とわたくしにお願いしに来たのよ?

 混乱するわたくしを他所に、席を立ったゲオルグ様が傍に来て、跪く。


「不安にさせてすまなかった、ジャネット嬢。誓って、私はそのウェーバーとやらと懇意にしていない」


 うそ。ほんとう?

 思わず口を噤む。言葉が出てこない。


 ゲオルグ様から手を差し伸べられる。恐る恐るそれに手を伸ばせば、手の甲に口づけを落とされた。


「ゲオルグ様」

「適当にあしらっていたんだが、それが勘違いされたようだ。エディアルにもついてもらって、そのウェーバーとやらに会って私は愛人を持つつもりもないし、愛し合ってもいないときちんと話そう」


 体から力が抜ける。

 …信じてみよう。一度だけ、一度だけ。

 そう思って頷けば、ゲオルグ様は嬉しそうに笑われた。

 その表情に、今までモヤモヤしていた胸中が少しだけ、晴れた気がした。





 ―― それから、数日後のお昼休み。

 王族またはその婚約者のみが利用できるサロンに招待されて足を踏み入れれば、ややげっそりとしたゲオルグ様が座っていた。


「ああ、ジャネット嬢。悪いね呼び出す形になって」

「いいえ…どうなされたのです?」

「…少し、悩んでいたんだ」


 何を、と聞く前に座るように促されて、椅子に腰を下ろす。

 深くため息を吐いたゲオルグ様は、苦笑いを浮かべた。


「本当は私ひとりでどうにかしたかったんだが、ジャネット嬢に協力してもらった方がより良い形で退治できそうでね。申し訳ないが、協力してほしい」

「退治?」

「羽虫のことだよ」

「羽虫…って、まさかウェーバー様のことですか!?」


 そんな名前だったかも、と恍けるゲオルグ様に目を瞬かせる。

 ゲオルグ様が名前を覚える気もないほどに興味がないのに、ウェーバー様があんなに「愛し合っている」と自信満々だったのはどういうことなの…?

 頬杖をついて、ゲオルグ様は続けた。


「エディアルから聞いているかい?」

「エディからですか?ええ、ゲオルグ様が人目がある場所ではっきりと迷惑だとお断りした…え、まさか効果がなかったと?」

「そう。全く効果がない。『ゲオルグ様ってばツンデレなんですね!大丈夫です、ジャネット様に許可はいただきましたから!』って今まで以上に付き纏われている」


 視線を受けて首を横に振る。

 あの訴え以降、わたくしと彼女は顔を合わせたこともない。

 それにそもそもゲオルグ様の愛人として認めた覚えも、彼女に名を呼ぶ許可を与えた覚えもないのに。

 ため息を吐いてゲオルグ様は「分かってる」と呟かれた。


「そこで、ジャネット嬢」

「はい」

「あれには私たちが相思相愛であれが入り込む隙間等ないことを知らしめたいと思っている」

「…なるほど。具体的には、どのように?」

「距離感を詰める。今まで、私は君に対して婚前の男女として適切な距離感を保ってきた。例えば、今のように座るのは向かい合わせ、隣に座ることがあっても腕を伸ばしたら触れるほどだ」

「はい」

「それを、このようにする」


 席を立ち、椅子を持って移動されるゲオルグ様の挙動を見守る。

 移動先はわたくしの隣…だけど、置いた椅子の位置は少し腕を動かせば触れ合うほどの距離。座ったゲオルグ様からふわりと優しい香水の香りが鼻孔をくすぐる。

 目を丸くするわたくしをよそにゲオルグ様は、微笑んだ。


「こうやって、隣に座るときも距離はなるべくあけないようにするんだ」

「…たしかに、今までのわたくしたちからすると大分近いですわね」


 エスコートのときよりも近いその距離に、胸の鼓動がゲオルグ様に聞こえるんじゃないかと思うぐらい早鐘をうっている。

 でも、わたくしは淑女にならねば。このぐらいのことで動揺してはならないわ。


「さらに」

「さらに?」

「お互いの呼び名を変えよう。今まで私はジャネット嬢、ジャネット嬢はゲオルグと呼んでいただろう?」

「愛称等で呼び合うことで、親密さを出すのですね」

「そう。ディック…ああ、私のクラスにいる平民の生徒なんだけど、彼ら平民は恋人同士は愛称で呼び合っていちゃついてることが多いらしい。そこで、私はジャナと君を呼ぼうと思っている…許してくれるかい?」


 家族や気が置けない友人にだけ許している愛称。

 でも、そうね。婚約者なのだから、愛称呼びしていても問題ないわ。いちゃ…?なんとかは分からないけれど。

 頷けばゲオルグ様は「ありがとう」と笑う。

 ではわたくしも…でも愛称はなかなかにハードルが高いわ。少し緊張してしまう。


「……ゲール様?」


 距離が近いゲオルグ様の顔を見上げながら告げる。

 ゲオルグ様は目を丸くする、とじわじわと頬が赤くなっていくのが見えた。

 ふい、と顔を逸らされるが耳も赤い。


 …あ、ら?照れてらっしゃる?

 つられてわたくしの顔も熱くなってきてしまった。

 思わず両手で頬をおさえる。


 あら?たしかに、相思相愛のように振る舞うと、決めたけど…。

 これでは、ゲオルグ様もわたくしと同じ気持ちでいてくださってると勘違いしてしまうわ。


「…破壊力がすごいな」

「え?」

「いや…ジャナ、すまないが君が私の愛称を呼ぶのは公の場では止めよう」

「…お嫌でしたか?」

「違う!…その、だな」


 片手で顔を覆うゲオルグ様だったけれど、指の間から見える肌の色は赤い。


「……俺の理性の問題だ。あと、単純にその呼んでいるときの表情を俺以外の他のやつに見せたくない。ジャナが減る」


 わたくしが減るってどういうことですの。

 理性って…あと、ゲオルグ様って「俺」とも言うのね。


「ただ、その…ジャナさえ良ければ、こうしたふたりきりのときは呼んでほしい」

「…はい、ゲール様」


 そう答えれば、ゲオルグ様はふと笑って「嬉しいな」と呟かれた。

 その笑顔が今まで見た中で柔らかく、本当にとても嬉しそうな表情で、それが格好良くて。


 …胸がきゅうっとして、わたくしの顔が真っ赤になってしまったのは、不可抗力なのだわ。





 そんな話をした次の日から、ゲオルグ様は変わられた。

 基本、用事があるときか、もしくは時折昼食を一緒にとるとき以外は別行動するのが基本で、そのときの接触も婚約者としての距離感を保っていたのだけど。


「げ、ゲオルグ様っ」

「ん?どうしたのジャナ」


 昼食で、隣の席に座ったときの距離感が近いのは昨日説明されたから理解できるのだけど、その、


「さ、さすがにそれは…!」

「この前読んだ小説にこんなシーンがあったからやってみたかったんだけど…ダメだったかな」


 お困り顔も麗しいけれど、その、さすがにその手ずからフォークで刺したサラダをわたくしの口に運んでもらうのは恥ずかしい!

 ここは学園に所属するのであれば誰でも利用できる食堂。つまり、人の目があるの!

 ただでさえこの距離感で座っているのにざわついてた食堂内の生徒たちが信じられないといった目を向けているわ!


「ひ、人前では!」

「うん…そうか、ふたりきりのときはやってくれるんだね」

「え、いえ、そういうわけでは、その、はしたないですし」

「でももう刺してしまった。申し訳ないけど、一回だけやってもらえる?」


 次からは人前ではやらないよ、とにっこり笑うゲオルグ様。

 次って…ああ、わたくしったら失言してるわ…人前ではダメってそういう意味じゃないのに…。

 一回、一回だけ。周囲からの視線がすごいけど、心を無にして対応するしかないわ。


 恐る恐る口を開ける。

 そこにそっと入れられたサラダを噛んで、フォークから抜いた。

 シャキシャキとしたサラダは相変わらず美味しい。さすが国が管理・運営している食堂だわ。

 …わたくしが口を開けた瞬間、周囲がざわめいたのは気の所為にしておかないと。

 ゲオルグ様はニコニコと嬉しそうに笑っている。



 …わたくしだけとは、不公平でなくて?



 ふとそう思ったわたくしは、同じようにフォークにサラダのミニトマトを刺して、差し出した。

 目を丸くするゲオルグ様ににっこりと微笑む。


「ではゲオルグ様も」

「え、いや私は」

「はい、どうぞ」


 有無を言わさずにこにこと微笑んでいれば、ゲオルグ様は諦めたのかミニトマトをぱくりと口に入れられた。

 ちょっと恥ずかしそうな様子に溜飲が下がる。


「…すまなかったジャナ」

「いいえ」


 でも確かにやってみてよかったかもしれない。

 ゲオルグ様のまた可愛らしい一面が見られたわ。



 一事が万事そんな風に、学内でも(ゲオルグ様曰く)いちゃついて過ごしていたら。


「第二王子殿下ったらジャネットに骨抜きにされてるわね」

「リリーナ…骨抜きだなんて」

「その言葉以外でどう表現すればいいの?とても仲睦まじくて市井の恋愛小説を見てるようで、見てるこっちも楽しいわ」


 小説…そういえば、ゲオルグ様も「読んだ小説にこんなシーンがあったから」といろいろなことをしているわ。

 その、今までから考えるととても至近距離で、接触も多いのだけど。


「わたくし、その恋愛小説とやらを読んだことがないのだけど…」

「まあ!損しているわジャネット!これ、わたくしのお気に入りなの。それを読んでみなさいな」


 カバンからサッと出された一冊の小説。タイトルは『金獅子の夢をみて』。

 よっぽど気に入っているのか、読み込まれていて本の端が少しよれている。


「さすがに婚前交渉はまずいけど、その小説に載ってる程度であれば周囲も許してくれるわよ」

「…ここは学園よ、リリーナ」


 彼女はもとから奔放な部分はあったけれど…これでも、外ではしっかりフォレオス侯爵令嬢として振る舞っているのだからある意味すごいわ。

 

「それに今回の振る舞いは彼女に対する牽制だから、事が落ち着けばもとに戻るわよ」

「どうかしら?わたくしから見た限りでは、今まで可愛いジャネットを可愛がりたくて仕方がなかった殿下が大手を振ってあなたを可愛がってる状態だと思うのよね」

「わたくしを可愛らしいと言うのは家族とリリーナぐらいよ」


 わたくし自身、可愛らしいというよりは美人と呼ばれる部類であることは理解している。

 だってお母様も叔母様も、従兄のエディですらあんな綺麗なんですもの。

 さらにお父様も容姿は整っている方だから、隔世遺伝でもない限りは親の美貌を引き継いでる状態。

 わたくしから見ても彼らは「可愛らしい」とは言えない。どう見たって美しい、綺麗という言葉が似合う。


「賭けてもいいわよ、絶対に戻らないわ」

「賭け事はしないわよ、リリーナ」

「言葉の綾よ。そのぐらい本当に思っていると理解してちょうだい」


 ウェーバー様の一件が落ち着いたら、きっと前のように適切な男女の距離感に戻るわ。

 そして結婚して、夫婦になって、お父様とお母様のように協力し合いながらグェンジャー領を繁栄させていくの。


 ―― 少し、ほんの少しだけそれが寂しいなんて、死んでも口に出さないわ。だってウェーバー様の件を解消するためにやっていることなんだから。


 わたくしの様子を見ていたリリーナは何を感じたのか肩を竦める。


「ところで、ふたりがいちゃつき始めてもう一ヶ月経つけど彼女はどうなの?」

「わたくしも文句ぐらい言ってくるのかと思ったのだけど…接触がないのよね」

「今まで毎日のように殿下に纏わりついていたから大分効いてるんじゃない?」

「だといいのだけど…」


 それにしても、ここまで音沙汰ないってどうしたのかしら。


 気になってお父様にお聞きしたら、驚愕の事実があった。





 今日は学園は休みで、婚約者との定例のお茶会。

 王宮庭園内に設置された四阿でお茶をするらしい。距離感はここでも相変わらず近い。

 いてもたってもいられず、メイドたちが下がってすぐにゲオルグ様に聞くことにした。


「あの、ゲオルグ様」

「ふたりきりだよ、ジャナ」

「…っ、ゲール様、お聞きしたいことがあります」

「なにかな」

「ウェーバー様が先日退学されたと聞きました。一体、何をされたのですか」


 目を瞬かせ、しばらく考え込む。

 やっと思い至ったのか「ああ、あの羽虫」と呟いたゲオルグ様はにこりと微笑んだ。


「最近見かけないと思ったら退学してたんだね」

「ゲール様」


 婚約者としての付き合いは三年ほどだけれど、なんとなくゲオルグ様のことは分かってきている。

 この人は裏で処理をする人だ。

 表立っては何もしていないようにみせて、裏では様々な手段を用いて処理をしている。

 今回の彼女の退学の話だって、彼女から自主退学を申し出た…という話になっているけれど、実際は大暴れして拒否していたと調べがついている。

 そのとき「助けてくださいゲオルグ様!!」と叫んでいたことも。


 ゲオルグ様はわたくしが知っていることを察したのか、ふ、と笑った。


「本人には話が通じなくて、埒が明かなかったのは分かるね」

「ええ」

「だから仕方なく、ウェーバー男爵に話をしたんだ。彼女の虚言癖のせいでグェンジャー侯爵家に不利益が発生していると」


 我が家は王家の覚えも目出度い忠臣。過去には宰相を排出したこともある由緒ある家門。

 けれどむしろ、今回程度の醜聞は意にも介さないし影響は出ないということはゲオルグ様も理解されているはず。

 だからお父様にもウェーバー様がゲオルグ様に纏わりついていることについて相談した際に「放っておいて問題ない」と仰られたのだし…。


 そこまで考えて、あることに気づく。


「…お父様が放っておいても問題ない、と仰ったのは」

「私が対処するから、見定めてほしいとお父君にお伝えしたからだね」

「…申し訳ありません。わたくしが、もう少し毅然とした態度で彼女に愛人等と返していれば」

「いや、今回はそれが正解だった」


 下がりかけた視線が上がる。


「まあ、ジャナに信頼されていなかったことに多少は私もショックを受けたけどそれは置いといて。あそこで愛人等言語道断、なんて回答してたらあの羽虫は『グェンジャー様に認められなかった可哀想な私。愛されているのは私なのに』なんて見当違いな方向に突っ走っていった可能性が高い。事実、ジャナにと勘違いして暴走した今回も『ジャネット様から心無いお言葉を、いえ愛人としての心得を教えていただいていますの』なんてしおらしく周囲に言っていたからな」


 ……それってわたくしが虐めてるように聞こえるじゃない。

 絶句したわたくしに、ゲオルグ様は苦笑いを浮かべた。


「あれはもう領地に戻っているし、男爵も王都の社交の場には適切な伴侶が見つかるまではもう出さないと言っていたから当面見かけることもないだろう」

「どうして相談してくださらなかったのです。わたくしだけ蚊帳の外ではないですか」

「相談しただろう?それで愛称呼びにしたり人前でいちゃついたりしたじゃないか。下位貴族や平民の中には私とあれの仲を応援している連中もいてね…私たちの様子を見て、あれの言っていることは嘘なのでは?と疑惑を植え付けるためでもあったんだよ」


 今までの距離感ではウェーバー様の嘘が本当だと思われていたけど、ゲオルグ様とわたくしの仲睦まじい様子を見て疑問に思ったのね。

 愛人を迎えるというのに、ゲオルグ様は人前でわたくしと市井の恋人のように接していたのだもの。ウェーバー様の言う通りであれば、従来と同じ距離感を保っていたはずだから。


 ……じゃあ、彼女がいないということは、ここ一ヶ月続いていたあの距離感は元に戻るということね。

 今日でこの距離感も最後、ということかしら。

 リリーナから借りた恋愛小説の中にやってみてほしいとリリーナとはしゃいだ場面があったのだけれど、もしかして言い出す最後のチャンス?

 でも、言い出すのは恥ずかしいし…やっぱり諦めましょう。


「では、明日からは元の距離感に「え、戻さないよ」…え?」


 心底意外だ、という表情のゲオルグ様に目を瞬かせる。

 …え?戻さない?


「せっかくジャナとこのぐらいの距離で接することができるようになったんだ。戻すだなんて勿体ない」

「…はい?もったいない?」

「そう。だから今後も、叶うのであれば君と添い遂げて死に別れるまではこの距離感でいたい。というか、もう少し詰めてもいいと思う」

「これ以上!?」

「そうだなぁ、例えば…ジャナ、一度立ってくれるかい?」


 混乱するわたくし。そのまま、言われるままに立ち上がった。

 するとゲオルグ様も立ち上がりわたくしの手を強めに引く。わたくしはそのままバランスを崩してゲオルグ様に向かって倒れ込んだ。

 い、一体何が起こってるの?あら?いつの間にか座って…って!


「ゲオルグ様!」

「ゲール」

「ゲール様!こ、このような!」


 わたくしの下にゲオルグ様がいる。

 ちょうどゲオルグ様の右膝の上に、わたくしが両足揃えて腰掛けている状態。

 こ、こ、こんなはしたない…!というかゲオルグ様の顔が近いわ!あとゲオルグ様の顔がわたくしよりも低い位置にあって、ちょうど肩の辺りにあって…!


「このままお茶をしようか」

「無理ですわ!」

「ああ、万が一ドレスに零したらあれだものね。じゃあこのまま会話をしよう」

「お、おろしてくださいませ」


 自分から降りれば良いのだろうけど、人の膝の上というのは意外と安定感がないようで、そのためかゲオルグ様ががっしりとわたくしの腰を抱えているため動けない。

 というか、これはわたくしが憧れを抱いていたあの借りた恋愛小説にあった恋人同士で甘い会話をしていたあのシーンと同じ体勢なのでは!?実際にやるとものすごく恥ずかしい!


 そこでふと思う。

 どうしてゲオルグ様がこれをやろうとしたのかしら。

 たしかにゲオルグ様は読書家で、市井の小説もジャンル問わず読むと聞いてはいたから、恋愛小説も読んでいたかもしれないけれど、どうしてピンポイントでこの体勢を?

 

 ―― ひとつの可能性に思い至って、思わず眉間に皺を寄せてゲオルグ様を睨みつけた。


「リリーナから聞きましたね」

「さすがジャナ。気づいたか」

「話したのはリリーナだけですから」


 思わずため息を吐くと、ゲオルグ様はくすくすと笑いながら「感想は?」と問うてきた。


「そんなの、恥ずかしいに決まってるじゃないですか!」






 数年後、リリーナから「本当、あなたたちってスピネル辺境伯夫妻と良い勝負になるほど仲睦まじい夫婦よね」としみじみ言われるほど溺愛されるとは、このときは夢にも思っていなかったのよ。


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