第9話 プールサイドで
体育祭が無事に終わって、季節は夏。
その日の2年B組の、体育の授業は水泳だった。
屋外プールで、スイムウェア姿の少年少女が水の冷たさに歓声を上げる。
水を跳ね飛ばしてはしゃぎ遊ぶクラスメイト達の姿を、若冲はプールサイドのベンチに座ってぼおっと眺めていた。
片足と片目を失ってしまった若冲にとっては、スポーツはとても縁遠い存在だ。
惚けたようにクラスメイト達の姿を眺める若冲の横に、そっと座った人影がある。
若冲はその人影に振り向き、ドキッとして顔を赤らめた。
若冲の隣に腰を下ろしたのは、生徒用のスパッツタイプのスイムウェアとは対称的な、肌の露出が矢鱈多い競泳用水着をまとった上から、白いカーディガンを羽織っただけのショートカットの女性だった。
2年生の体育を受け持っている教師、水野綾(みずの あや)だ。
綾は普段の運動の賜物なのか、若冲達が通う学校の中でも1、2を争う位スタイルが良い。おまけに美人だ。
そんな女性が競泳水着姿で隣に座ったのだから、若冲が赤面するのも無理からぬ話である。
「退屈?」
と、綾は笑顔で若冲に訊いた。若冲が顔を赤らめている事など全く意に介していない様子だ。
「あ、いや、平気です」
と、若冲は自分でも訳の判らないような返答の後で視線を泳がせたまま質問した。
「みんなの様子は見ていなくて大丈夫なんですか」
綾は若冲の問いにふふっと笑みを漏らす。
「大丈夫よ。今日の授業はもう終わったから。残りは自由時間」
そう言って綾が若冲の方を振り向くと、若冲はまだ赤面したまま固まっている。
綾はそんな若冲の様子を、何を思ってかニコニコしながら眺めていたが、やがて口を開いた。
「こないだの体育祭、B組の応援合戦は凄かったわね。特にあの横断幕」
若冲がきょとんとした顔で綾の方を振り向く。綾は続けた。
「ウチのクラスの面々も驚いてたわよ。プロの絵師にでも頼んだのかって。まさかあなたの作品だったとはね。何でも部屋に閉じ籠ったまま、ごはんも食べず寝る間も惜しんで、ひと晩で描き上げたんですって?」
「良くご存知で」
若冲は驚いたような顔をした。もう赤面していなかった。
「あなたの担任の先生が包まずに話してくれたわ」
綾がそう言うと、若冲は「平松先生と仲が良いんですか?」とふと湧き上がった疑問を口に出した。綾は答えた。
「実はね、私も平松先生もこの学校の卒業生なのよ」
「そうだったんですか」若冲は目を丸くした。
「これから話す事は、平松先生には内緒にしておいてね」
綾はこう前置きしてから、こんな事を語りだした。
「私がこの高校に入学した時、平松先生…いやその頃は平松先輩ね。彼女は3年生だったわ。先輩は学校内でも向かうところ敵なしのスケバンだったの。腕っ節は強いし、身のこなしも素早くて、大の男にも引けを取らない位喧嘩が強かったわ。ただ、先生の言う事に逆らったり、学校の授業を無闇矢鱈にサボるような事は無かったけどね。今風に言うと秀才ヤンキーってところかしら。弱きを助け強きを挫く、って感じの人だったわね」
担任教師の意外な過去に若冲は言葉も無く驚く。綾は更に続けた。
「実は、私も平松先輩に危ない所処を助けて貰った事があるのよ。学校帰り、ひとりで歩いてたらよその高校の男子数名にナンパされちゃってね。断っても断ってもしつこく絡んで来るんで困ってたら、丁度先輩が通りかかって。『ウチの可愛い後輩に何してんのよ!』って。絡んでいた男子達が刃向って行ったけど、数分後にはみんな顔にミミズ腫れや青痣を作って逃げて行ったわ」
「確かに元気と言うか、竹を割ったような性格の先生だとは思ってましたが、まさかそんな武勇伝があったとは知りませんでした」
若冲は感嘆した。
「意外だったでしょ?」
綾が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「でもね、この事を外に漏らすと先輩が露骨に嫌な顔をするのよ。それがまた可笑しいんだけど。照れ臭いのかしら」
そこまで言ってから、綾は首から下げたストップウォッチを見た。
「あらいけない、もうこんな時間だわ」
どうやら授業仕舞いの時間が近いらしい。綾は若冲を振り返った。
「繰り返しになるけど、さっきの話は平松先生には内緒でお願いね。じゃ、私はこれで」
そう言って、綾はカーディガンを脱いで小脇に抱え、プールに向かってすたすたと歩いて行った。
若冲は綾の艶めかしい後ろ姿を見て、再び赤面した。
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