第13話 御礼参り

夏季大会明けの月曜日。


若冲は第2美術教室で、焙じ茶を満たしたマグカップ片手にひとりで黙々と絵を描いていた。


他の美術部員は資料を集めに行ったり、外にスケッチに行ったりで、教室には若冲とマネージャーの弘子しか居ない。

弘子はと言えば、相変わらず分厚いスケジュール帳をぺらぺらと捲って、部員のスケジュールをチェックしている。


暫くの沈黙の後、弘子が口を開いた。

「そう言えば竹林寺先輩、水泳部のおふたりですけど、夏季大会でどうなったか御存知ですか」

「嗚呼、僕は夏季大会当日は用事があって会場に行けなかったんだよなぁ…どうなったの?」

「桑嶋先輩が背泳ぎの部で自己ベスト更新の上で優勝、青木さんはクロールの部で2位になりました。おふたり揃って秋季大会にエントリーです」

「そっか。それは良かった」

弘子からの報告を受け、若冲が笑顔になる。


こんこん


その時、不意にドアをノックする音が響いた。

「どうぞ、開いてますよ」

弘子が返事をすると、ドアががらりと開いて10名程の男女の生徒が顔を出した。

その男女の先頭に立つのは、なんと充希と小奈海だった。

「おや、水泳部の皆さん」

弘子が目を丸くした。練習熱心な水泳部の部員が10名も揃って部室を離れる事など、それこそ雨でも降らない限りは滅多に無い事だからだ。


「ジャック、昨日は格好良い横断幕ありがとさん」

充希が白い歯を見せて破顔一笑した。同時に小奈海と他の水泳部員が深々と頭を下げる。

「…まぁ、横断幕は僕ひとりの手柄じゃないから…でもわざわざありがとう」

若冲が言うと、充希は満足そうに頷いた。そしてこうつけ加えた。

「水野先生もビックリしてたぜ。想像以上の出来だってさ」

「そっか。横断幕作成に携わった部員全員に伝えて置くよ」

若冲はそう言って笑顔を見せた。

「で、今日は練習は大丈夫なの?」

若冲がふと浮かんだ疑問を口にすると、小奈海がその問いに答える。

「今日は大会の後と言う事で練習はお休みです。なので横断幕の礼をして来いと、水野先生が」

「それなら、折角ですからお茶でも召し上がって行って下さい。日本茶で宜しいですか?」

弘子の言葉に、水泳部員はお互い顔を見合わせて居たが、やがて充希が代表するかのように言った。

「そいじゃ、折角だから御馳走になろうかな」


10分後。

弘子が淹れた心づくしの玉露を飲みながら、充希、小奈海、そしてその他の水泳部員は美術教室の壁面に飾られている様々な絵を食い入るように見ていた。

「しっかし何だな、お茶を飲みながら絵を見ると、何だか不思議と気持ちが落ち着いて来るなぁ」

充希が溜息交じりにそう言うと、若冲はにっこりしながら充希に語りかけた。

「僕が美術部に入部した時もそんな感じだったよ。富士村先生が手ずから淹れてくれたお茶を飲みながら、凄くリラックスしたのを覚えてる」

「…美術教室に茶器が準備されているのは、富士村先生の趣旨なんですか?」

「正解、その通り」

小奈海の問いに、若冲が答えた。


その時、ドアが開いて白髪白髭の老紳士が姿を見せた。

「あ、富士村先生、お疲れ様です」

美術部の顧問・富士村秀治だった。

「やぁ諸君。今日は練習はお休みかね」

「あ、はい。昨日の夏季大会に向けて素晴らしい横断幕を作って貰ったので、その御礼に」

充希が一同を代表して秀治に頭を下げた。秀治はにこやかに頷く。

「折角来たんだ、ゆっくりして行くと良い。…嗚呼、既にお茶は淹れて差し上げてるんだな。お茶だけじゃ何だ、茶菓子も出して差し上げると良い。昨日、買ったばかりのひよこまんじゅうがあったろう」

「あ、いや、そこまでは」

小奈海が慌てた。然し秀治は笑顔を崩さず、慌てる小奈海を押し留めた。

「何、気にする事は無い。私のポケットマネーで買ったものだ、遠慮なしに食べていくと良いよ。マネージャー、準備して差し上げなさい」

「はい」

弘子がきびきびと準備を始める。


「何かこちらが御礼に伺ったのに、却って御馳走になって済みません」

充希が秀治に頭を下げると、秀治は笑った。

「いや、気にしないでくれ給え。絵を見る時には茶と茶菓子をお供にリラックスして、と言うのが私のポリシーでね」


そう言って満足そうな表情をする美術部顧問を、若冲と弘子は茶菓子の準備をしながら、穏やかな表情で見つめて居た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る