第10話 入部
夏休みを少し前に控えたある日の事。
「ジャックくーん」
昼休み、昼食を終え席を立った若冲はよしのに呼び止められた。
よしのが若冲に声をかける時は、担任の直美が何か若冲に用があるか、図書室で何か良さ気な資料が見つかったかのどちらかだ。
「平松先生が何か用事?」
と若冲が応じると、よしのはこくんと頷いた。
「富士村先生と一緒だったよ。絵に関するお話みたい」
よしのの言う『富士村先生』とは、若冲達2年生の美術を担当している教師、富士村秀治(ふじむら しゅうじ)の事である。
定年間近の温厚篤実とした老紳士で、柔和な顔つきに白い髭を蓄えた、飄々とした性格の教師だ。
(富士村先生が一緒とは…一体何の用事だろう)
若冲は少し訝りながら、職員室に向かう。
「失礼しまーす」
若冲が職員室の扉を開くと、既に秀治の姿は無く、直美がひとりでプリントを睨んでいた。
「平松先生、お呼びで」
と若冲が声をかけると、直美は若冲に向き直って開口一番、こう訊ねてきた。
「ジャック、アンタ何か部活をやる気は無い?」
「部活ですか?」
若冲が怪訝な顔をすると、直美はふふっと笑みを浮かべた。
「勿論、運動部じゃなくて文化部よ。実はね、さっきまで美術部担当の先生とあんたの話をしててね」
「富士村先生の事ですか」
「察しが良いわね。そう、富士村先生よ。彼がアンタの作品を見て興味が湧いたみたいで、これを渡してくれたのよ」
そう言いながら、直美がさっきまで睨んでいたプリントを若冲に差し出す。それは美術部の入部届けだった。
「本人の意思を尊重するとは言ってたけど、若しその気があるなら是非入部して欲しいって。取り敢えずこれ、渡しとくわ」
若冲は黙ってプリントを受け取る。
「入部する前に美術部の様子を少し見たいんですが、大丈夫でしょうか」
「大丈夫だと思うわよ。因みに部室は第2美術教室ね。放課後にでも行って見ると良いわ」
若冲の問いに、直美はそう言って笑った。
その日の放課後の事。
若冲は入部届けのプリントを手に第2美術教室へ向かった。
「失礼します」
ノックして扉を開ける。と同時に、ふわっとコーヒーの匂いが鼻をくすぐった。
「やぁ。よく来たね」
大きなキャンバスに向かって絵筆を握ったまま、秀治が振り返って声をかけた。
キャンバスの傍の小さなテーブルには大きなマグカップが置かれてあり、コーヒーの匂いはそこから漂っているようだった。
「少しそこの席に座って待っていてくれたまえ。今何か飲み物を淹れよう。コーヒーで良いかね?」
「あ、いや、お構いなく…と言うか、学校で生徒が先生からコーヒーを御馳走になっちゃって良いんですか」
「構わんさ。私のポケットマネーで購入しているからね。嗚呼、コーヒーが苦手なら紅茶も日本茶もあるぞ」
屈託の無い秀治の対応に呆気にとられた若冲だったが、それでも遠慮するのも悪いかと若冲は思った。
「それじゃ、日本茶でお願いします。焙じ茶があればそれで」
「了解した」
5分後。
秀治が淹れてくれた焙じ茶を飲み、茶菓子をつつきながら、若冲は第2美術教室の壁面に飾られた絵を色々と眺めていた。
おかしなもので、秀治の心づくしの焙じ茶を飲むと気持ちが落ち着いてきて、緊張が少しずつほぐれていく。
「極度に緊張した状態では、絵を見るのも描くのもなかなか疲れるものだからね。コーヒーやお茶はそれを緩和する為の手段なのだよ」
そう言って秀治は静かに微笑む。
「この絵はみんな富士村先生が描いたんですか?」
若冲が壁面の絵を示して訊くと、秀治は答えた。
「歴代の美術部の生徒が描いたものもあるし、私が描いたものもある」
そう言われて改めて絵を見てみると、油絵、水彩画、版画、水墨画…と様々なジャンルの絵があるのが判った。
「少しだけ君に話して置かねばならない事がある」
秀治は穏やかな表情を崩さず、こう若冲に向かって言った。
「ウチの学校の美術部は、よその学校の美術部に比べると少し特殊でね。普段の活動に加え、学園祭や体育祭等のイベントの時、横断幕やポスターなどの制作物に対する指導を部全体で行っているのだよ。…過日の体育祭の折、君が描いたあの龍の横断幕、あれは他のクラスからもとても評判が高かった。だが同時に『彼の才能を限定したコミュニティに独占させるのは、不公平だ』と言う声も一部から上がって来てな。そこで君の担任の先生とも協議して、君の才能を全学年平等に活用出来ないか、と言う話になったのさ」
(成る程)
若冲は大体の事情が呑み込めて心の中で呟く。
然し、一方で自分の絵の才能が学校中で買われていると言うのは密かに嬉しくもあった。
いずれにせよ、自分は求めに応じて絵を描けば良いだけの話だ。損ではない…と若冲は思った。そして、手にした入部届けを取り出して力強く宣言した。
「決めました。入部させて下さい」
秀治は力強く、そして静かに頷いた。
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