第16話 謝罪

夏が近づきつつあった。

陽射しは日に日に強くなり、気の早い蝉がつがいを求めて鳴く。


そんなある日。

若冲が学校から帰宅すると、家の前に見慣れない自動車が停められていた。

(お客様かな)

不審に思いながら若冲は引き戸に手をかけた。


カラカラカラ


「ただいま」

上り框に腰を下ろし、ゆっくり靴の紐を解いていると、応接間の方から小百合が声をかけた。

「おかえり、若冲。着替えが済んだらで良いから、ちょっとこちらに顔を出しなさい」

「判った。ちょっと待ってて」

若冲は靴を脱ぐと、自室に向かって静々と歩いて行った。


5分後、制服から私服に着替えて若冲が応接間に顔を出すと、早百合と差し向かいでひとりの壮年男性が座っていた。

若冲はその男性の顔を見て、少しだけ顔から血の気が引けていくのを感じた。


「久し振りだね、若冲君」

男性はたったひと言挨拶すると、まるで土下座でもするかのように深々と頭を下げた。

「そんな…頭をあげて下さい」

若冲には、そう返答するのがやっとだった。


不意の来客…それは若冲が春先に巻き混まれた交通事故の、被害者でもあり加害者であった。


男性の名は関口邦夫(せきぐち くにお)と言う。職業はトラックの運転手。


若冲は高校一年生の春休みのある日、母親と共に父親の運転する自動車に乗って静岡県は石廊崎にてドライブの途中、コースアウトして邦夫の運転する大型トラックに衝突したのだった。

事故の結果は、父親と母親が即死。若冲も左足と左目を失う大怪我を負うと言う悲惨なものだった。

一方、邦夫は軽い打ち身で済んだ。


幸い、邦夫が保険に入っていたので、若冲の入院費用はそれで賄う事が出来た。

若冲としては、それで事故の後始末は決着がついたものだと思っていたのだが…実際はそうならなかった。邦夫が滅法義理深かった為である。


邦夫は折を見ては藤枝家を訪ね、若冲の近況を尋ねたり、仏壇に長々と香華を捧げたりしていた。

そしてその度に、邦夫は若冲の左足と左目を奪った事を、くどくどと詫びるのであった。


「あの事故は父さんが余所見してたから起きた事故なんです。何もかも父さんが悪いんです」

若冲は何度、同じ事を邦夫に話したか知れない。

然し、邦夫は若冲のその答えに決して頷こうとはしなかった。

「みんな私の不注意がいけなかったんだ」

そう言って邦夫は自らを責めた。若冲にはそんな彼の姿が痛ましかった。


「実は、関口さんがこうしてお見えになるのも、今日が最後になるそうなのよ」

「…何かあったんですか?」

小百合の突然の述懐に若冲が邦夫に問うと、邦夫は低い声でぼつぼつと語り始めた。


「あの事故が原因と言う訳でも無いのだろうが、私はあれ以来、トラックに乗る事が怖くなってしまってね…上司とも相談した結果、この度、勤めてた運送会社を辞める事になったんだ」

「お仕事を?」

「それで、身の振り方を考えてたんだが…知り合いに千葉県の房総で農業の仕事を斡旋してくれる人が居てね。その人の世話で房総に引っ越す事になった」

「そうだったんですか」

「それで、今日はお別れに来たんだ」

そこまで会話をして、初めて若冲は自分が立ちっぱなしで邦夫の身の上話を聞いていた事に気がついた。慌てて若冲は腰を下ろす。

「房総に行ったらもうこっちには来られないんですか」

腰を下ろした若冲が邦夫に問うと、邦夫は深く頷いた。

「そうだね、もう車の運転も辞める事にしたから、そうそうこっちには来れなくなるかな」


そう言ってから邦夫は深く息を吸った。そして、思い切ったように吐露した。


「…だから、最後にもう一度だけ、若冲君に謝って置きたくてね。いや、何度謝っても許されない事は判っているんだ」

「そんな、僕はもう大丈夫ですから…」

若冲は慌てて邦夫を宥めた。

「何度も言うようですがあの事故は父さんの不注意が原因なんです。関口さんは何も悪くありません」

「もう止しましょう」

小百合がふたりのやり取りに堪らなくなった風で会話に割って入る。

「若冲はこの通り元気でやってますし、関口さんは新天地で頑張る事が決まった…それで良いじゃありませんか」

「…ありがとうございます」

邦夫は小百合の言葉を聞くと、神妙に頭を下げた。


いつの間にか外には夕方の気配が訪れていた。邦夫は小百合と若冲に見送られて、自動車に乗って静かに帰って行った。

去っていく邦夫の自動車を見送りながら、若冲は小百合に向かって悲しげな顔をした。

「何だか、あの人の事を追い込んだみたいで悪い気がしてきたよ、ばあちゃん」

小百合が、若冲の肩に手を置く。

「あなたのお父さんとお母さんには気の毒な事をしたけど、あなたと関口さんが無事で居てくれただけでも良しとしなくちゃ」

若冲は黙ったままこっくりと頷いた。


何処かで、カラスが寂しげな声で鳴いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る