第7話 大仕事(後編)

横断幕用の布が若冲の家に届けられたのは、その週の金曜日だった。

白く分厚く、しっかりと縫製された、長径3メートル短径1メートル半はありそうな大きな布だった。


若冲は布が届けられた翌日、祖母の小百合に訊いた。

「ばあちゃん、じいちゃんが昔使ってた剣道場、少し借りて良い?」

「良いけど、何をするの」

「こいつに絵を描くんだ」

若冲は贈られて来た布を示しながらそう言った。


亡くなった若冲の祖父は、嘗て剣道の師範だった。

自宅に道場を構え、門弟もそれなりに居た。

然し、5年ほど前に急病で世を去った後は道場を継ぐ者も無く、門弟も余所の道場へ散り散りになってしまった為、長らく道場は使われないままになって居た。


「こいつに絵を描くとなると、僕の部屋では狭くて広げられないからね」

若冲の言葉に、小百合は少し心配そうな顔をした。

「絵を描くのは若冲の生き甲斐みたいなものだから止めはしないけど、無理しちゃダメよ」


長らく使われて居なかった剣道場は、がらんとして広い。

若冲はその剣道場の照明をつけると、床に新聞紙を厚く敷き、その上に例の白布を広げた。

それから、黒の油性マジックを数本と、水性ペンキを数色並べ、みっしりとスケッチが描かれたクロッキー帳を捲り始めた。

クロッキー帳には様々な画家の画風に習った、様々な龍の絵が描かれている。

若冲はクロッキー帳を長い事眺めていたが、やがて思い切ったように頭に手拭いを巻き、マジックを手に取ると、白い布にさらさらと龍の絵を描き始めた。


数時間後。外は夕暮れ。

小百合が若冲の様子を見にやって来た。

「…若冲、ごはんの時間だけど、どうする?」

早百合の言葉に、若冲は振り返りもせずに答えた。

「ごめん、今丁度ノって来たところなんだ。描き終ったら食べる」

「そう。無理しないでね」

小百合は若冲の言葉に逆らわず、そのまま台所まで戻ると、若冲が筆を止めた時に直ぐに食べられるよう、おにぎりを握り始めた。


その内夜も更けてきた。

若冲は相変わらず剣道場から出てくる気配がない。

小百合は若冲の体調が気がかりになり、おにぎりと香の物、焼いた塩鮭が乗った皿をお盆に乗せて片手に持つと、剣道場に向かい、そっと戸を開けて見て思わず息を飲んだ。


例の白い布には、太くくっきりとした線とビビッドな色使いで、見るからに獰猛そうな1匹の龍の絵が描かれていた。


その横で、若冲は崩れるように倒れている。

慌てた小百合がお盆を置いて若冲の傍に駆け寄ると、若冲は真っ青な顔をして鼻から血を流し、それでいて満足げな顔つきで気を失っていた。

額に手を当てると、少し熱っぽい。小百合は慌てて若冲の頬を軽く叩いて起こそうとした。

「う…」

微かに若冲が呻く。

「しっかりしなさい。立てる?」

小百合の問いかけに若冲は何か答えようとするが、口がもつれて答えにならない。

(ともかく病院に連れて行かなきゃ)

小百合は携帯電話を取り出し、罹りつけの病院に電話をかけた。


救急車で病院に担ぎ込まれ、ベッドに寝かされた若冲は脈を測られたり、熱を測られたりした。

医者の診断は単純明快だった。

「過集中による過労ですな。2~3日寝かせて休めば良くなるでしょう。少し胃腸が弱っている可能性もあるので、念の為食事は刺激の少ない消化の良いものだけにした方が宜しい」


家まで送られ、自宅のベッドに寝かされて、そこで若冲は漸く口をきく事が出来た。

「…横断幕は?」

枕元で青い顔をして様子を見ていた小百合は、若冲の額に当てられたタオルを取り換えながら言った。

「大丈夫よ。ちゃんと完成してたから。今はとにかく眠りなさい。学校には連絡を入れて置くから」

その言葉を聞いて安心したのか、若冲は再び緩やかに意識を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る