Jack the painter

テクパン・クリエイト

第1話 すべての始まり

中背で痩せたその少年が意識を取り戻したのは、冷たいような薄い灰色の壁に四方を囲まれた病院の一室だった。


「気がつきました」

少年の寝ているベッドの周囲に立っていた看護婦達が、慌てて医師を呼びに走る。

その声と足音を聞きながら、少年は自分の体の一部に違和感を覚えた。

左目が見えない。

原因は包帯をきつく巻かれた為だけでは無いらしい。

そして、左足に強い違和感がある。

言語化が難しいが、何となくふわふわするような感覚と言えば良いか。


やがて、胡麻塩頭を短く切りそろえた壮年男性の医師が、看護婦とひとりの老婦人を伴って姿を現した。

老婦人はずっと泣き明かしていたらしく、瞼が腫れて目が真っ赤になっていた。


「…ばあちゃん?」


少年が弱々しい声で呼びかける。老婦人…少年の母方の祖母・藤枝小百合 (ふじえだ さゆり)は涙声で少年に話しかけた。

「良かった…!あなただけでも生きていてくれて…!」

「僕だけ?」

「落ち着いて聞いて頂戴。あなたのお父さんとお母さんは、交通事故で死んでしまったのよ」

「事故…?」


少年は祖母のカムアウトに、反応に困ったような返事をした。


つらつらと、少年は自分の身に起こった出来事を思い返してみる。

確か今朝、堅物で仕事の事しか頭に無いような父が珍しく「たまには気晴らしにドライブにでも行こう」と言い出し、父と母と自分と3人でクルマに乗り、父の運転で静岡県・石廊崎に向かってドライブに出掛けたのだ。

そして、石廊崎に向かう途中で、カーブを曲がろうとして、対向車線を走っていた大型トラックに衝突して、それから…。


その後の記憶がどうしても思い出せない。


「酷な話をするようで恐縮だが…君のご両親は即死だった」

医師が、抑揚の無い声でそう言った。

その抑揚の無い声は感情が欠落しているのでは無く、必死になって自分の感情を押し殺しているのが、少年にも良く判った。

「そしてもうひとつ…酷な話をしなければならない。事故の影響で、君の左目を摘出し、左足の膝から下を切除せざるを得なかった」

そう言って医師は眉間に深い皺を寄せ、ポツリと続けた。

「…済まない。出来る限りの事はしたが、眼球はガラス片が多量に刺さり、左足はひしゃげた車体に挟まって壊死し、共に切除しなければ命に関わる事態だった」


医師の説明を聞いて、少年は自身の体の違和感に合点が行った。


呆然としている少年に向かって、小百合が泣きながら言った。

「…あなたの面倒は私が見るから安心して頂戴ね。今、あなたのお兄さんが遺品整理の為に静岡のあなたの家に向かってるから。戸籍の事も、学校の事も、私達にみんな任せて、あなたはとにかく一日も早く退院出来るように治療に専念して頂戴」


何と返事をして良いか判らず、少年は黙ってこくんと頷いた。

不思議と、父母が死んだと聞かされたのに、少しも涙は出なかった。


医師にいたわられながら病室を出る祖母の小さな背中をぼんやりと見つめる少年に、看護婦のひとりが声をかけた。

「おばあ様に心配を掛けないように、一日も早く元気になりましょうね。私達に出来る事があったら何でも協力するから、遠慮無く声をかけてね」

「ありがとうございます」

少年はそう言って頭を下げた。


この夜から、数えて2ヶ月。

交通事故で片目と片足と大事な両親を失った内向的な少年・竹林寺若冲 (ちくりんじ じゃくちゅう)の日常が、急転直下で変貌する運びになる事を、まだ当の本人は知らない。

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