第20話

「もちろん、お前は、車の運転席に座りながら、恐らく手鏡を使って、屋上に立つ城ヶ崎を監視していたはずだ。城ヶ崎の姿を確認するというだけなら、鏡を使うだなんて、そんな手間のかかることをする必要はない。運転席の窓を開けて顔を出し、屋上を見上げていればいいだけだ。しかし、お前の計画――城ヶ崎を本当に転落死させる計画――を遂行するためには、そのやり方は危うい。この計画が成功するかどうかは、何と言っても車を発進させるタイミングにかかっている。城ヶ崎が飛び降りた――まさにその瞬間に、車を発進させる、その瞬発的なタイミングに。

 早すぎたら、まだ飛び降りきらない城ヶ崎を屋上に取り残したまま、車だけが動き出してしまうことになる。そうなったら、自分が飛ぶ前に車を発進させたことに対して、城ヶ崎はお前に不信感を持ってしまうだろう――もちろん、今話した城ヶ崎の思惑は置いておいた、あくまでお前の主観での話だ。

 遅すぎたら遅すぎたで、本来の計画どおり城ヶ崎の体はマットで受け止められることとなってしまい、形として偽装自殺計画は無事完了となる。どちらにしても、二度目はない。

 窓から顔を出して屋上を見上げているという不安定な姿勢は、この二つのリスクを負い、絶対に逃すことの出来ないタイミングを待つ計画の準備態勢としては、明らかに不向きだ。普通に車を運転するときとなるべく変わらない姿勢を保ったままスタンバイしておくのがベストだ。運転席に座りながら、城ヶ崎のことを鏡を使って監視するというのは、運転中にサイドミラーを確認する動作に極めて近い。城ヶ崎が飛び降りた直後にアクセルペダルを踏むという動作のタイムラグを最小限に抑えるためには、最適だったといえるだろう。

 俺が、どうして今になってこんなことを話すのかというと、このことが、城ヶ崎の“偽装自殺に見せかけて本当に自殺する”という計画を、お前が見抜くことが出来なかった原因になっていると考えるからだ。仮に、お前が鏡越しではなく、実際に城ヶ崎の姿を目視で確認していたとしたら、どうだ? 恐らく……分かったんじゃないか? 何が分かったかというと、そう、城ヶ崎の立つ位置が計画と違っている、ということがだ。

 お前は、屋上の縁に立つ城ヶ崎を直接目視する、必然、その視野には校舎外壁、その直下の駐車場も入ってくる。そうしたら、おかしなことに気が付いたはずだ。“城ヶ崎が立っているのがマットの直上ではない”ということに。マットがある位置の壁のパネルラインを屋上に向かって追っていけば、それはすぐに分かる。そのことに気付いた時点で、お前が城ヶ崎の企みを察せられたかは分からないが、とにかく、現状と計画とに齟齬が生じていることは理解したはずだ。その計画との齟齬というのは、こうだ。“”。

 ……どうだ? もし、そんな状況下に置かれたら、お前はどうしていた? たぶん……んじゃないか? そうだよな。お前の計画は、城ヶ崎と二人で共謀した偽装自殺を裏切って、城ヶ崎を本当に転落死させてしまうことだ。そのためには、さっきも言ったような、絶妙なタイミングで車を発進させるというタスクをこなす必要がある。やり直しの利かない一発勝負だ。が……そんな難行を遂行することなく、城ヶ崎のほうから勝手に的を外して地面に墜落してくれるというなら……こんなにありがたい話はない。これに乗らない手はない。どうして城ヶ崎の立ち位置がずれているのか、疑問には思うだろうが――極度の緊張から間違えたのだろう、と都合のいい解釈をしたかもな――とにもかくにも、乗らない手はない。

 しかし、お前は、このことに気付かなかった。鏡を使っての位置確認――実際にお前が確認していたのは、位置ではなく、城ヶ崎が飛び降りるタイミングだったわけだが――では、屋上に立つ城ヶ崎という、鏡に映る範囲のピンポイントの視野しか確保できないからだ。その位置がマットの直上からずれているということまでは、分かり得なかった。


 決行直前、遙香からメッセージがあったことを思い出した。


 ――周りに人がいないか、確認していて。

 ――私がマットに落ちたら、音と衝撃で分かるでしょ。だから、周りの確認に集中していてね。


 周囲の確認を徹底するよう、くどいほどに念押ししてきていたのは、自分自身の姿を見られないようにするためだったのか? 立ち位置が予定とは違っていることを知られ、修正されることを懸念して……。遙香のほうでは、裏切られることなど想像だにしていなかったはずだから……。


「お前は、城ヶ崎が飛び降りた瞬間に車を発進させることで、牽引しているマットの位置をずらし、城ヶ崎の落下点をマットから硬いアスファルトの上へと変更させたわけだ――あくまで、お前の主観上は。だが、さっきも言ったように、一般教室棟屋上の高さである十二メートルの位置から、地面に落下するまで、要する時間は1.2秒しかない。1.2秒、このわずかな時間で、アクセルペダルを踏み込み、車をマットの長さ分前進させられるものだろうか? もちろん、お前は、そのために鏡を使い、本来の計画ならば不要な、城ヶ崎が飛ぶ瞬間を監視していたのだろうが、それにしたって、結構な博打であるように俺には思える。が、実際、城ヶ崎はマットの上ではなく、アスファルトの上に墜ちた。それは、車の発進のタイミングが勝利した――お前が博打に勝った――というわけではなく、そもそもの話、城ヶ崎がマットに落下しないことが決められていただけだったからだ」


 自分の失敗を悟った。いや、決して回避できようのない失敗だったわけだが……。

 古泉は、遙香殺しのトリックを暴いたとき、遙香を騙した、と言ってきた。だが、実際は逆だった……? 騙していたのは、遙香のほうだった……?

 自分は、あのとき、どうするべきだったというのか……。


「さらに――これが最後だ――城ヶ崎が、最初から飛び降り自殺するつもりでいたというなら、疑問点がひとつ、出てくる。その疑問点というのは……城ヶ崎の飛び降り姿勢だ」


 背中から、遙香は地面に激突した。


「これは、俺が城ヶ崎の死に疑問を持った出発点でもある。そもそも城ヶ崎が最初から死ぬつもりでいたというなら、何も背中から墜ちる必要はない。普通に――ほとんどの自殺者がそうするように――足から墜ちていけばいい。だが、実際、城ヶ崎は背中から墜ちていった。下にマットがあるという前提の墜ち方だ。当初の計画どおりの。俺は、ここに、城ヶ崎の思惑が滲んでいるように思えてならないんだ。その思惑というのは……城ヶ崎の死は、あくまで事故だったと、お前にそう思わせることだ。計画に従って、城ヶ崎は墜ちた。が、ひとつだけミスがあった。城ヶ崎は、墜ちるべきポイントを外してしまった。お前の裏切りを抜きにして、城ヶ崎の思惑どおりに偽装自殺計画が行われていれば、そういう見解として捉えられたはずだ。お前の視点からは」


 ……確かに、そうなるだろう。それは、つまり……。


「城ヶ崎は、お前に余計な負担をかけまいとしたんじゃないか? もし、城ヶ崎が自殺者の定石どおり、足から転落していたら、お前は、どう思った? 落下位置がずれている、しかも、計画と違って足から転落している。この二つの事象を重ねて考えてみれば、導き出される答えはひとつしかない。“城ヶ崎は、偽装自殺計画を利用して本当に自殺した”。つまり、お前からしてみれば、“城ヶ崎に騙された”ことになる。“土壇場で親友に裏切られた”と捉えられることになるだろう。城ヶ崎は、そうなることを避けたんじゃないのか? だから、お前との計画どおり、背中から転落していった。“これは自殺じゃない。あくまで自分のミスが引き起こした事故なんだ”というメッセージを伝えるために」


 …………。

 そうなのか? 遙香……。違う、違うんだ……。裏切ったのは、自分のほうなんだ……。


 古泉は、このことを言うか言うまいか、迷っていたという。

 遙香は、偽装などではなく、本当に死ぬつもりだった。

 自分が車を発進させなくとも、そもそも遙香は死んでいた。つまり、自分に遙香が死んだことへの直接的な責任はなく、遙香も自分の死を事故に見せかけるつもりだった。

 前者を知ることのショックと、後者が与える救い、この二つを天秤にかけて古泉は、話したほうがいいと決断したということなのか? つまり、この事実を知ることで受けるショックよりも、殺人の重責を――せめて、遙香の分だけでも――軽くすることのほうがいいと、そう古泉は判断したと……? それとも……

 ――お前が直前で、城ヶ崎の“裏切り”を察することが出来ていたら、車を発進させる必要はなく、結果、現場に“急発進によるタイヤ痕”という決定的な手がかりを残さずに済んだはずだ。ひいては、俺がお前の仕掛けたトリックに気付くこともなかったかもしれない。変則的な形ではあるが、結果的に完全犯罪が成立したかもしれなかった。……馬鹿なことをしたな。


 古泉の目を見たが、答えを探ることは出来なかった。


「それじゃあ、今度こそ、帰ることにする。じゃあな……」


 古泉は一歩足を踏み出した――その足を、声をかけて止めた。


「……なんだ?」


 中途半端に振り向いたため、また古泉は横顔になった。逡巡の色は消え、そこにあるのは……苦悩、後悔、なのか? 颯爽と謎を解いた名探偵には似つかわしくない表情だな、と思った。

 呼び止めてはみたものの、何を言うべきか、何を訊くべきなのか、思いあぐねているあいだに、


「明日は……卒業式だな」


 それだけ言い残すと、名探偵は歩き出し、だんだんと小さくなるその背中は、やがて、外灯の明かりの及ばない、夜の闇に溶けた。


 片手に稀少本、もう片手にブランドの財布を掴んだまま、立ち尽くす。

 目の前を白いものが舞った。上空を覆い、星を隠していた雲は、雪雲だったらしい。ゆっくりと、次々に降下してくる真綿のような雪は、まだぬくもりが消えきらないベンチに触れると水滴と化し、小さな滲みに変わっていく。頬に触れた雪もまた、溶けて、こぼれ落ちる涙と混じりあった。

 ひとり、取り残された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る