第5話

 思わせぶりな視線を向けてくる。

 根拠って? そう訊いてくることを、今度は期待しているような目だった。が、ここでもその期待には応えてもらえないと察したのか、古泉は言葉を継ぐ。


「ある日、俺は、体育の授業中にやっていたバレーボールで、レシーブをし損ねて手首を痛めてしまったことがあった。まあ、年が明けてからの体育の授業なんて、教師がついていることは稀で、ほぼ自由時間みたいなものだからな。みんなでバレーボールに興じていたというだけだったんだが、そんな話はどうでもいいか。で、手首を痛めたといっても、幸い軽い打撲でたいしたことはなかったんだが……それがきっかけで、思い出したんだよ。……藤野のことだ。

 あれは、城ヶ崎が死んだ日から……何日後だったか、詳しい日にちまでは憶えていないんだが、とにかく、何日か経った頃、珍しく夏休み期間中に学校に来ていた俺は、藤野に会ったんだよ。城ヶ崎が死んでから、藤野が学校に来ることはなくなっていたらしいんだが、その日は、図書室に忘れ物をしたことを思い出して、それを取りに来る目的で来ていたそうだ。見るからに重そうな足取りだったよ。顔色も悪かったし。俺は、そっとしておこうかどうか迷ったけれど、他に誰もいなくて二人きりだったし、向こうもこっちに気が付いたようだったから、無視するのもかえって変だと思って、ひと言かけたんだ、大丈夫か? って。まあ、そんなことを言われて、大丈夫じゃない、なんて答えるやつはいないよな。藤野も、無理して作ったような笑みを浮かべて、大丈夫だよ、と返してきた。藤野は、図書室に向かうために階段を上ろうとしているところだった。そんなタイミングで声をかけた俺も不注意だったんだが、返事をするために藤野は、俺のほうを向いたまま階段を上ろうとして、段差につまずいてしまったんだ。それで藤野は、転んだ拍子に咄嗟に出した左手を、階段の角にぶつけてしまった。手首を変な方向に捻ってしまったんだろうな、藤野の白い肌が見る見る赤く腫れてきた。藤野のやつ、それでも階段を上っていこうとするから、さすがに俺は引き留めて、保健室に連れて行ったんだ。で、養護教諭に診てもらって、早くて全治半月と診断され、これは応急処置だから、すぐに専門医に診察してもらうようにって念を押されてたよ。藤野のやつは、こんなのどうってことない、なんて言って、包帯を巻いてもらうのも拒否していたけどな。そういう事情があったから、短くとも半月のあいだ、藤野は左手を使えない――少なくとも、力仕事なんかに左手を使うことは出来ない――状態にあったはずなんだ。

 ……俺の言った“根拠”ってのが、もう分かっただろ。……そうなんだ、藤野が死んだのは、それから数日後だ。あの怪我が完治していたわけがない。左手を怪我している手負いの藤野に、あの非常階段のボードを乗り越えることなんて出来たわけがないんだ。相当な怪力の持ち主でもなければ、あのボードを片手だけで乗り越えるなんて芸当は不可能だ。つまり、藤野は屋上へ行く手段として、非常階段を使う――正確にはボードを乗り越えること、しかも、地上と屋上の出入り口でボードを二回も越える――なんてことが出来たはずがないんだ。かといって、もうひとつの経路である階段室のドアは施錠されていて、鍵は城ヶ崎が死んで以降、一度も持ち出されていないことが確認されている。それじゃあ、藤野はどうやって屋上に上ったっていうんだ?」


 終始、淡々とした口調だった古泉は、そこでわずかに声を荒らげた。


「……警察はその藤野の怪我に気付かなかったのかって? 俺もそれが気になったから、叔父に訊いてみたんだ。藤野の体には、死因となった頭部の傷の他、体の数箇所に打撲痕があったことは、確かに警察も認識していた。でも、それは落下した際にアスファルトにぶつかって受傷したものだと、そう考えていたらしい。まず藤野は、頭部からアスファルトに激突して、倒れた際に体の他の部位も、落下した勢いのまま地面に打ち付けた。だから、左手首の傷も、そのときに負ったものだと、そう考えてしまったようなんだ。さっきも言ったとおり、藤野は保健室で包帯を巻いてもらうのを拒否していたから、それ以降も同じように包帯はしていなかったと思う。恐らく、養護教諭の指示を無視して、医者に診てもらうこともしていなかったんじゃないかと思う。

 タイミングの悪いことは他にも重なった。最初に藤野の打撲を診た養護教諭のことだ。あとで調べてみたら、そのとき保健室にいた養護教諭は、その日だけ臨時の交代で来ていた医者だったということが分かった。常勤している養護教諭に身内の不幸があって、急遽代役を頼まれたんだそうだ。俺は高校生活で一度も保健室の世話になったことがなかったから、常勤している養護教諭がどんな人なのかも知らなかったんだ。もし、そのときに保健室にいたのが正規の養護教諭だったら、警察の聞き込みに対して、“藤野は亡くなる数日前に左手首を負傷していた”と証言していたはずだ。臨時で来ていた医者は、藤野のことを正規の養護教諭に引き継ぎしなかったんだろうな。その証言が得られていれば、手負いの藤野にボードを乗り越える芸当が出来たはずはないと思い至り、警察も藤野の死を自殺だと簡単に片付けたりはしなかったかもしれない」


 語気を強めていた古泉だったが、ときおり吹き付ける夜風に冷まされるかのように、徐々にその口調は、それまでの落ち着いたトーンに引き戻っていった。


「他にも、藤野の遺体には不審な点、というまでには至らないのかもしれないが、気になる痕跡があった。右手人差し指の爪の間から、微量な紙片が検出されたんだ。襲われた被害者が抵抗して犯人を引っかいて、その皮膚片が爪の間に残留していたなんて話は、ミステリでも現実の事件でもたまに聞くけど、藤野の爪の間に残されていたのは紙片だ。しかも、右手人差し指からしか見つからなかったという。それは一般的なノートや便箋に使われる、特徴のないどこにでもある紙だったため、勉強中に何かの拍子に紙を引っかいて挟まってしまっただけだ、と言われてしまえばそれまでなんだが……。

 まあ、とにかく、藤野が手首を怪我していたのを思い出したこと、それがきっかけだったんだ。改めて藤野と、それに、城ヶ崎の死への疑いが俺の中で再燃したのは。城ヶ崎については、背中から落下したということと、まるで図書室にいた藤野に目撃させるように飛び降りを行ったこと、それ以外に――藤野の左手の怪我のような――決定的な疑いは持てていなかったんだが、藤野の死に疑惑が湧いた以上、城ヶ崎のそれを切り離して考えることは出来ないだろ。仮に、先に死んだ城ヶ崎のほうにだけ疑惑があったとしたら、あとから死んだ藤野のほうには、ことさら疑いの目を向ける必要はない。単純に、城ヶ崎の死にショックを受けての後追い自殺だと考えても、いちおうの納得はできる。だが、藤野のほうに疑惑が浮かび上がってきた以上、城ヶ崎のことを別物として考えるのは難しい。二人の死には、何かしらの密接な関係があると考えるのが自然だ。因果関係は時間を逆流しない。あとから死んだ藤野に持ち上がってきた疑惑は、その関係の線を伝って、城ヶ崎の死に、そもそもの原因があると、そう考えるのは当然のことだろ」


 ここでも古泉は、同意を求めたわけではなかったのだろう。視線は正面に向けたままで、自分自身に対して言い聞かせているような口調だった。


「それでも俺は、すぐに冷静になった。さっきも言った理由からさ。もうとっくに決着がついた事件を、しかも、卒業を間近に控えたこのタイミングで蒸し返すことに抵抗があったんだ。だから、俺はこのことを叔父に話した。スクープになるんじゃないかって、得意げな気持ちもなかったと言えば嘘になる。でも、叔父は拍子抜けするほどに乗り気じゃなかった。遺族の心情だとか、学校の受けるダメージだとか、生徒たちが受けるショックだとか、綺麗事をこれでもかと並べ立てていたけれど、一度決着がついた事件に対して捜査のあら探しみたいな真似をして、警察に睨まれるようなことにでもなったら、今後の仕事に差し支える、それが本心だったんだろうと思う。叔父は主に刑事事件をネタにした記事を書いて飯を食ってる。それには、事件の情報を流してくれる警察と良好な関係を保つことは第一義だ。つまり、叔父にとって警察は大事な取引先なんだ。いたずらに機嫌を損ねても、メリットなんて何ひとつない。昔はそんな日和見な記者じゃなかったんだけどな……。そのことについて、叔父に失望したとか、そういうのはなかった……と言うと、これも嘘になるのかもしれないが、理解はした。俺だって、明日、学校を卒業して、社会人という身分になってしまえば、その瞬間から社会の歯車だ。納得は出来なくても、理解だけはしなくちゃいけないと、そう思った。

 だから、決心したんだ。徹底的に調べてやろうって。卒業するまでに、社会の歯車でなく、高校生というモラトリアムでいられる時間のうちに、城ヶ崎と藤野の死の真相を解明してやろうって」


 時間を確認する。古泉が言うモラトリアムの期限が、卒業式が終わる瞬間――式次によれば、明日の午後十一時半――を差すのであれば、彼に残された猶予は、もう半日と少ししかないことになる。そして、彼は期限内に到達したのだ、二人の死の真相に。そのことは、古泉の話す口調を聞けば、その目を見れば、確信できた。


「俺は、事件の捜査は、極力クラスのみんな――特に、桐林と宝田と、お前――には気付かれないように進めたつもりだったんだが、もしかしたら、俺が変なことを訊き廻ってるって、お前たちの耳に入っていたかもしれないな。済まない」


 古泉は頭を下げた。

 そう、実際、亜沙美が言っていた。

『古泉が、遙香や勇一のことを調べているみたいよ』

 それを聞いた祥太郎は舌打ちをして、あからさまな嫌悪感を示していた。

『あいつ、どういうつもりなんだ……』

 自分も二人に同調して、同じように古泉に対して悪態をついたが、内心渦巻いていたのは、嫌悪よりも恐怖だった。


 古泉幹人。特段親しくしていたわけではないが、妙な存在感を持つ男だと、前々から思っていた。視界の隅に入っていれば、必ずその存在に気付いていた。実際……遙香を殺したときも、勇一を殺したときも、どういうわけだか、まっさきに頭に浮かんできた顔は、亜沙美でも祥太郎のものでもなかった。

 今日の突然の呼び出しにも、無視するという選択肢は思い浮かばなかった。この男――古泉幹人は、ある種の磁場を持っているのだ。何かしらの事件、あるいは、特定の人間を引き寄せる磁場を。きっと……人を殺したことのある、あるいは、殺そうと画策している、そういう人間だけを引きつける磁場を、体の外に張り巡らせているのだ、この男は。

 事件を引き寄せる、という意味では、こんな話を耳にしたことがあったのを思い出した。

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