第6話
話が事実であれば、四年前。隣の校区の中学校で、ある事件が起きた――いや、結果、事件は表面化することなく、同じ学校に通う二年生男子の活躍により秘密裏に解決されたということなのだが……。その、事件を未然に解決した男子生徒というのは、今にして思えば、古泉幹人だったのではないだろうか? 古泉の出身中学は知らないが、人づてに聞いた、その話に登場する事件を解決した生徒と、今、横でベンチに座っている古泉とは、一致した境遇、雰囲気を持っているように思えてならないのだ……。
二年生のあるクラスに、ひとりの生徒――男子か女子かは、はっきりと伝わっていない――がいた。仮に、その生徒の名字とされているイニシャルのアルファベット読みから、“アイ”と呼称しておく。
最初に異変に気付いたのは、隣の席のクラスメイトだった。このクラスメイトはイニシャルも不明だが、“アイ”の隣席ということで“ジェイ”と呼称することにする。
ある日の体育の授業前にジェイは、アイがジャージに着替える際、上着を脱ぐ拍子にシャツがめくれ、その白い肌に痣が出来ているのを見つけた。どうかしたのか? と訊いてみたが、何でもない。とアイは短く返すだけだった。そのアイの様子に、見られてはいけないものを見られた、という焦りの色が滲んでいるように、ジェイには思えたという。
気になったジェイは、それからアイのことを観察するようになり、どうも様子がおかしい、と感じるようにもなっていった。
アイがどんな生徒か。訊かれた人は皆が皆、同じようなことを口にするだろう。“口数が少ない”、“大人しい”、“他人に気を遣う”、“きれい好き”。中でも最近とみに、その口数の少なさと大人しさに拍車がかかるようになっていた。授業中に教師に当てられ慌てて教科書を開く、というようなことも何度かあった。心ここにあらず、というよりは、重大な悩みを抱えて、思い詰めているように感じられたという。
ジェイが決定的な目撃をしたのは、それから数日後のことだった。放課後、昼休みに図書室から借りた本を机の中に忘れてきたことを思いだし、帰路の途中で学校へとんぼ返りしている最中だった。通学路として利用している道路から枝分かれする、高層階の建物に囲まれた狭い道、その奥に偶然、アイの姿を見つけた。アイはひとりではなかった。同年代と
本を取りに戻る用事も忘れ、ジェイは脱兎の如く家へと戻った。
教師に相談するべきか、それとも、アイ本人と話をするか。
教師の耳に入れたら、さすがに何かしらの対応を取るだろうとは思う。しかし、最悪なのは、外聞を気にし、また、余計な――あくまで教師、学校にとっての余計な――仕事を増やさないために、アイに簡単な聞き取りをするだけで済ませてしまうということだ。恐らく、アイは自分がそのような目に遭っているとは自白しないだろう。アイの性格を考えれば分かる。結果、アイが恐喝に遭っているという事実はなかったと、教師連中は裏取りもせずに、そう勝手に判断を下すことになるだろう。が、それで終わればまだいい。もしも、教師が妙な義憤を起こし、あるいは形だけでもと、アイを取り囲んだ中にいた、素行のよくない生徒本人にまで聞き込みが及んでしまったら……。アイがどのような報復を受けてしまうか、分かったものではない。
アイ本人に直接質しても同じことだ。相手が教師だろうがクラスメイトだろうが、アイが事実を話すことはないだろう。
この事実が自然に明るみに出る可能性は低いと思った。恐喝グループは余程上手く立ち回っていたのだろう。校内から、そういった――生徒が恐喝に遭っているという――噂が出ることはなかったし、昨日、自分が現場を目撃できたのも偶然の産物に過ぎない。あいつらは、人の立ち入らない場所と時間帯を知り尽くしているのだ。加えて――恐喝グループの中にいた、同じ中学の素行のよくない生徒。あいつの親は政治家で、地元にかなり顔を利かせていると聞いている。もしも、この件を誰かしらが告発したところで、公になる前に揉み消されてしまう可能性が高い。そうなれば、どのみちアイが報復を受けることになる。そして、その影響が及ぶのはアイ自身に留まらないだろう。その政治家は地元の土建業界のボス的存在だという。公共工事の入札を陰で牛耳っているという噂まである。そして、アイの家は小さな土建屋を営んでいるのだ。そのことを知っているからこそ、アイは目を付けられ、また、誰にも相談を持ちかけられず、ひとり悩みを抱え込んでいるのかもしれない。
早めに登校した翌日、そんなことを思いながら自分の席で逡巡しているジェイの視界に、ひとりの生徒の姿が飛び込んできた。その生徒こそ、この事件を解決した男子生徒だった。
やおら、その近づいてきた生徒――古泉(この生徒が古泉幹人だと断定し、そう呼称する)は、
『読まないのなら、返却してほしい』
と声をかけてきた。きょとんとするジェイ。突然、主語のない語りかけを――それも、特段親しくもしていなかった生徒から――されては、そうなるのも無理はない。古泉が省略した主語が、昨日図書室から借りた本だということは、“読まない”、“返却”という二つの語句からすぐに察せられはしたが、いきなりどうした? と訊かずにはいられなかった。
古泉は、前の席の椅子に腰を下ろし、事情の説明を始めた。
昨日の昼休み、読み終えた本を返却し――そして新たな本を借りるため――図書室を訪れた古泉は、目的の本が棚にないことに気付いた。その本の返却予定日を図書委員に尋ねるべくカウンターに向かった古泉は、そこで奇しくも目当ての本を目撃することとなった。その本はジェイの手にあり、今まさに貸し出し処理が終えられたところだったのだ。まさか、そこで、“その本を譲ってくれ”と声をかけるほど古泉も無遠慮ではなかった。図書室の規定では、本の貸出期間は最大で二週間。目当ての本はそれほど分厚いものでもないため、どんなに遅読のものでも一週間もあれば読破できるはずだ。その間、家にある、古本屋で購入したがまだ目を通していない本を読んで待てばいいか、と古泉は、ジェイに続いて図書室をあとにし、教室に戻った。ジェイは借りた本をすぐに机の中にしまっており、古泉もそれを目撃したという。
『なのに、昨日、お前は本を持ち帰らなかっただろう』
やんわりと咎めるような口調で、古泉は言ってきた。古泉は、帰宅準備をするジェイが、机の中から借りた本を取り出さなかったことも観察していたのだ。
あの本は発売されたばかりの単行本で値が張る。おいそれと中学生の財力で購入できる代物ではないから、図書室だけが頼りだ(古泉がリクエストして図書室に購入させた本らしい)。だから、すぐに読む気がないのであれば、一度返却して自分に譲ってほしい。そう古泉はまくし立てた。
いや、読むつもりはある、昨日はたまたま忘れていっただけだ。そう言いわけをしようとしたジェイだったが、
『あのな……』
昨日目撃したこと、アイのことを相談しようと思った。どうして、親しくもない古泉に対して、そんな話を持ちかけようとしたのか。ジェイ自身もよく分からないという。何か、“この男は、こういう揉め事に巻き込んでもいい。むしろ、そうすべき”という、言葉で言い表せない不思議な感覚が芽生えたのだという。
が、結果、古泉に相談することは出来なかった。その直後、登校したアイが教室に入ってきたためだ。喉元まで出かかった、アイについての相談事は呑み込まれ、代わりに、
『済まない。前に読んだことのある本だったのを忘れて借りてしまったんだ。昼休みに返却しに行く』
という言葉が、平謝りとともに吐き出された。
『そうか……』
古泉は、そう言い残すと立ち上がり、自分の席に戻った。
それ以降も、ジェイはなるべくアイのことを気にしていたが、特に目に見える変化はなかった。変化がないということは、あの恐喝はそのまま継続されていると見て間違いはない。いや、正確に言えば変化はあった。アイが昼休みに摂る昼食の量が減っていたのだ。アイはいつも、登校時にコンビニで購入しているのだろうか、おにぎりやパンを昼食として食べていたが、それがいつしか、ゼリー飲料ひとつだけになっていることに気付いた。食事も喉を通らないほどに悩んでいるのだろう。そう思い、同情しながらも、何もしてやれない――行動も起こせない――自分を情けなく感じていた。
二、三日ほど経つと、ついにアイは昼食時に何も口にしなくなり、それが数日も続いた。昼休み後の体育の授業時、アイが倒れたことがあった。アイは“気分が悪くなった”と言っていたが、空腹が原因であることはジェイには明白だった。
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