第14話

「計画と違って、マットの――正確には台車の――下には血を描いたアクリルなんて敷かれてはいなかった。それはそうだ。この偽装自殺の裏にある、お前の本当の計画には必要のないものだからな。なにせ、城ヶ崎が転落したアスファルトには、絵の具で描いた偽物じゃなく、本物の血が流れることになるんだからな」


 そう、血を描いたアクリル板など必要はなかった。が、計画――あくまで“偽装自殺”の計画――に信憑性を持たせるため、実際にフェイクの血しぶきボードは完成させ、遙香に見せた。そのために大量の絵の具が必要となり、部の備品を失敬したのだが、それが古泉にトリックを暴くための手がかりを与えることになってしまうとは。

『さすが美術部のエース! 本物の血みたい……。絶対に騙されるよ、これは!』

 自分の作ったボードを絶賛し、はしゃいでいた、無邪気とも見える遙香の姿が思い出された。

 マットを載せた台車を屋外倉庫にしまい、車も駐車場に返した。もうその頃には勇一の119番通報で駆けつけた救急車が、サイレンを鳴らしながら学校敷地内に進入して来ていた。校内は騒然。職員室も大騒ぎとなり、その隙に有島の背広に車の鍵を戻しておくのは造作もない仕事だった。


 どこか違っていたところはあるか? と、そう訊きたげに、古泉は顔を向けてきた。

 何もない。一部始終を見ていたのか? と逆にこちらが訊きたくなる。名探偵め。

 古泉がいつも読んでいた本。ブックカバーに覆われたその中身は、やはりミステリ小説だったんだろうなと、完全にそう確信した。

 勇一と馬が合ったかもしれない。


「飛び降りた瞬間、真下の中庭から、着地するべきマットが移動していくのを見た城ヶ崎は、落下していくわずかの時間の中で何を思ったんだろうな」


 十二メートルの高さからの落下に要する時間は、約1.2秒。先ほど古泉も言っていたが、それを聞くまでもなく、自分でもその落下所要時間は算出していた。恐らく、遙香が飛んだことを確認してからアクセルを踏んだのでは間に合わない。遙香が身を乗り出し、その体の重心が屋上の縁を越えた――その瞬間にはもう、車をスタートさせていなければならないだろう。もしも、遙香がマットが移動していく様を目撃したとしても、重心が屋上の縁を越えてしまったら最後、もう後戻りはできない。遙香がどんなにこうが、翼を持たぬ身の人である以上、生身で地球の重力に抗うことなど不可能なのだ。

 しかし……遙香は、自分が車をスタートさせた――すなわち、落下すべき場所からマットが消え失せたことを、結局認識しないままに墜落したのだろうと思っている。なぜなら、遙香はきちんと“背中を下にした姿勢”で転落したからだ。着時事に体がマットに接する面積を最大にして、落下の衝撃を最大限分散させる姿勢。その格好で墜ちていこうとしたら、自然と視線は上を向くこととなる。落下しながら直下の様子を確認することは不可能。人の目は背中についていない。

 古泉の話では、救急隊員が駆けつけた時点で遙香はすでに死んでいたという。すなわち、ほぼ即死だったと考えられる。遙香は、自分が車を走らせたこと――裏切られたことを知ることのないまま、この世を去ったに違いない。そのことは自分にとって救いでもあり、だが、心に残ったしこりでもあった。


 助からない病に冒されて余命を宣告されただとか、生還が絶望的な深手を負っただとか、自分の死を、ごく近い将来に必ず起きる現実的な出来事として意識しながら死んで行く。あるいは、死刑執行直前。あるいは、自殺。そういった、いわば、“死ぬことを認識した死”と、たとえば、道を歩いているときに背後から暴走ダンプに突撃されて即死した、とかいう場合の、“いっさいの認識のないままの死”とでは、どちらのほうがより残酷なのだろう、と考えるときがある。

 命を一本のロープに例えてみると、“認識ある死”というのは、ロープをひねり、じわじわと繊維の一本ずつを捻じ切るようにして切断していくということに似ている。自らの命というロープが、徐々に細くなっていくことが分かる。あとどのくらいで死ぬのかということを、おぼろげにも知りながら、人や状況によっては、ロープをロープたらしめている、繊維の最後の一本が切れる……その瞬間を目撃することもあるかもしれない。

 対して、“認識のないままの死”というのは、ハサミでいきなりロープを切断されてしまうことに例えられるだろう。あまりの早業のため、ロープが切断されたことにすら気が付かない。“自分は死ぬんだ”と理解することすらないままの死。どんなに猶予があったとしても、“じぶ――”くらいの時点で死ぬ。

 同じ“死”といっても、この両者のあいだには、あまりにも大きな隔たりがありはしないだろうか。

 “自分は死ぬ“。受け入れようが受け入れまいが、その現実にすべての意識を集中しながら迎える死と、“今日のお昼は何を食べようか”などと考えているときに突如訪れる死。オカルティックな話は苦手なのだが、前者のことを“成仏”と言うのではないだろうか。そう思うと、遙香は成仏できなかったのだろうか。これからも……できることはないのだろうか。


 思考が脱線してしまったが、古泉の質問に返ろう。屋上から墜落している1.2秒の時間の中、遙香が何を思ったのか。

 ……分からない。どんなに考えても分からなかった。


 さらに気温が下がったように感じる……いや、実際に下がっているはずだ。一度日が没したら、もう次に太陽が昇るまで気温は下がり続ける一方。夜明けの直前が一番寒い。


「次は……藤野の事件だが……」


 なぜか、少し申し訳なさそうな口調で、古泉は口を開いた。何を遠慮することがあるのか。推理の刃で殺人犯を滅多斬りにするのが名探偵の仕事だろう。そこに躊躇の入る余地などないはずだ。

 勇一……。

 遙香を殺し、すべての後始末を終えて、中庭に戻ってきたときのことを思い出す。そのとき校内にいる生徒、教師の全員が集まっていたのではないだろうか。それでも、全校生徒の十分の一程度の人数だったため、中庭がごった返すという事態にまでなってはいなかった。教師らの誘導が功を奏し、救急車の動線の確保は出来ていたし、救急隊員の仕事に支障をきたすようなこともなかっただろうと思う。

 皆、遠巻きに事態を見守っているばかりだったが、通報者で、遺体の第一発見者でもある勇一だけは違っていた。救急車のあとからすぐに駆けつけた警察官に事情を訊かれていた。距離があり、周囲の喧噪も邪魔をしていたことで、何を訊かれ、何を答えていたのかまでは分からなかったが、勇一は、今まで一度も見たこともない表情をしていた。恐怖、不安、そして、後悔? 遠目にも、その目が潤んでいることは分かった。

 この勇一の姿を、遙香にも見せてやりたかったと思った。


 遙香の死は当然、すぐに亜沙美と祥太郎も知ることとなった。警察から聴取中の勇一には無理だろうし、現場にいた自分が連絡するのが自然だった。

 事情を説明するのに苦慮した。何をどう喋ったのか、憶えていない。祥太郎などには、落ち着け、と何度もなだめられるくらいだった。

 そのときの自分は、本当に恐慌をきたしていて、本当に遙香の死を悲しんでいたのだと思う。勝手な言い分だが。

 その夜、いつものファストフード店で、亜沙美、祥太郎と落ち合い、今後のことを話し合った。勇一にもメッセージを送ったのだが、既読もつかず、向こうから返信が来ることもなかった。

 亜沙美が終始泣きじゃくっているばかりだったため、必然、話し合いは、ほぼ祥太郎と自分とのあいだだけで行われることとなった。平常心を保つことに大変な努力を要しただろうに、祥太郎の態度、口調は落ち着いていた。普段は三枚目の役どころだが、いざというときには頼りになる男だった。そのときの自分は、亜沙美と祥太郎の中間くらいの立ち位置だったと思う。自分はすべての事情を知っている。あまり落ち着いた態度を取っていたら怪しまれると思い、それなりに演技するプランでいたのだが、実際、あのときの自分は半分冷静で、半分気が動転していたのだと思う。現実感が失せていた。目に映るすべてが、モニターの越しに展開されている映画のように錯覚していたと言ってもいい。


『遙香は自殺したらしい』

『理由に心当たりはある?』

『信じられない。ありえない』

『勇一との関係は?』

『上手くいってたに決まってるじゃない』

 ときおり亜沙美は声を荒らげたが、若者たちのたまり場となっている夏休み期間中のファストフード店は、そんな声――そして亜沙美の嗚咽――をかき消すに十分な喧噪であふれかえっていた。

『遙香が自殺したなんて、信じられないし考えられない』

『じゃあ、何か? 殺されたとでもいうのか?』

 どきり、と心臓が脈打った。

『それこそありえない! どうして遙香が殺されなきゃならないの?』

 遙香の死の原因を探っても埒が明かない、今はそれよりもやるべきことがあると祥太郎は判断したのだろう、

『まず、何にも増して優先しなければならないのは、勇一のケアだ』

 言いたいことは分かる。祥太郎は懸念している。

『勇一から目を離したくない』

 それを聞くと、亜沙美も堪えるように嗚咽を封じ込めた。彼女も理解したのだ。勇一が、遙香のあとを追っていってしまうという、最悪の事態が起きることを。


 それから祥太郎は、勇一の自宅に足繁く通い、勇一自身に会うことはかなわなかったものの、両親からその様子を教えてもらうことは出来ていた。

『最初の二、三日は部屋に引きこもっていたけれど、食事のときには居間に来るようになってきたそうだ』

『顔色にも血の気が戻ってきて、少しずつだが立ち直りつつあるように見えるそうだ』

 その都度、亜沙美と自分に状況を報告してくる祥太郎自身も、当初よりはだいぶ――気を張って無理をしているふうでもなく――落ち着いてきたように見えた。亜沙美もそれは同じだった。もう、遙香の話をしても、じんわりと滲んだ涙にハンカチを当てる程度で、祥太郎の口から勇一のかいふく具合を聞くたび、笑みもこぼすようになってきた。

『この前は、電話にも出てくれた』

 それを聞くと、

『本当?』

 亜沙美は歓声をあげた。

『ああ、本当だ。夏休み明けに学校で待ってるぜ、って伝えると、ああ、って返事をしていたよ。声も意外と張りがあったし、もう……勇一の心配をする必要はないかもな』

『よかった。私も、今日にでも電話してみる』

 亜沙美は嬉しそうに、お気に入りのキャラクターが描かれたケースを被せてあるスマートフォンを撫でた。


 自分が勇一も殺害することを決断したのは、亜沙美、祥太郎とそんなやり取りをしてから二日後のこと。遙香の死からは一週間が経った、八月二日の朝だった。もしかしたら、こういうことに――勇一も殺すことに――なるかもしれないと思い、考え、一週間のあいだこつこつと準備してきた、そのトリックを発動させることになった。

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