第13話

『偽装自殺?』

『しっ、声が大きい』

 思わず見回した。遙香の発した不穏な言葉は、幸い誰の耳にも届くことなく、ファストフード店内に飛び交う喧噪にかき消えたようだ。

 声のトーンを落とし、計画を遙香に聞かせる。

 勇一に見えるように、遙香が屋上から飛び降りる。その直下には、高飛び用のマットが敷いてあるため、本当に転落死してしまうことはない。そのマットはただ敷いてあるわけではない。台車に載せ、さらに車で牽引できるようにしてある。この車は有島のハイブリッドカーを無断借用し、運転は自分がする。マットの上に落下した遙香は、すぐに地面に下りる。同時に自分は車を走らせる。台車の下の地面――正確にはアスファルト――には、あらかじめ血が飛び散ったような模様を描いたアクリルが敷いてある。マットから下りた遙香は、いかにも本当に転落したかのように、その上に横たわるのだ。

 遙香の飛び降りを目撃した勇一に、その一連の工作を知られることはない。図書室の窓からでは、カエデが邪魔をして中庭の様子までは確認できないためだ。

 勇一は中庭に直行するだろう。図書室から中庭まで、どんなに急いでも数分はかかる。その間に、自分はマットを倉庫に片付け、有島の車を駐車場に返すと、再び中庭へ戻り、フェイクの血の海に横たわった遙香のそばにしゃがみ込む。たまたま中庭にいて、遙香の飛び降りを目撃したふうを装うのだ。

 愛する恋人の突然の死を目の当たりにして、勇一はどうするのか。何を言うのか。そして、どんな行動を取るのか……。

『まあ、近づけば本当は死んでなんかいないって、すぐに分かっちゃうんだから、たちの悪いドッキリだよね。勇一が、どんな顔をするのか、見てみたいとは思うけれど』

 やることの規模と危険度と、得られる効果を天秤にかけたら……普通は……やらないだろう。やるはずがない。

 断ってほしい。

 なに考えてるの? と呆れてほしい。

 馬鹿馬鹿しい、と一笑に付してほしい。

 たきつけながら、そう祈ってもいた。遙香がこの計画に乗るというのは、すなわち……遙香自身の死を意味することになるからだ。が……。

『やる』

 遙香は言い切った。

 その瞳の中に、強い決意の光を見た。まったくの未経験だった棒高跳びへ挑戦することを決めたときのような、この計画に対しても、それと同じ程度の認識なのだろうかと、彼女が元来持つ思い切りの良さを、ありがたく思いもしたし、また、残念にも思った。



「……これが、お前と城ヶ崎が立てた、偽装計画の全容だと推理したんだが、どうだ?」


 どうだ? などと訊いておきながら、古泉の表情には確信の色が滲んでいる。

 聞かされる彼の推理に当てはめながら、当時のことを回想していた。半年以上も前なのに、まるで昨日のことのように思い出される。

 鏡があったら覗いてみたかった。今、自分が、どんな表情をしているのかを確かめたかった。ポーカーフェイスを保持できているだろうか? それとも、すべて図星だ、と書いてあるような、不安な顔をしているのだろうか……。


「だが、結果……“偽装自殺”とはならなかった。城ヶ崎は本当に死んでしまった。校舎屋上から転落死した。どうしてそんなことになってしまったのか……それはもちろん……土壇場でお前が裏切ったからだ……」


 古泉の「裏切った」という言葉は、予想以上に頭の中を揺さぶった。



 ブレーキペダルを踏み込み、アクセルペダルに足を乗せ、片手はハンドル、もう片手に持つ手鏡の中には、遙香の姿が映っている。手鏡の縁に切り取られた鏡像の遙香。その遙香が、懐から取りだした何か――スマートフォンらしい――を指で操作した。直後、自分のスマートフォンが鳴動し、通信アプリのメッセージが届いたことを知らせた。表示された発信者名は遙香のものだった。なんだ? この期に及んで……。ハンドルに乗せていたほうの手でスマートフォンを操作し、届いたメッセージを確認する。

 ――勇一がいる。いつもの席で熱心に本を読んでる。タイミングを見て、飛ぶから。

 分かった、と簡単に返事を打つ。それは即座に既読となり、さらに、

 ――もしも、誰かが中庭に入ってきたら、計画は中止。

 そのことは当然、事前に決めていた。

 ――周りに人がいないか、確認していて。もし、誰か来そうになったら教えて。

 これにも、分かった、と同じ返事を打つ。

 ――私がマットに落ちたら、音と衝撃で分かるでしょ。だから、周りの確認に集中していてね。それじゃあ。

 それが生きている遙香の最後のメッセージとなった。

 この、直前でメッセージをやり取りする、というのは計画にはなかったことなのだが、遙香もそれだけ注意深くなり、緊張もしているということなのだろう。それは……こちらも同じだ……。

 そう、この計画を誰かに目撃されるわけにはいかない、絶対に。

 手鏡の中の遙香が、屋上の縁から大きくはみ出そうとしていた。後ろ手に掴んでいた手すりも離したのだろう。対面する特別教室棟の三階――図書室――の窓際席にいる勇一が、読書の合間に顔を上げたことを視認したに違いない。勇一のほうでも、屋上の縁に立つという異様な状況下にいる遙香を認めたはずだ。それを確認したからこそ、遙香は今……飛ぼうと――いや、墜ちようとしている。宙に身を躍らせようとしている……。



『大丈夫、マットの上に落ちるのは棒高跳びで慣れてる。いつもより少し高くなるだけだから』

 提案した“偽装自殺計画”最大のネックは、偽装とはいえ、実際に飛び降りを敢行しなければならないということだ。その飛び降りに対して、遙香は事もなげにそう言った。

 どこが『少し』なものか。遙香が三年足らずの陸上部生活で出した棒高跳びの最高記録は、三メートルにやっと届く高さだという。陸上部顧問が言うには、それでも高校生女子としては結構なレコードなのだということだが。

 中庭――すなわち地面――から校舎屋上までの高さは、約十二メートル。三角関数――対象物より一定距離離れた位置から頂点を見た角度で、対象物の高さを求めるという、あれ――を使って算出した。サイン、コサイン、タンジェント。祥太郎に苦しみを与える呪文でもある。

 とにかく、四倍が『少し』の範疇に収まるとは、とても思えない。が、

『やれる』

 遙香は断言した。高飛びと同じ要領で、背中から落下すれば体を痛めることもないだろうとも言った。自殺する人間が背中から落下していくというのは不自然かもしれないが、それを目撃させる勇一からすれば、実際に墜ちていく遙香の姿を視認できるのは、屋上から二階天井の高さまでのわずかな距離、時間に過ぎない。それ以降はカエデの枝葉が目隠しとなり、遙香の姿を覆い隠してくれる。突然のことに気が動転して、勇一がそこまでの観察力を発揮することは不可能だろう。

 むしろ、遙香のほうがこの計画に対してポジティブなバイアスをかけ始めた。

 こうなったら遙香を止めることは出来ない。自分にとっては好都合な展開になったはずなのだが……戸惑っていなかったと言えば嘘になる。


 計画の詳細が煮詰まると、隙を見つけては遙香と二人で屋外倉庫に忍び込み、飛び降りの練習を何度か行った。

 倉庫の天井は高い。実際の校舎屋上――地上十二メートル――にはさすがに及ばないが、それでも結構な高度からの落下練習を行うことが出来た。少なくとも、棒高跳びの世界記録である六メートル強の高さは確保できた。その高度から飛び降り練習をする際、遙香は、

『これが世界か』

 と感慨深い表情になっていた。


『台風が来るかもしれないから、七月末から八月に入るくらいまでに決行したいね』

 最後の練習の帰り道に、遙香が言った。この計画に風は大敵だ。

 七月末から八月に入るくらい……。

 その数日間のどこかが、遙香との今生の別れの日となる。



 遙香の体が完全に屋上の縁から逸脱した――その瞬間にはもう、自分の左足はブレーキペダルを離れ、同時に右足はアクセルペダルを踏んでいた。急発進したことにより、一瞬タイヤが空回りを起こし、スキール音を響かせたが、その音はごく小さなものだったはずだ。中庭を越えて外に漏れるほどの音量だったとは思わない。エンジン音が皆無のため、実際以上に大きな音として認識されたに過ぎない。

 スキール音の直後――後方から、今までに聞いたことのない、本能として恐怖と嫌悪を感じる音が聞こえた。何かが何かにぶつかる音。この音こそ、中庭をはるかに跳び越え、学校中に響き渡ったのではないか? そう思わせる、鈍くて重い、破壊的な音だった。残酷さというものは、目に見えない音にも宿るものなのだと知った。

 サイドミラーを覗くことなく、そのまま車を走らせた。

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