第2話

 ――生徒が屋上から飛び降りた。

 七月二十六日、午後四時五分。震える声で119番通報をしてきたのは、野木鐘高校三年の藤野勇一だった。通信指令センターの録音記録と、彼自身の証言をまとめると、当時の状況は以下のようになる。

 その日――七月二十六日は夏休みに入っていたが、野木鐘高校は長期休み期間中でも、校内の全施設を生徒たちが利用できるよう開放することをならわしとしている(盆と年末年始は除く)。 藤野勇一は、特に用事のない日は、学校の図書室に入り浸ることを夏休みの日課としていた。ただ涼みに来ていたのではなく彼は、図書室の目当ての蔵書を読み漁るという、れっきとした目的を持って図書室に通っていた。藤野勇一の所属は文芸部だった。



「藤野って、線の細い、いい意味で病的な美形だったもんな……って、全然いい意味じゃないか。でも、体育のサッカーではフォワードを任されてて、結構活躍してたんだぜ。人は見かけによらないっていうか、意外と体力もあったんだよな。さすがにサッカー部に入ってレギュラーを取るまでのレベルじゃなかったけど……それほどの実力があったら、部のほうからスカウトが来てただろうからな。……まあ、そんな話はいいか。で、肝心の、藤野の証言なんだが……」



 午後四時頃、いつものように図書室の、いつもの席で読書をしていた藤野勇一は、読んでいる小説の章が切り替わったタイミングで、本から顔を上げた。彼の図書室での“いつもの席”というのは、窓際に並んだカウンター席の一番端だった。カウンター席はすべて、窓に面して座る格好になるため、視線を上げれば窓外の景色がすぐに視界に入ってくる。図書室のカウンター席の窓からは、“一般教室棟”と呼ばれる校舎が見える。

 野木鐘高校の校舎は二つに分けて建てられている。一般教室のある“一般教室棟”と、美術室、図書室などの特別教室が集まった“特別教室棟”だ。両校舎はともに三階建てで、図書室は最上階である三階に位置している。一般教室棟と特別教室棟は、中庭を挟んで平行に向かい合って建つ形となっており、図書室は、その中庭に面した側に入っているため、窓からは常に中庭を挟んだ一般教室棟を臨める。どちらの校舎も数年前に、耐震対策も含めたリニューアル工事がされており、夏は涼しく冬は暖かい室内効果を発揮するという触れ込みの装飾パネルが張られた外壁には、そのパネルの接合面が作り出す直線が碁盤の目のように縦横に走っていた。

 藤野は、何気なく、そのまま視線を上昇させた。一般教室棟の同階である三階の窓、さらに、その上に見えるのは屋上、正確には、屋上を囲った転落防止柵。その転落防止柵の一部が途切れていた――いや、その前に人が立っていたため、柵が隠れて見えなくなっていただけだったのだ。

 ――人が立っている?

 藤野は怪訝に思った。野木鐘高校においては、安全面の観点から、正当な理由のない場合を除いて屋上への立ち入りは禁止されている。そのため、屋上へと続く階段室ドアの鍵は常時施錠されているはずだった。にも拘わらず、屋上の、しかも転落防止柵の外側に人が立っている。さらに、その何者かは野木鐘高校の制服を着ており、加えて……。

 ――遙香?

 藤野は思わず呟いた。屋上の、転落防止柵の外側に立ち、後ろ手に手すりを掴んでいるその野木鐘高校生徒は、彼がよく知る人物……よく知るどころか、交際してさえいる女子生徒、城ヶ崎遙香だった。

 両校舎間は、中庭の幅分だけ――おおよそ十五メートル――離れてはいるが、藤野は屋上に立つ人物が城ヶ崎遙香だとはっきり視認できたという。本の虫にもかかわらず――という見方は偏見かもしれないが――彼の視力は2.0だった。

 目が合ったような気がした、とも藤野は証言した。当然、対面校舎屋上に立つ城ヶ崎遙香とである。

 今すぐ屋上へ行くべきか、あるいは、スマートフォンで連絡を入れてみるか、それとも、窓を開けて声をかけるか……。取るべき行動を決めあぐね、逡巡を始めた――その刹那。軽くステップを踏むように、城ヶ崎遙香は屋上の縁を蹴り、虚空に身を躍らせた。

 墜ちていく城ヶ崎遙香の体は一瞬で見えなくなった。それというのも、二つの校舎を分かつ中庭中央には、校舎と平行する形で一列に植樹されたカエデの木が立ち並んでいたためだ。カエデの樹高は二階天井付近に達しており、そのため校舎外壁を背景に墜ちていく城ヶ崎遙香の体は、三階部分を通過したところで、カエデの豊かな枝葉に遮られて死角に入ってしまったのだ。カエデが遮っているのは対面する校舎ばかりではない。三階から見下ろすという視点ゆえ、カエデの向こう側の中庭――すなわち、屋上から飛んだ城ヶ崎遙香が到達するであろう落下地点――も、やはりカエデの枝葉に覆われてしまい、ここ図書室からでは視界に入れることが出来ない。

 何かが硬いものにぶつかったような嫌な音が、窓ガラスを通しても聞こえた。椅子を倒す勢いで立ち上がった藤野は、そのまま全速力で廊下へ飛び出した。このときの藤野勇一の様子を、図書室にいた数名の生徒が目撃している。



「藤野は、中庭を目指して走っている最中に119番通報したそうだ。このときの、スマホを耳に当てて震える声で通話しながら、血相を変えて走る藤野の姿も、校内にいた何人かの生徒に目撃されている。で、藤野は中庭に辿り着いた。その中庭に横たわっている城ヶ崎を発見したときの藤野の気持ちは……察するに余りあるよ。なにせ、城ヶ崎が墜ちた先は、固いアスファルト舗装がされた駐車場だったんだからな」



 野木鐘高校中庭の一部は、数台の自動車を収容できる駐車場となっている。が、校門から遠く、数年前には玄関近くに植えられていた数本の松を抜去し――春先にマツカレハ(害虫)が発生することで、以前より教師、生徒らから苦情が寄せられていた――新たに駐車スペースが設けられたこともあり、その中庭駐車場を使用する機会はほとんどなくなっていた。職員会議のたびに、「中庭の駐車場を潰してベンチでも設置してはどうか」という案が誰かしらから出されていたという。

 藤野の通報から五分後に救急車は到着した。その間、藤野は、城ヶ崎遙香の遺体のそばから一歩も離れなかったという。中庭には他に誰の姿もなかったため、この日学校に来ていた生徒、教師らは、近づいてくるサイレンの音で、校内で何かしらの事故があったこと、ひいては、城ヶ崎遙香の不幸を知った。

 城ヶ崎遙香は変死と見なされ、警察の捜査も入ることとなった。



「警察による聞き込みの結果、城ヶ崎が飛び降りた瞬間を目撃した、という証言は、ひとりの生徒以外、誰からも得られなかった。そのひとりの生徒というのは、そう、藤野だ。城ヶ崎が飛び降りた瞬間を目撃したのは、藤野ただひとりだけだったんだ。とはいえ、聞き込みや身辺調査の結果、城ヶ崎を恨んでいたような人間は浮かんでこなかったし、屋上からも不自然な痕跡は発見されなかった。他には、立ち入り禁止となっている屋上に、どうやって城ヶ崎が侵入したのかという問題があったが、それはすぐに解決した」



 遺体となった城ヶ崎遙香の懐から、屋上へ出入りする階段室ドアの鍵が発見された。その鍵は通常、職員室にあるキーボックスに保管されており、生徒が屋上に立ち入る用事がある際にだけ、職員室にいる教諭の誰かしらに断りを入れ、鍵を借り受けるシステムになっていた。そのキーボックスから、一般教室棟の階段室ドアの鍵がなくなっており、鍵に刻印された番号から、城ヶ崎が持っていた鍵は、そのキーボックスに保管されていたものだということが確認できた。教諭たちの記憶によれば、最後にその鍵が使われたのは、数名の教諭が夏休み直前に、点検、見回りのため屋上に立ち入ったときだということだった。それ以前に生徒が鍵を借りた記憶は、昨年の秋に文化祭の垂れ幕を提げる目的で屋上に立ち入る際に使われたきりだった。普段、キーボックスのことは、教員の誰も特段気に留めてもいないため、職員室を訪れた際――あるいは、隙を見て侵入した際――に、城ヶ崎が教諭たちの目を盗んで鍵を持ち出すことは容易だっただろう、と警察は結論づけた。

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