第16話
「藤野は、屋上から頭を下にして、つまり、真っ逆さまの姿勢で転落したと見られた。というのも、致命傷となった傷は、ほぼ頭頂部にあったからだ。その傷口からは、細かなアスファルト片も採取されたし、落下地点と――あくまで――見られた中庭駐車場のアスファルト舗装にも、硬いものがぶつかった痕跡があったからだ。だが、実際はそうじゃなかった。藤野は屋上から転落なんてしていないし、そもそも屋上に上がってすらいなかった。当時、屋上への進入経路は、出入り口を塞いでいるボードを乗り越えた非常階段を使う以外にないと見られていたが――階段室のドアには施錠がされていたし、鍵も持ち出されていないことが確認されている――俺は、藤野にそれは不可能だったと知った。そのとき片腕を怪我していた藤野が、ボードを乗り越える力仕事なんて出来たはずがなかったからだ。
お前は当然、非常階段のことを知っているから、藤野の屋上への侵入経路として、警察がそれに目を付けてくれることを期待して、実際そうなった。が、そのときに藤野が手首を怪我していたことまでは分からなかったから、結果、屋上への侵入手段がないはずの藤野が屋上から転落したという、おかしな状況が出来上がってしまうことになったんだ」
古泉は、そこで一度言葉を切った。これは、突っ込み待ちということなのだろうか。名探偵らしくゴリ押しすればいいのに……。では、ご要望に応えて指摘してやろう。
先ほど、古泉は、犯人――自分――が「階段室の鍵の合鍵を作った」と言った。屋上へ侵入するために使用したのだという(これは正解だが)。だったら、ここに反論の余地がある。
勇一もまた、何らかの手段を用いて、階段室の合鍵を製作していたのではないか。
遙香の事件が起きる前であれば、誰にでもキーボックスから鍵を持ち出すことは容易だったということは、古泉自身も承知している。どんな目的があって、そんなことをしたのかは知りようがないが(実際には、勇一はそんなことはしていないだろうが)、とにかく、勇一もまた、階段室の合鍵を持っていたのだと仮定すれば、手首の怪我など問題ではなくなる。勇一が合鍵を持っていたか否か。証明する手段はないはずだ。
「確かに、それはそうだ」期待通りの突っ込みをしてくれたと思っているのだろうか、古泉は少しだけ口角を上げた。「藤野が合鍵を作っていたのか、作っていなかったのか、どちらにせよ証明することは出来ない。だが、俺は、藤野は合鍵なんて作ってはいなかったと、そう考える」
根拠は?
「もし、藤野が合鍵を作っていて、それを使って屋上に上がり、飛び降りたのだとしよう。だったら、どうしてわざわざ、階段室のドアの鍵を掛けなおす必要があるんだ。これから身投げしようという人間が、わざわざドアに施錠するとは、俺には思えない。屋上の縁に立っているところを目撃され、止めに入られることを阻止するために施錠したという可能性はゼロだ。夜の学校には人っ子ひとりいないし、飛び降りようとする中庭側は、外部からは完全に死角となるため、そもそも誰かしらに目撃されるということもない」
しかし、やる必要がなかったからといって、それを絶対にしなかったと言い切ることは出来ない。
「それも確かにそうだ。しかし、それに目をつむったとしても、また別の問題が出てきてしまう。そもそも藤野の遺体からは、合鍵なんて発見されていない。これはどう考えればいい。屋上に上り、階段室ドアを施錠した藤野は、飛び降りる直前に鍵をどこかに隠したか、投げ捨てたとでもいうのだろうか。俺は、屋上を隅から隅まで探したが――念のために言っておくが、屋上へは、階段室の鍵を借りて正規の手段で上がったんだ。野球のボールが屋上に上がってしまったって口実をつけてな――どこからも鍵なんて見つからなかった。
それじゃあ、投げ捨てたのか。だが、屋上から鍵を投擲できる範囲なんて、たかが知れてる。中庭側に捨てていたのであれば、もう確実に発見されているだろう。なにせ、変死扱いだから、現場には警察の、鑑識の調査が入る。砂のひと粒を探せというならともかく、鍵くらいの大きさのものが中庭に落ちていたら、鑑識が見逃すはずがない。それじゃあ、中庭とは反対の校舎裏だろうか。そちら側は、数メートルの地面が続き、すぐに学校敷地と道路を隔てるフェンスが立っている。一般的な高校生男子の肩力を考えれば、投擲可能な範囲は、その道路までに限られると思う。そこで俺は、敷地と道路も調べてみたが、鍵は見つからなかった。俺がその調査を始めたのは、藤野の事件があってから、かなり日数が経過していたので、誰かしらが見つけて拾っていってしまったという可能性もある。俺は念のため、学校と警察にも鍵の落とし物が届けられていないかを確認した。警察のほうには、何本か鍵の届け出があったが、そのどれも階段室の鍵とは違っていた。……見ただけで分かるのかって? 屋上に入るために鍵を借りた際、スマホで鍵の写真を撮っておいたんだ。合鍵でも、当たり前だけど鍵のパターンは同じだからな。見分けるのは簡単だ。
もちろん、俺が鍵を見つけられなかっただけ、ということは考えられる。心ない誰かが拾ってしまい、警察にも学校にも届け出ることなく持ち帰ってしまったか、捨ててしまったという可能性もゼロじゃないが、まあ、今はまず、俺の話を終わりまで聞いてほしい。
最後に俺は、業者を当たってみることにした。もしも、藤野が合鍵を持っていたというなら、それを製作した業者が必ずいるはずだからな。高校生の活動圏内で、合鍵の製作を請け負っているところなんて数えるほどしかない。そのどの業者からも、藤野らしき高校生が合鍵製作の依頼をしてきたことは、ここ一年くらい遡ってもなかった、と証言してくれた。藤野の写真も見せたから、漠然と“男子高校生”という括りで訊いたんじゃない。かなり信憑性の高い証言だと、俺は思う。
近隣の合鍵製作業者から得た証言。わざわざ階段室ドアが施錠されていたという点。藤野の遺体が鍵を持っていなかったこと。現場周辺からも鍵は発見できていないこと。あくまでもどれも傍証に過ぎないが、ここまで情報がそろえば、藤野は階段室の合鍵を持ってはいなかったと考えるのが妥当、というか、自然な考察になると俺は思う。そもそも合鍵がないのなら、その行方に考えを巡らすこと自体ナンセンスな話だ。
加えて、手首を怪我していた藤野には、非常階段ルートから屋上に入ることも不可能だった。つまり、藤野は屋上に入る手段を持ち得なかった。よって、藤野の死は屋上からの転落などではないと、そう俺は結論づける」
古泉は、そこで一度言葉を切った。しかし、
「が、今の話は、あくまで“藤野は合鍵を作っていない”ことの確認に過ぎない。実際、合鍵は作られている。お前の手によって。実は、業者に聞き込みをしている中で、合鍵の製作を依頼してきた高校生っぽい子がいた、という証言は取れているんだ。七月の中頃だったそうだ。藤野じゃない。お前の写真を見せて訊いたときにだ」
抜け目のないやつだ……。
「まあ、その業者も、客の顔なんていちいち憶えていなくて、お前の写真についても、『背格好から、この子に似ていると言えば似ていた』というレベルの証言でしかないんだけどな」
そうだろう。あのときは、帽子とマスクで完全防備していたんだ。
ともかく、勇一が合鍵を持っていなかった、すなわち、屋上に上がれなかったのだとしても、勇一の死因が頭に受けた傷だということは、それこそ警察の調べで確実視されている。その傷口に、アスファルト片の付着が見られたこと。傷口自体の損傷度合いも、高度十二メートル程度の高さから落下することで受傷したものと見て間違いないということも。この数々の物証がありながら、あくまで屋上からの転落ではないというのなら、いったいどういうことになるのか。
「そこだ」
古泉は、人差し指を突き出してきた。ますます名探偵っぽい所作になってきている。ゆっくりと、向けてきた指を下ろしてから、古泉は、
「俺は、ずっと、致命傷となった傷が、ほとんど頭頂部に近い位置にあるということに引っかかりを憶えていた。真っ逆さまに転落したからだ、と言われてしまえばそれまでだし、それを覆す決定的な根拠もない。
あるいは、俺は、犯人――つまり、お前――は、藤野を屋上に呼びつけたうえで突き落としたのではないか、とも考えた。他人に突き落とされたというなら、その拍子に真っ逆さまの体勢になって転落したということも十分にありえるしな。が、藤野の体や衣服に争ったような形跡はなかったし、そんな格闘を演じたら、犯人の側もただでは済まないだろう。それこそ、藤野の抵抗に遭って引っかかれでもして、爪の間に皮膚片が残ってしまいかねないし、最悪、返り討ちに遭う危険性もある。こんな極めて勝率の低い博打を犯人が選択したとは思えない。やはり犯人は、藤野を屋上に上がらせることないまま、中庭に居させたまま、転落死に見せかけて殺したはずだ。どうやって?
この謎を解くきっかけとなったのは、先月、用事があって電車に乗ることになったときだ。俺は、発車前で停車中だった電車のボックス席に座っていたんだが、その電車が突然、何のアナウンスもなく動き出したんだ。俺は、あれっ? と思った。まだ発車時刻まで数分はあるはずなのにって。でも、違ったんだ。俺の乗っている電車は一ミリも動いてなんていなくて、動き出したのは、隣の線路に停車していた電車のほうだったんだ。窓越しに、停車中の隣の電車を見ていた俺は、その車両が窓の外を流れていくのを見て、自分の乗った車両ほうが動いている、と錯覚を起こしてしまったんだ。こういうこと、お前も経験があるんじゃないか?」
ある。中学校の修学旅行で、目的地へ向かう往路の電車に乗り込んでいたときのことだ。まだ発車まで時間があるため、勇一がホームの売店に全員分の飲み物を買いに行くことになった。それを待っている最中、突然、祥太郎が立ち上がって慌てふためいた。
『おい! 勇一がまだ戻ってきてないぞ!』
当たり前だろう。勇一が席を離れて、まだ一分と経っていない。そんなに早く戻ってこられるわけがない。すわ、何事が起きたのかと、自分、亜沙美、遙香の三人は驚いて顔を見合わせたのだが、何のことはない。窓側の席にいた祥太郎は、隣に停車している電車が動き出したのを見て、まさに、今、古泉が言ったのと同じ錯覚を味わったのだ。自分たちの乗っている電車が動き出したと勘違いしたのは、錯覚のせいであることに気付いた祥太郎は、ばつが悪そうに席に座り直し(周りにいた他の生徒たちにも、何事か? と注目を浴びていた)、自分、亜沙美、遙香は腹を抱えて笑った。
「つまりだ……」
懐かしい思い出に浸る間を、古泉は与えてくれない。
「動いたと思っていたものが、実は動いていなくて、動かないと思っているもののほうが、実際は動いていた、と考えたら、どうだ? 藤野殺しのトリックが見えてくるじゃないか」
実際にそのトリックを実行した相手に対して言うセリフじゃないだろう。名探偵としては、まだまだ修練の余地があるようだな、古泉幹人。
「藤野の頭に、藤野自身が高度十二メートルの高さから転落して負ったに等しい傷があったというなら、逆に考えることもできる。藤野は静止していて、地面のほうが藤野に“落ちてきた”のだと。もちろん、地面が落ちるだなんて、そんなことは起こりえるわけはない。実際に落ちてきた――藤野の頭に落とされたのは……藤野自身の体重と同じだけの重量を持つアスファルトだ。そのアスファルトは、学校近くで施工されていた道路工事現場から調達してきたんだな?」
よくそこに辿り着いたよ、古泉。
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