0 - 3 手紙 ③
まだ何も起きていないから、警察に届けても大きくは動いてもらえない、というのが宍戸クサリの弁である。鹿野も同じ気持ちだった。ビールをひっくり返して慌てているのは不田房だけだ。ぐっしょりと濡れた黒いTシャツをその場で脱ぎ、座敷の隅に置いてあったバックパックからビニール袋に入った真新しいTシャツを取り出す宍戸の大きな背中には、極彩色の刺青が入っている。迦陵頻伽というのだったか、と店主からタオルを大量に受け取り座敷の上のビールを拭きながら、鹿野はぼんやりと思った。
「あっ宍戸さん、そのTシャツアレじゃんすか、あの、なんだっけ、鹿野……」
「エブリデイエンターテインメントですよね。新宿に新しくできたハコ」
「それ」
宍戸は短く応じ、白地にド派手な蛍光イエローで『EVERYDAY!! ENTERTAINMENT!!』と書かれたTシャツを頭から被る。
「非売品でしょそのTシャツ?」
「そう」
「貰ったんですか?」
「うん」
エブリデイエンターテインメント──その名の通り、一年365日、ほぼ毎日公演が行われている小さな劇場だ。小さな、とはいっても客席は確か600以上。補助席を入れれば700人近くの客を入れることができるのではないだろうか。新型ウイルスの影響を受けて閉館してしまった老舗劇場を、とある芸能プロダクションが買い上げたのだ。たしか昨年の話である。施設の名前を『エブリデイ・エンターテインメント』と改め、
不田房とふたりで公演を見に行き、言葉少なにゴールデン街で酒を飲んで解散した日のことを鹿野はしみじみと思い出す。面白くない、ことはなかった。それなりに楽しめた。だが、不田房や鹿野が好む舞台とは少し違った。エブリデイ・エンターテインメントは、毎日、いつでも、誰でも気軽に足を運ぶことができる劇場、というテーマで運営している。なかなか挑戦的な試みだと思う。劇場を買い取った芸能プロダクションの、おもに若手俳優たちが毎日板の上に立ち、演目は日替わり、どういうペースで稽古をしているのだろう、と小さなバーのカウンター席でウイスキーを舐めながら不田房はしきりと繰り返していた。少なくともうちの方針とは違うんじゃないですかね、とだけ鹿野は応じた。そしてきっと、泉堂の仕事の内容も、彼が好むものではない。照明プラン──公演内容に合わせた明かりの動きや色だけを決めて、当日のオペレーター──公演当日、機材を操って実際に明かりを点けたり消したりする人間をこう呼ぶ──は泉堂舞台照明の若手に任せているのだろう。泉堂は現場が好きだ。だが、多忙だ。つまり、一年中何かしらの公演を行っている劇場に、べったりと付き合うことはできない。
演劇にも色々な種類がある、と鹿野は演出助手を始めて10年近くが経っても新鮮に思うのだった。
しかし、宍戸までもがエブリデイ・エンターテインメントに関わっているとは意外だった。
「まあ、バイトだよバイト」
座敷に溢れたビールをすべて拭き取り、液体が染み込んでしまった箇所にはタオルを敷き詰め、ようやく落ち着いたタイミングで宍戸が口を開いた。
「なんでも、今月の……なんつったかな。これ、ほら」
と、宍戸はバックパックからクリアファイルを取り出し、そこに挟まれていた紙を一枚鹿野の目の前に突き出す。今月の上演スケジュールがまとめられている。今月は、A、B、Cの三種類の公演に加えてスペシャルショーと題された特別な演目があるらしく、
「スペシャルの舞台監督がちょっと、な」
「失踪ですか?」
「そんなにしょっちゅう人間が失踪する業界かここは? 感染症だよ感染症。周りに感染る前に分かって良かった」
なるほど、それでフリーの制作・舞台監督としてはそれなりに有名な宍戸に声がかかったのか。
「ま、泉堂さんに推されたってのもあるみたいだけど」
「お手当いくら〜?」
瓶ビールをひっくり返したことなどすっかり忘れた様子で擦り寄ってくる不田房の頭を、宍戸は容赦無く引っ叩く。
「それどころじゃねえだろ。鹿野、なんだこの物騒な手紙は」
「あーっ! そうだった! 警察警察!」
また騒ぎ出す不田房に「まだ何も起きてねえからな」と宍戸は冷静に言い含める。
「そんなに詳しく捜査してもらえるとは……ああ、鹿野、一応聞いておくが心当たりは?」
心当たりがあれば警察の対応も変わるのだろうか、と思いながら、鹿野は曖昧に小首を傾げる。
「いっぱいあるといえばある……ないといえばない……」
「どっちなんだ」
泉堂に封筒を手渡された時の感情がゆらりと蘇る。先日。割と人気のあるアイドルが出演する舞台の演出を、不田房が担当した。鹿野も助手として稽古場から現場まで付き合い、仕事をした。その際、大学を卒業して以降一度も連絡を取っていない知り合いや、高校時代の同級生、さらには幼稚園が一緒だった(と言い張る)得体の知れない人間から「チケットを取ってほしい」「無料で招待してほしい」という図々しい連絡が殺到し、鹿野はそのすべてを無視した。
「その、逆恨みとか……」
「有り得るな。俺も良く言われるよ、おまえは冷たい、人付き合いを大事にしてないって。知るかよって感じだけど」
と、宍戸は鹿野の手から『逃げ切れると思うなよ。』の便箋を取り上げ、矯めつ眇めつ言葉を続ける。
「人間、いつどこで誰から恨まれるか分からんからな……」
「だから警察だって宍戸さん!」
「でもまだこの手紙が届いただけだし……」
「何呑気なこと言ってるの鹿野! おまえに何かあったら俺は……死ぬ!!」
「はいはい」
酔っ払った時の不田房の口癖だ。おまえに何かあったら俺は死ぬ。鹿野以外の人間にも平気で同じことを言う男なので、本気にすると怪我をする。
「一応、不田房さんには情報シェアしとこうと思って持ってきたんですけど。宍戸さんにも見てもらえて良かったです」
「うん。警察は無理かもしれないけど……この手紙、俺が預かってもいいかな?」
宍戸の問いに、鹿野はこくりと首を縦に振る。
「お願いします。……警察以外にも何かいい手段ってありますかね?」
「探偵ぐらいかな。知り合いにいるから。ちょっと相談してみるよ」
そういうことになった。
その後小一時間、宍戸と鹿野は第一幕までしか書き上がっていない台本を前に舞台装置のプランについて話し合いをした。不田房はビールから日本酒に以降した瞬間潰れたので、宍戸との打ち合わせ内容をメモにまとめ、彼のバックパックの外ポケットに入れておいた。閉店直前まで飲んで、ビールを溢してしまった分のお詫びを上乗せして宍戸が金を払い、店を出たところで鹿野は飲み代を宍戸に渡し、解散した。宍戸と不田房はなぜか同じマンションの同じフロアに住んでいるので、泥酔しきった不田房を抱えた宍戸がタクシーに乗り込むのを見届け、鹿野は終電に乗るべく歩き出した。
宍戸が関与してくれるなら安心だろう。漠然と、そんな風に思っていた。
翌日も17時から稽古だったので、鹿野は15時半に稽古場に入った。特に急ぎの用事があったわけではないのだが、電車の乗り継ぎがうまく行きすぎてしまったのだ。稽古場の掃除でもしようと雑巾を探す背中に「鹿野ちゃん」と声がかかった。泉堂だ。
「はい。何か仕事ありますか?」
「じゃなくて、昨日変な手紙届いたじゃん」
「ああ、はい。……え?」
まさか。いや。まさかそんな。
泉堂がぎゅっと顔を顰める。
彼の手には、昨日受け取ったのと同じ茶封筒──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます