1 - 5 昔話 ②
父の家を出て、バスに乗る。鹿野の自宅からそう離れているわけではないのに、この近辺には学校が多い。小学校、中学校、高校、そして大学。もちろん父、
「残念じゃけど、おれは研究者であって駆け込み寺の住職じゃないんよねぇ」
幸いにもバスは空いていた。席に腰掛け、スマートフォンの画面を覗き込みながら鹿野は迷宮の苦笑いを思い出す。研究者、大学教授。得体の知れない、鵺のような職業だと思われていても仕方がない。得体が知れないからこそ、ダメ元で無理を言えばなんとかしてもらえるのではないかと──期待されてしまう。
空いているバスの中程で、大学生と思しき男性たちが何事かを大声で話し合い、悲鳴のような声を上げて爆笑している。若さだ、と思いながら鹿野はショルダーバッグからイヤホンを取り出し両耳に装着する。外出中に周りの音が聞こえすぎて苛々したり、気分が悪くなったりすることがある、と雑談の最中に呟いたら「これめっちゃいいよ」と不田房がその場で箱ごとくれたノイズキャンセリングイヤホンだ。絶対に安いものではないはずなのに「近所の電器屋のセールを覗きに行ったら安くなってたから買った。ふたつ買ったからお揃い」と色違いのイヤホンをポケットから取り出して見せてくれたので、断るのも馬鹿馬鹿しくなってそのまま受け取った。あれから数年が経つが、壊れる兆しがまったくないので鹿野は自ら電器屋に行くことなく、不田房チョイスのイヤホンを愛用して日々を過ごしている。
少し眠たくなる。
バスの中の大学生たちを見ていると、昔のことを思い出す。
昨晩テレビで
真小田がコントの台本を書いて持ってきたのは、不田房が大学で授業を始めて2年が経った頃のことだった。その当時鹿野はもう就職活動をほとんどしていなくて、卒業したら不田房と一緒に演劇をすることになっていた。不田房もまた、鹿野を大学とは関係のない舞台の現場に連れ回しては「やっといい演出助手を捕まえた」と自慢げに言っていた。思えばあれは顔見世であり、牽制だった。ひとりで無茶な公演を繰り返している不田房の周りには彼を助けてくれる人間と同時に、彼に対して良からぬ考えを抱く者も大勢いた。具体的にはセックスだ。不田房は公演の際に雇った女性演出助手に打ち上げの席で大量に酒を飲まされ、気付くとラブホテルに連れ込まれていて、犯される寸前まで追い込まれたという話を真剣な声音で鹿野に語って聞かせた。「だから俺は」と呆気に取られる鹿野の目を見据えながら不田房は続けた。「信用できる人をずっと探してた」。それが自分だというのか──という衝撃を、まるで昨日のことのように思い出すことができる。
信用できる人間? 鹿野素直が?
不田房栄治は、本当に人を見る目がない。
ともあれそんな時期に、同い年だが学年はひとつ下の真小田がコントの台本を書いて授業に持ってきたのだ。不田房には授業の前にデータで原稿を送っていたらしい。構内のコピー機で受講生全員分の台本を作った不田房は(鹿野はその手伝いをしていない)「今日は、作家が俺じゃない台本でエチュードやります」とにこやかに宣言した。コントではあったが、かなりダークな内容だったと記憶している。人間の露悪的な一面や、性善説の否定、それらを敢えてコミカルに描くやり方は、確かに手段としては存在しているのだろうが、鹿野はあまり好きではなかった。
授業は盛り上がった。不田房もまた、そう明るい戯曲を書く作家ではない。だが授業で使用するものはどれも以前書いた作品を大学生が演じるのを想定して書き直したもので、結局は明るく、爽やかなオチを迎えるものが多かった。そんな中に投下された爆弾。台詞などは決して流暢な書き方ではなかったけれど、確固たる意志を持つブラックユーモア。授業の最後に、不田房は真小田を指し示し、
「今日の戯曲は、真小田くんの作品です」
と言った。その日からだ。不田房の『演劇講座』を受講している学生たちの、オタク・真小田崇への見る目が変わったのは。
(──ね、鹿野さん)
バスに揺られて、少し眠っていた。
夢を見ていた。
声を思い出していた。
真小田の声ではない、あれは──
(誘ってあげられなくてごめんね、鹿野さん)
ああ、あの女の、声。
隠しきれない、いや、隠す素振りもない、嘲りの色。
バスを降りて、電車に乗り換える。
と、不田房からメッセージが届いているのに気付いた。
『エナドリかってきてえ』
執筆は、鹿野が想定している以上に難航しているらしい。『了解』というアニメキャラのスタンプを送り、スマホをデニムの尻ポケットに押し込んだ。
今日は乗り継ぎがうまく行った。あと20分もしないうちに、稽古場に辿り着くことができるだろう。
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