1 - 6 手紙 ④
稽古場に到着する。
泉堂ビルの総合受付には、泉堂一郎ではなく宍戸クサリが座っていた。
「宍戸さん?」
早いっすね、とエナドリが詰め込まれたエコバッグを手に声をかけると、
「泉堂さんに留守番頼まれた」
「出張ですか?」
「ああ。岩手の劇場まで明かり作りに」
「岩手……あ、アレかな、
「そうそれ。来日公演」
韓国演劇界屈指の売れっ子俳優だ、知らないはずがない。5年先までスケジュールがパンパンだという彼を、不田房と同世代の日本人演出家が口説き落としたという速報を耳にしたのが2年ほど前のこと。あの時の不田房の悔しがり方といったらなかった。「俺だってジュンギくんと仕事したい、俺だったらもっといい
「岩手からですか」
「そう。週末岩手初日。そのあと新潟。次が東京。で名古屋。千秋楽は大阪とか聞いたな」
「チケット取れなかったんですよね。泉堂さんに頼んだら調光室入れてくれないかな」
調光室とは、照明技師の戦場である。舞台と台本を同時に見ながら手元の卓を操作し、板の上に的確に明かりを、色を与える。いつもはコーヒーとサーフィンが大好きな愉快なおじさんである泉堂も、調光室に一歩足を踏み入れると人が変わる。泉堂の指先ひとつで、舞台上を暗黒の世界に叩き込むことだってできるのだ。
不田房の泉堂に対する信頼は凄まじく、ヘビースモーカーズの舞台には基本的にセットがない。あってもテーブルひとつ、椅子ひとつ、もしくは箱馬(木板を組み合わせて作った木箱のこと。稽古場でも良く使われる)を幾つか置いて仕舞いということすらある。あとはすべて照明任せだ。「芝居は面白いが、俺に対するハードルは毎回上がるな」と泉堂は稽古を見ながらいつも苦く笑っている。
「なんだ、鹿野がそんなこと言うなんて珍しいな」
泉堂の椅子に深く腰掛け、スマホをいじっていた宍戸が大きく瞳を瞬かせた。
「いやだってパク・ジュンギの日本初進出ですからね。気になる。気になりすぎる」
「……調光室はやめとけ。名古屋だったら連れてってやる」
「えっ!」
「俺も助っ人で声かかってたんだけど、
「それ……」
「俺も行きたい!!!」
大声が響き渡った。不田房だ。
「宍戸さん俺にもチケットくださいお願いお願いお願いお願いお願い!!!」
「うるっせ……自力でどうにかしろよ。どうにかできるだろ」
いかにもうんざりした様子の宍戸に縋る不田房を見ていると、実家に来たばかりの頃のチョッパーを思い出す。ラブラドールレトリーバーの特に雄は本当に無邪気で元気で、きちんと躾をしてやらないと大変なことになる。盲導犬などのいわゆる『働くわんちゃん』は大体雌なのだと、父親の部屋を荒らしまくるチョッパーを見て鹿野は初めて実感した。
不田房はあの頃のチョッパーにそっくりだ。
「やだよーヤダヤダ、
「仲悪いんすか?」
椅子に座る宍戸の腰に縋り付く不田房の両脇の下に手を突っ込み、どうにか引き剥がしながら尋ねる。くちびるを尖らせた不田房は、
「劇研のパイセン! つっても同い年だけど!」
「不田房、能世っつったら同世代の人間は全員知ってるっつっても過言じゃないX大学演劇研究会のハンサムタワーズ……」
「やめてー! ダサい! 勘弁して!!」
宍戸の言っていることは鹿野には良く分からなかったが、不田房がここまで個人に対して拒否感を示すのも珍しい。能世春木。演出家としてはかなり有名。最近は映画やテレビドラマの脚本も書いている。
「能世さんじゃなくて、他に頼んでもいいんじゃないか? それこそ演助とか……」
「宍戸さん知らないの? 能世の演助ってあいつの今カレなんだよ。俺なんかめっちゃ嫌われてるよ」
「知るかよ」
あまりにもプライベートな情報を無造作に明かされ、宍戸は呆れ、鹿野は口元を引き攣らせる。なんというか。
「……不田房さん、能世さんに詳しいですね」
「詳しくなーーーいーーー!!! 詳しくなりたくない!!!」
学生時代に個人的に何があったのかは知らないが、ここまで抵抗するのに舞台は見たいという、その気持ちは分からなくもない。「宍戸さん」と声を上げた鹿野に、
「ダメだ」
「なんで!?」
「台本、書き上がったか? 稽古の進行は?」
「ヴッ……」
ヨタヨタと後退りをした不田房は、泉堂がこれまでに関わった舞台のポスターが大量に貼られている壁に悲しげに縋った。
「それとこれは……」
「別じゃない」
宍戸が鋭く言い放つ。
「ま、名古屋公演までに台本を完成させたら、向こうのスタッフに交渉してやるよ」
「うう……鹿野……」
「代筆は無理っすよ」
そう言い置いて、鹿野はちらりとデスクの上に視線を向ける。今日は不審な手紙は届いていない──
「来てる」
という安堵の感情を、宍戸があっさりと一掃した。
彼の手の中には釘張った文字で泉堂ビルの住所が書かれた茶封筒が、当たり前のように納まっていた。
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