1 - 7 手紙 ⑤
稽古を終え、その足で鹿野と不田房は宍戸の自宅に向かった。宍戸の自宅、つまり同じマンションの同じフロアに不田房の自宅が存在し「話が終わったらすぐに帰れ」という宍戸の心の声が聞こえてくるようだった。
「まずは、今日の分の封筒だ」
宍戸の家のリビングは広い。客を招くことを想定している。決まった相手──つまり恋人などがいて、半同棲のような関係になっているのだろうか、と想像したこともあったが「そういうのはいないよ」となぜか訳知り顔の不田房に断言されて不愉快だったので、その後はあまり考えないようにしていた。宍戸の自宅を訪問するのは久しぶりだ。感染症が流行し始める以前は他のスタッフも呼んで宅飲みなどを頻繁に行なっていたが、それもここ数年は自粛していた。リビングは、数年前に訪ねた時とあまり変わっていなかった。
三日月のような不思議な形のダイニングテーブルを囲んで、三人は席に着く。宍戸が三日月の凹のへこんだ部分に、不田房と鹿野は丸くカーブしたところにそれぞれ椅子を置いて座る。
宍戸が慎重な手付きでハサミを使い、茶封筒の封を切る。
中から出てきたのは、白い紙だった。
きっちりと折り畳まれ、重ねて閉じた部分を透明のテープで留められている。
「剃刀じゃない?」
不田房が神妙な声で言った。そんなはず、と反論しかけた鹿野の前で宍戸がテープを切って紙を開く。
コトン、と音がした。
剃刀の刃が、テーブルの上に落ちていた。
「ほらぁ……!」
「なんっ……なんですか、これっ!」
不田房と鹿野の悲鳴が重なる。「まあ待て」と宍戸が冷静な声音で応じた。
「まずは、昨日までに届いた二通の話だ」
「いやでも剃刀!」
「聞け」
宍戸は席を立ち、キッチンに向かい、水出しボトルとプラスチック製のコップを三つ持って戻ってくる。中身は、麦茶かと思ったら紅茶だった。アールグレイ。ほっと息を吐く鹿野の傍らで「ガムシロは?」と不田房が声を上げ「ない」と即答されている。
「あの封筒は、探偵のところに持ち込んだ」
「知り合いだっていう……」
「
その筋とはどの筋だろう。詳しく聞きたい気持ちもあったが、鹿野は黙っていた。不田房は勝手にキッチンに向かい、ガムシロを探して引き出しを片っ端から開けていた。
「で、そいつに指摘された。切手──というか、証紙な」
宍戸がスマートフォンをテーブルの上に滑らせる。例の封筒、その左上をアップで写した写真が液晶画面の中にある。
「証紙ってことは、郵便局の窓口から出してるってことになるだろ。ま、場所によっては証紙発券機を設置してあるところもあるらしいが、かなり限られてくる」
「それは……確かに……」
「ところで鹿野。泉堂ビルの住所を聞かれたら即答できるか?」
「はい?」
唐突な問いだった。ガムシロを諦めた不田房が席に戻ってくる。
「東京都S区J町──」
そらで言える。なぜなら、訊かれる機会が多いからだ。初めてヘビースモーカーズに出演する俳優、スタッフとして現場に入る者、その多くは稽古場の住所を不田房ではなく鹿野に確認する。不田房は、泉堂ビルの住所を正確に覚えていない。いつも泉堂一郎の名刺を持ち歩いていて、住所を訊かれるとその名刺を見ながら返答する。それでも間違えることが多々ある。だから。
「S」
宍戸の太い指先が、スマートフォンの画面を示す。
S。
確かに、証紙には84円という代金の下に、S区のSの字が書かれている。
「めちゃくちゃ近所から出したってこと? 脅迫状を?」
不田房が訝しげな声を上げる。それは。
「その通りだろうな」
「防犯カメラとか確認してもらえないの? 警察の人に頼んで」
「だからまだ何も起きてない──とはいえ、今日の分で剃刀が送られてきた。これなら動いてもらえるかもしれないが」
宍戸の呟きに、不田房は腑に落ちない表情をしている。そんな彼の表情を気にする素振りもなく、宍戸は続けた。
「俺は今日、午前9時から泉堂ビルにいた」
「早いっすね?」
両目を瞬かせる鹿野に、
「泉堂さんの出発時間とタイミングが合わなくてな。前日に鍵を預かって、9時には受付を開けて、それでずっとDMのチェックをしてた」
まだタイトルすら決まっていないヘビースモーカーズ新作公演だが、既に仮チラシは公演を行う劇場を中心にこれまで縁のあった劇場、それに親交のある劇団の公演会場に置くなどして撒いてもらっている。仮チラシというのはその名の通り最低限の情報だけが示された『公演する意志はあります』ということを観客に伝えるためのもの(だと鹿野は思っている)で、今回のチラシにも『ヘビースモーカーズ新作公演』『作/演出 不田房栄治』という文字に加えて、公演を行う予定の劇場名、鹿野が管理しているSNSのID、さらに宍戸の業務用スマホの電話番号とチケット発売予定日やチケットを扱っているサイトのURLなどがつらつらと載せられていて、チラシを見た常連客や、興味を持ったのでDMを送ってほしいという新規の客からの連絡を制作担当の宍戸は粛々と捌いている。今日も、家主である泉堂不在のビル受付で自身のマックブックを開き、いつもの作業に勤しんでいた。
「郵便屋は、12時頃に来た」
「ポスト投函じゃないの?」
不田房の問いに、宍戸は重々しく肯く。
「泉堂ビルのポスト覗いたことあるか? ひどいぞ。3年前のピザ屋のチラシが置きっぱなしにされてる」
「うわっ」
「ひどい、ですね」
「だからここ最近の泉堂さんは馴染みの郵便屋のおっちゃんに頼んで、郵便物を受付まで直接持ってきてもらっているらしい」
泉堂だから許される行為だ、と鹿野はぼんやりと思う。人好きのする好々爺──というにはまだ少し若いが、そういう、泉堂だからこそ。
「先方は俺を見て驚いていたが、不田房のところの番頭だと言ったらすぐに納得してくれた」
「えー! 俺のこと知ってんの! 光栄!」
はしゃぐ不田房をスルーした宍戸は「だがな」と深刻な声音で続けた。
「なかったんだ。持ってきてもらった郵便物の中には、この封筒は」
鹿野は思わず不田房に視線を向けたが、不田房は鹿野を見ていなかった。テーブルに肘を付き「えーなんでー」などと呑気な声を出している。
「仕事関係の封書しかなかった。郵便局のおっちゃんを問い質しても何も分からないだろうから、今日は『来ない日』だと思っていたんだが……」
だが、今、宍戸の手元に封筒がある。封筒だけではなく、その中に入っていた紙と剃刀も。
「あのさ思ったんだけど」
不田房が、急に声を上げる。
「なんだ」
「この紙、俺見覚えあるかも」
鹿野は無言で顔を顰める。こっちはもうとっくに気付いていた。
「これさ、鹿野、アレじゃない? 鹿野の大学で初めて公演やったときに使った、台本の──」
そうだ。その通りだ。10年前にとある大学で行われた公演で使用された台本の1ページ。それが破り取られ、剃刀を包んで、今、台本を執筆した人間と、その生徒であった者の目の前に置かれている。
脅迫状と怪文書、どちらなのかを鹿野は正直判断できずにいた。
だが、今はもう違う。
明確な悪意を感じる。
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