ブルー・スモーカーズ・ナイト

大塚

序章

0 - 0 手紙

 その日、鹿野かの素直すなおは、稽古場の掃除をしていた。


 鹿野は演出助手である。おもに小劇場──300席以下の客席を擁する小さな劇場を中心に活動している演出家、不田房ふたふさ栄治えいじの相棒として、仕事をしている。演劇の世界に足を突っ込んだのは、大学生の頃。鹿野は20歳になったばかりだった。今から10年近く前の話だ。鹿野はそもそも、演劇を見るのは好きだったが、演じる方には興味がなかった。人前に立ってうまく喋れる自信もないし、台本を読むのは楽しいが、やはり人前に立って──そう、、という感情が何より強かった。だから大学に入学して一年が経ち、新しく『演劇講座』という謎の授業が設立され、外部から招かれた講師、現役の演出家が大変なイケメンだというからぜひ受けに行こうと同期の女生徒に誘われた際に、本当に嫌な顔をしてしまった。『演劇講座』。何をするんだか知らないが、外部からわざわざ演出家を招くということは、日本演劇界の歴史を学ぶ──程度では済まないだろう。最終的には生徒たちに役柄を割り振るなり何なりして、公演を打つ、そこが着地点に違いない。鹿野はその場にいたくなかった。

 だが気付いたら、鹿野は新年度から始まった『演劇講座』の受講を始めていた。鹿野は押しに弱かった。また、彼女を誘った女生徒数名はあっという間に演劇経験がある、役者として舞台に立ったことがあるという先輩や、同級生とグループを作り、鹿野は授業以外の時間は常に授業の会場となるホール──普段は入学式や卒業式、他にも研究発表会などに使われる──の出入り口付近にある灰皿の前で煙草を咥えていた。

 なるほど不田房栄治はいい男である。年の頃は30前後。身長はぱっと見の印象からして180センチ弱。彫りの深い顔立ちに、闊達とした立ち振る舞い。演劇の『え』の字も知らぬであろう、興味本位で受講を決めたに違いない生徒たちの無礼な、もしくは興味本位な質問にも、不田房は爽やかに応じていた。なぜこの講座の講師を引き受けたのか、演劇は儲かるのか、演出家は主演女優とセックスしているというのは本当なのか──それらの問いかけをすべていい感じに流した後、不田房は自分でコピー、製本したと思しき台本を、ホールに顔を揃えた30人ほどの学生に配った。


「年度終わりに、公演をします」


 ほら来た、と鹿野は思った。だから嫌だったんだ。

 次の授業にはもう顔を出すまいと思った。台本の内容には興味があるが、台詞を朗読させられたり、なんていうんだ、あの、なんか、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがある即興劇、エチュードだったか? それをやらされるのも絶対に嫌だ。

 幸いにも、『演劇講座』の単位を落としたところで鹿野には他の授業で賄えるという算段があった。演劇。見るのは好きだが、見るとやるとではやっぱり大違いだ。

 こんな授業からは離れよう。


 翌日。翌週ではなく、翌日。

 大学構内の喫煙所を目指して歩いていた鹿野は、構内でもいちばんの穴場である、ゴミ捨て場近くに灰皿が置かれた一角で不田房栄治に出会った。

 授業は昨日だ。毎週水曜日の四コマ目が、不田房栄治の時間だった。


「あれ」


 咄嗟に踵を返した鹿野の背に、よく響く低い声がかかった。


「ハイライトのメンソール」

「は……」

「でしょ」


 思わず振り返る。不田房は笑っていた。


「授業前後にめちゃくちゃ煙草吸ってる子がいるからぁ。気になってたんだ」

「はぁ……」

「俺はね、ピース。本当は缶ピースがいいんだけど、持ち歩き不便だから」


 初夏だった。紺色のソフトケースを派手な柄シャツの胸ポケットから取り出しながら、不田房は言った。鹿野は片頬を引き攣らせながら、自身のデニムの尻ポケットからハイライト・メンソールの緑色のソフトケースを取り出し、まるで印籠のように掲げた。


鹿野かのちゃあん」


 階段の上から声がした。鹿野が掃除をしている稽古場は、不田房と親交が深く、彼が演出を手がける公演では必ず照明を担当する男性・泉堂せんどう一郎いちろうの持ちビルの地下にあった。名前はそのまま、泉堂ビル。一階は総合受付兼物置(泉堂ビルの地下階は稽古場として適度な広さがあり、またレンタル料が安いということで小劇場関係の人間からは人気がある)、二階は有限会社泉堂舞台照明の事務所、三階は泉堂舞台照明の代表でありビルオーナーでもある泉堂が個人的に寝泊まりしたり、若い照明スタッフの生活が安定するまで部屋として貸してやったりする空間となっていた。

 一階の総合受付で今後の稽古場貸出の予定を確認していたらしい泉堂が、長髪にグリーンのベースボールキャップ──昔アメリカで買ったものだという話だが、鹿野は野球に明るくないのでその帽子がどれほど良いものなのかをよく知らない、ただ、泉堂が常に同じキャップを愛用していることから、大切なものなのだろうとは思っている──を深く被ったいつもの姿で、ひらひらと茶封筒を振りながら地下階を覗き込んでいた。


「鹿野ちゃん宛に、手紙」

「私に?」


 なぜだ、と思う。鹿野とて常に泉堂ビルにいるわけではない。演出助手として、不田房以外の演出家と組んで仕事をすることだってある。そういう場合に稀に泉堂ビルの地下階が稽古場になることもあるが、そうならないことの方が圧倒的に多い。鹿野に用事がある人間は直接スマートフォンに連絡を寄越すか、封書ならば自宅マンション、もしくは不田房が所属しているマネジメント事務所に送ってくる者もいる。不田房と鹿野は、コンビとして扱われることが多いからだ。


「すみません。……なんだろ」

「なんだろね。コーヒー飲む?」


 泉堂は50絡みの浅黒い肌をした男性で、公演本番のために劇場を出入りしていて「俳優かと思った」「イケオジすぎ」と頻繁にSNSに書き込まれる外見をしている。鹿野にしてみれば泉堂も不田房も付き合いが長くなりすぎていて、今更外見がどうのと言う気持ちにはなれないのだが、端から見るとイケてるおじさんなのだろう。そしてそんなことより、泉堂はコーヒーが好きだ。こだわりがある。もしかしたら照明の、明かりの色よりもコーヒーへのこだわりの方が強いかもしれない。そんな泉堂にコーヒーを淹れてもらえるなんてラッキーだ。鹿野は受付デスクの上に封筒を置き、物置に放り出してあった丸椅子を抱えて戻る。


「ハサミありますか」

「あるよ、ペン立て」

「本当になんだろう。剃刀入ってないといいんですけど」


 先日、不田房とともにとあるアイドルが主演の舞台に参加した記憶を弄びながら呟く。舞台以外の媒体への出演も多い、有名人と仕事をするのは大変だ。大学を卒業して以降一度も連絡を取っていない大勢の知人から「チケットを押さえてほしい」「最前列がいい」「招待券を出してくれ」というメッセージが殺到したことを思い出し、ため息が出た。あのメッセージ、全部無視したんだよな……。


「はい、コーヒー」

「やった! ありがとうございます!」

「鹿野ちゃんもカップ置いとけば? いつも不田房のカップ使うの嫌じゃない?」

「まあ……でも不田房さん、カップ15個ぐらい置いてるじゃないですか、忘れるから……」


 泉堂ビル地下階の稽古場を頻繁に利用する劇団の関係者、スタッフたちは、多くが総合受付の奥にあるキッチンに自身のマグカップを常備している。不田房は自分がカップを置いていることを忘れて、新しく稽古が始まる度に泉堂ビルの最寄駅近くの雑貨屋でマグカップを購入してやって来る。キッチンに行って棚を覗き、数えるとちょうど15個。何を考えているんだあの人は、と鹿野は呆れながらコーヒーを飲む。


「さって……、封筒」


 泉堂からハサミを借り、茶封筒の上部を丁寧に切る。本当に剃刀が入っていたら嫌なので、封筒の底を摘んで逆さにして振った。

 剃刀ではなく、二つ折りにした便箋が一枚、ストンと落ちた。


「手紙?」


 自身の信楽焼のコーヒーカップを手に、泉堂が左側に首を傾げる。鹿野は右側に首を傾げ、便箋の端と端を摘んでゆっくりと広げる。


『逃げ切れると思うなよ。』


 便箋には釘張った文字で一行、ただそれだけが書かれている。

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