0 - 2 手紙 ②
不田房と鹿野が連れ立って向かったのは泉堂ビルから徒歩数分の場所にある韓国料理屋で、店主と思しき女性と、その娘か、もしくは女性の息子の妻(息子らしき男性が時折食材を運び込む姿を見かけることがあった)かもしれない女性のふたりで切り盛りをしている小さな店で、不田房らはこの店の常連客だった。
「奥どうぞ」
店のいちばん奥には座敷席があり、そこは不田房らの指定席となっていた。
「お待たせっす〜」
気安い声をかけながら不田房がビルケンシュトックのサンダルを脱いで座敷に上がる。先客がいた。「おう」と片手を上げて応じる男の名は、
「なんだ、珍しい。鹿野も来たのか」
「こんばんは。宍戸さん、今日は稽古場には……」
「行く予定だったんだがな。ちょっと別の現場で、面倒が起きて」
肩を竦める宍戸は、『
ヘビースモーカーズでの制作兼舞台監督の仕事もまた様々な助っ人仕事の一環で、不田房は宍戸を番頭として雇うためにわざわざ宮内くり子チームの本公演の時期を調べ、できるだけ遠いタイミングで劇場を押さえ、公演を打つようにしていた。宮内とは不田房、鹿野ともに顔見知りなのだが、不田房よりもひと回り以上年上、鹿野とはもしかしたら親子ほどの年齢差がある演出家兼俳優の貫禄に押され、いつも挨拶と少しばかり世間話をしては走って逃げるのが不田房だった。鹿野は、宮内のことをそれほど苦手には思っていない。宮内もまた不田房とペアを組んで仕事をする鹿野のことを何かと気にかけてくれていて、「あのお調子者に何かされたらすぐ言うのよ」と会う度に声をかけてくれる。
「で、どう、稽古は」
宍戸は既にビールから日本酒に移行していた。不田房は瓶ビールを、鹿野はマッコリを注文し、軽く乾杯をするや否やの発言だった。
「まあ悪くないっすね。今回初めての子もいるけど出演者に……まあまあ、俺の方もまあまあ……」
「どのあたりがまあまあなんだ? 台本、もう上がったのか?」
大仰に顔を顰めて見せる宍戸に、鹿野は素早く首を横に振る。
「第一幕しか」
「あっ鹿野!」
「仕方ないのでみんなで踊ったりしてます。稽古場で」
「不田房、おまえ何やってんだ?」
「鹿野〜! 言うなよ! 約束だろ!」
「してませんが?」
不田房の戯曲作家としての腕は良い。だが、何せ筆が遅い。稽古初日に第一幕まで書き上がっているのは奇跡だと鹿野は思う。宍戸だって分かっているだろう。「んもう〜」と唸りながらビールを喉に流し込む不田房の脳内には、だがどうせクライマックスの景色は既に組み上がっているのだ。活字にするのが遅い、だけで。鹿野には分かる。彼とは10年の付き合いだ。不田房がいなかったら、鹿野は演劇の世界で仕事をしていなかった。
「ところで鹿野、話したいことって?」
「泉堂さんからは何も?」
「泉堂さん? 聞いてないよ?」
泉堂一郎はそういうタイプだ。余計なことを言わない。噂話をしない。信用できる。鹿野は小さく息を吐き、ショルダーバッグの中から宛名だけが書かれた茶封筒を取り出した。
「ファンレター?」
「本気で言ってるんですか?」
「見るぞ」
円卓を挟んで正面に座る宍戸が手を伸ばし、封筒の中身をさっと取り出す。
「……なんだ、これ」
「何なに宍戸さん、俺にも見せてよ〜。鹿野あれ何?」
「見れば分かりますよ」
タコキムチを突きながら鹿野は短く応じ、なんで〜、と不服げな不田房は右手にビール瓶、左手にグラスを持って宍戸の隣に移動し──その場で瓶を取り落とし、座敷にビールをぶち撒けた。
『逃げ切れると思うなよ。』
そう書かれた手紙は宍戸が素早く鹿野の手元に戻してくれたお陰で無事だったが、こんな手紙はビール塗れになって消えてしまった方が、本当は良かった。
宍戸のブラックデニムと黒いTシャツがビールでびしょびしょになるのを眺める鹿野に「警察、警察!」と不田房が叫ぶのが聞こえた。
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