3 - 8 不田房栄治、もしくは昔話 ④
泉堂は毎日ホールにやって来た。今思えば彼がそれほど暇だったとは考えられないのだが、不田房のためにどうにか時間を作ってくれていたのだと思う。豪放磊落な泉堂の前で、佐伯は滑稽なほど萎縮した。「演助」と呼び捨てにしていた鹿野のことまで「鹿野さん」と呼び、敬語で話しかけてくるようになった。しかし、それはそれとして、舞台のクオリティは見るからに上がった。照明指導の道原も、音響指導の海野も何かと泉堂に意見を聞き、本来演劇の公演を行うために存在するわけではないホールが日に日に『劇場』へと姿を変えていく様は、背筋がぞくりとするほどに愉快な光景だった。
そうして、初公演の幕が上がる。客入りは悪くなかった。制作班、特に宣伝美術を担当した学生の尽力の結果だった。ポスター、それに来場者に配布するパンフレットのデザインも内容も大変好評だった。受講生たちの友人知人それに家族に加えて大学関係者、それに不田房と縁のある小劇場界で仕事をしている俳優や演出家もやって来た。まるで祭りのような二日間だった。泉堂一郎は、初日の昼公演と、二日目の夜公演にやって来た。二日目の夜──とはいえ十六時に開幕し、十七時半に終演するという比較的早い時間帯の公演だったが──の公演、つまり千秋楽を終えた三十分後には、学生、スタッフ総出で舞台の解体作業、所謂バラシが行われた。泉堂は職員専用駐車場にハイエースを乗り付けており、役目を終えた泉堂舞台照明の灯体たちを流れるように回収していた。聞けば、この灯体たちは今夜中に別の劇場に吊るされるのだという。
「鹿野ちゃんだっけ? 演助ちゃん。不田房に言っといてくれよ、もう少し人を見る目を養えって」
駐車場まで走って行ってお礼を述べた鹿野に、泉堂はそう言った。言葉の割に楽しげな口調だった。
「まあ、あいつの長所ではあるんだけどなぁ、お人好し」
それじゃあまた、と言い置いて泉堂と泉堂舞台照明のスタッフ、そしてたくさんの灯体を積んだハイエースは走り去って行った。ホールに戻るとバラシはほぼ完了していて(組みやすく、バラしやすい舞台装置を設計したのは佐伯で、彼にはたしかに舞台監督の才能はあった)、制作を担当した学生が押さえた打ち上げ会場に、仕事を終えた者から移動を開始しているところだった。
「あ、鹿野。泉堂さんは?」
「もう行きました。次新宿だそうです」
「うわ〜、お礼言い損ねちゃった……なんか言ってた? 怒ってなかった?」
「人を見る目を養え、とのことです」
「うわ〜」
とはいえ、佐伯の乱行を知っている生徒はそう多くはなかった。実際に彼と寝てしまった四人の学生と、不田房と、そして鹿野。打ち上げは和気藹々と、良い雰囲気で進んだ。照明、音響の指導係である道原と海野が同席してくれたのも良かった。不田房の初めての『演劇講座』に於ける公演は、それなりの成功を納めた。
──はずだった。
二次会まではほぼ学生、スタッフほぼ全員が参加したが、三次会になだれ込む頃には道原、海野はタクシーで引き上げた。佐伯がまだ帰らない、という理由で不田房は三次会に残ろうとしていたが、いかにも眠そうな顔をしていたので「ヤバくなったら警察呼びますんで」と言って鹿野は不田房のためにタクシーを呼ぼうとした。だが。
「いや、歩いて帰れるから」
「は? ……ほんとに?」
「ほんとほんと。俺結構歩いて学校まで来てるの、知らなかった?」
知るはずがない。初めて聞いた。
「じゃあ……まあ、気を付けて。転ばないで帰ってくださいね」
「うん。鹿野もありがとう。佐伯さんがヤバくなりそうだったら本当に警察を」
「分かりましたって! それじゃ、おやすみなさい!!」
不田房が意外と真っ直ぐ歩いて行くのを見送り、三次会の居酒屋に戻った。正直鹿野がいてもいなくても関係ないぐらいに皆楽しそうにしていたのだが、佐伯との関係について相談を持ちかけてきた中村、西という同期生と少し仲良くなってしまったのだ。
「鹿野さん、不田房先生は?」
「帰った」
「眠そうだったもんね、お酒弱いのかなぁ?」
「どうだろう。コーヒーは好きみたいだけど」
「鹿野さんもお酒お酒! ……相談、聞いてくれてありがとね。うち、鹿野さんに言えなかったら単位落としちゃってたかも」
「わたしも! ありがとー鹿野さん!」
ふたりの同期生に左右から挟まれ、グラスに酒を注がれ、つまみを取り分けられ、あれやこれやと世話を焼かれつつも鹿野は居酒屋の中をきょろきょろと見回していた。いない。いないのだ。佐伯弘幸が。
帰ったのか、とも思う。学生全員が真相を知っているわけではないにせよ、泉堂一郎の登場で彼はそれなりに恥をかかされた。だからこっそり──タクシーでも捕まえて──
(田淵も)
気付く。田淵駒乃もいない。田淵もまた、佐伯弘幸と関係を持ってしまった学生のひとりだ。だが、中村、西、それに桃野とは違い、鹿野は田淵の本心を聞いていない。どういうつもりだったのか。流されただけなのか。それとも、処女であることを公言していた田淵のことだ、厄介なそれを捨てる良い機会だと思って佐伯と寝たのか。
(──どうでも、いいけど)
どうでもいい。本当に。けれど嫌な予感がした。
ちょっと煙草、と言い置いて席を立つ。L大学は坂の上にあった。坂を降りた先には古本屋街があるけれど、真夜中ともなれば坂の途中には幾つもの暗がりができ、それに──
(公園があったっけか)
昼間は親子連れや、この辺りの大学に通う学生たちの憩いの場になっている小さな公園。しかし公衆トイレの傍には『痴漢に注意』と大きく書かれた看板が置かれているし、昼と夜ではまったく違う顔になるのが公園とかそういう場所だ。
スマホをぎゅっと掴み、暗がりの坂を走った。
やがて公園に辿り着く。辿り着く、その瞬間──
「……ほんと、よくないから、こういうの。酔っ払ってるの?」
「先生、なんでそんなこと言うんですか? 私みたいな可愛い女の子に言い寄られて、照れてるんですか?」
声がした。
この十ヶ月ほど、嫌になるほど耳にした、不田房栄治の声が。
「マジで、ほんと、ねえ、酔っ払ってるよ絶対。考え直してよ」
「先生、私もう処女じゃないけど、でもまだ処女みたいな感じなんですよ。だってほんとに好きな人とエッチしたわけじゃないし、ね、触ってもいいんですよ、栄治さん……」
田淵だ。
田淵駒乃が、公園のベンチに不田房栄治を押し倒している。
最悪だった。
足を止めた鹿野はぽかんと口を開き、それからふたりのやり取りをじっくり眺めてしまう。不田房は帰ると言っていたのに。歩いて帰ると。彼を送り出した時、鹿野は自分ひとりだけだと思っていた。だが、見ていたのか。田淵が。不田房がひとりになるタイミングを、見計らって。
「田淵さんってば!」
「駒乃、って呼んでくれないんですか?」
「俺は先生で、きみは生徒でしょう! 何言ってんだ!?」
田淵を突き飛ばして逃げることもできるだろう。不田房なら。そうしない理由は、なんとなく分かる。記憶力がなくて、人を見る目がなくて、自身のプライバシーという概念がなくて、ふわふわと優しい男。怒ることを知らない人間。それが不田房栄治だ。
鹿野は、不田房栄治の足りない面を、存外気に入っていた。
片手に握ったスマートフォン。画面を見なくても分かる。発着信履歴のいちばん上は、『演劇講座』で演出助手に指名された日からずっと不田房だ。
発信ボタンを押す。
「でっ、電話! なにっ……鹿野、鹿野だ、田淵さんどいて!!」
「鹿野さんのことなんて放っておけば……」
「ほんとにどいて!!」
不田房が田淵を突き飛ばす。地面に尻もちをついた田淵が、呆気に取られた様子で不田房を見上げているのが──見なくても分かる。
「俺だ! どうした! 鹿野!」
『あっ、あのですね、佐伯さんがどっか行っちゃって!』
嘘も方便、とはいえこの時のことは佐伯に対して少しだけ申し訳なく感じる。三次会から佐伯が姿を消していた理由は、二日目、千秋楽の夜公演を見に来た旧知の女性俳優との約束があったから、と鹿野はだいぶ後になって知った。
「どっか!? 帰ったんじゃなくて!?」
『いやもう全然分かんなくて……不田房さんもう家ですか? ちょっと戻って来れませんか?』
「戻る! すぐ戻る!」
不田房がスマートフォンを耳に当てたままで駆け出す。駆け出して──鹿野が隠れている、公園の入口の方へと向かってくる。やばい、と思うより早く不田房が公園から飛び出してきた。
「鹿野ぉ!?」
「シ、シーッ……!!」
全部遅かった。不田房栄治はシャツの第三ボタンまでを外され、ベルトも解かれ、デニムを脱がされかけており、胸元が大きく開いたトップスに膝上のスカート姿の田淵駒乃はパンツを履いていなかった。鹿野素直が田淵と不田房のあいだに起きた出来事を断片的に確認した上で邪魔に入ったということはすぐに当事者、田淵の知るところとなり、その後田淵は自身に告白してきた年上の後輩・林壮平との交際を開始した。鹿野と田淵のあいだに、個人的な会話はほとんどなくなった。ただ、不田房が。
「俺もうダメかと思った」
「そすか」
「女の子に乗っかかれるのって本当に慣れないね」
「前もそんな話してましたよね」
中村と西には『不田房先生が道端で倒れていたのでタクシーで送ります』という旨と、割り勘予定の飲み代は後日払うと幹事に伝えてほしいというメッセージを送った。ふたりからは『OK』『気を付けて帰ってね』という好意的な返信が来て、ほっとした。
長身の不田房を引き摺るようにして、静まり返った古本屋街に逃げ込んだ。昼間は純喫茶、夜はバーになる店が何軒か営業をしていたので、昼間も入ったことのある店を選んで中に入った。夜でもコーヒーを出してくれるその店で、不田房は今にも死にそうな顔をしていた。
「怖かったぁ……」
「私もっすよ……」
「田淵って、ずっとああいう感じだった? 俺が気付いてなかっただけ?」
鹿野は答えなかった。そんなことはもう、今更どうでもいい。
「何もされてませんか」
ボソリと尋ねた。
「顔とか舐められてませんか。めちゃくちゃ触られてましたけど。大丈夫ですか」
「舐められては……すごい避けたから大丈夫だと思う」
「……シャツに口紅付いてますね」
「うわっ怖っ。このシャツ捨てよう……」
始発電車が走り始めるまで、漫然とバーで過ごした。不田房の吐く煙草のけむりが、奇妙に青く光って見えた。鹿野のコーヒー代はすべて不田房が払った。翌日は日曜日で、自宅に帰った鹿野は自室ではなくリビングのソファにひっくり返って眠った。疲れた。とても、疲れていた。
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