5 - 2 鹿野素直 ②
Q県に到着する。腰が痛かった。不田房は元気そうだ。
「これからー、タクシーでコテージまで行きまーす」
まるで学生時代のようなテンションで宣言され「了解す」と鹿野は腰を撫でながら応じた。十年前はレンタカーで行った。駅に到着する学生を順に拾って、コテージまで送り届ける仕事があったからだ。鹿野は免許を持っておらず、送迎はすべて不田房が行った。
Q県S村。繁忙期でもある八月、夏休みを終えた避暑地は静まり返っていた。鹿野はいつものショルダーバッグにスマートフォンとこれまでに届いた封筒を詰め込んで持参しており、不田房は手ぶらだった。デニムのポケットにスマートフォンや財布を直接突っ込んでいた。タクシーで30分の場所に、指定されたコテージはあった。
「わあお」
不田房が笑いを堪えきれない様子で声を上げる。
「すげえ。十年前の再現じゃん」
本当に──その通りだった。
泉堂一郎が持っていたコテージと良く似た、いや、ほとんど同じ意匠の建物が目の前にあった。貸しコテージだろうか。それとも、真小田か田淵──さもなくば劇団暗闇橋の向こうにパトロンが付いていて、この建物をプレゼントしてくれた、とか? 早くも何がなんだか分からなくなっていた。
それに。
Q県に到着した時刻には高かったはずの太陽が、もう山の向こうに沈みかけている。
「山あるあるだね」
と、不田房が言った。
また思い出す。十年前。陽が沈むと山の中はあっという間に真っ暗になるから、あまり遠くまで遊びに行かないようにと注意されたこと。それなのに、川釣りに夢中になっていた斎藤、近藤、それに鹿野は一度だけ山中で迷子になりかけたこと。あの時、不田房は真っ青になって鹿野ら三人を探しに来てくれた。自力で帰ることもできた。何せ山に慣れている斎藤が一緒だったのだから。だが、不田房は、あの時、彼は、
「……不田房さん、あの時なんでナイフ持ってたんですか?」
「え?」
タクシーは走り去った。ここから駅に戻るためには、スマートフォンの配車アプリを使うか、どうにかして地元のタクシー会社に電話をするか、しないといけない。
頼りない夕陽を浴びながら、鹿野は繰り返した。
「あの時。私と近藤と、一回生の斎藤が釣りしててコテージに戻るの遅れたことあったじゃないですか」
「……あったっけ?」
「ありましたよ」
「そっかあ」
「忘れるわけないでしょう。不田房さんが私のこと叱ったの、あの時だけですよ」
「……」
えーと、分かんない、と不田房は頭を掻いて笑った。覚えている笑顔だった。
「なんでかなぁ……熊が出るって思って、ナイフ持ってったのかもしれない……」
「不田房さん、ナイフで熊に勝てると思ったんですか?」
「え〜。十年前の俺が何考えてたかなんて知らないよ。それに俺、あの頃ほら……寝付きが悪くてさぁ……」
話をそっちに繋げてくるのか。コテージの入り口を探して建物の周りをうろうろしながら、鹿野は黙って眉を下げる。
「薬をね……夜ね……」
そうだった。あの時期、不田房栄治には不眠の気があった。原因は分からないし、今はもう、それはもうぐっすりと眠る様を頻繁に見かけているので、おそらく症状は落ち着いたのだと思う。合宿中は眠れなくて、夜中遊歩道を延々と歩き回り、それからコテージに戻って一時間ほど寝てから演技のレッスンを──という無茶をしていた姿も見たことがある。
「さあ鹿野。いよいよだ」
不田房の表情が少しばかり硬くなる、ように見える。
目の前には、扉がある。半開きの扉が。
「俺だけ入るという手もありますが?」
「ありませんが?」
「頼りになるね」
「死なば諸共ですわ」
不田房がドアノブを掴む。引く。ドアが大きく開く。
埃っぽい。
まず最初に抱いたのは、そんな感想だった。
あの頃の、泉堂一郎が所持していたコテージよりもよほど荒れている。貸しコテージですらなさそうだ。
「おーい。来たよー」
不田房が声を上げる。
「なんだよ、呼び出しといて誰もいないのか?」
「先生?」
声が。
聞こえた。
鹿野は黙って両目を見開き、不田房はひらひらと声が聞こえた方向に手を振っている。
「
「ご無沙汰してます。不田房先生」
ドアから入ってすぐのところに、テーブルがあったはずだ、と鹿野は記憶を手繰る。もちろん今いるこのコテージの話ではない。泉堂一郎の持ち物だったあの建物のことだ。ひとつのテーブルに十人分の椅子があって、馬鹿でかいテーブルがふたつ並んでいて。不田房が寸胴鍋いっぱいに毎日カレーを作ってくれて……カレーばかりひたすら食べさせられて……。
このコテージには、テーブルはなかった。テーブルだけではなく、何もなかった。ドアから中に入った目の前にはぽっかりと広い空間だけがあり、その向こうに二階に通じると思しき階段があった。その階段の上に、真小田崇が立っていた。
思っていたほど芸能人らしいオーラは出ていなかった。テレビを通して見たから、それっぽく見えただけのかもしれない。小柄で猫背、痩せ型の体付きに太い眉。大きな目玉が、不田房をじっと見据えていた。
「パーマかけた?」
不田房が尋ねる。
「天パですよ」
「そうなんだ。知らなかった」
「学生の頃は縮毛矯正してたんで」
「なんで?」
問いには、真小田は薄く笑って答えなかった。
「あの」
気が付くと、不田房の背に庇われるような格好になっていた。鹿野は大きく足を踏み出し、長身の不田房の前に仁王立ちになる。
「手紙とか、あと変な動画とか、迷惑なんだけど」
「鹿野先輩」
真小田がニコリと笑って呼んだ。
「お久しぶりです」
「久しぶりとかどうでもいいんで。あんたたちの悪趣味に巻き込まれるの、ほんと鬱陶しくて最悪だから、やめてくんない?」
「全然変わってないですね」
ねえ、駒乃ちゃん。
真小田が声を張り上げて呼んだ。
うふふ、と。
笑い声がした。
「本当! 不田房先生も鹿野さんも、なーんにも変わってない!」
暗がり──鹿野が記憶している船頭のコテージとこの建物が同じ間取りをしているとしたら、あちら側にはバスルームがあったはずだ──から姿を現したのは、白いTシャツに細身のデニム姿の田淵駒乃だった。
老けたな、と思った。
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