5 - 4 鹿野素直 ④
思い出す。
卒業式の日だった。田淵駒乃に、いつもの喫煙所に来てくれと呼び出されたのは。
鹿野は、忙しかった。不田房の演出助手としての学外での仕事が、既に始まっていた。不田房栄治は講師として卒業式に顔を出し、保護者として、そして他大学の教員として卒業式を訪れていた鹿野の父親に挨拶をし「お父さん、素直さんを俺にください」と言って大変な勢いで叱られていた。演劇講座の受講をとうにやめていた中村や西といった同期に会うのもその日が最後だった。中村は地元の長崎に帰って就職すると言っていた。西は都内の大手出版社に内定が決まっており「不田房先生の本、いつか出せたらいいな」と言っていた。
全員自腹合宿で一緒に川釣りをした近藤は、関東圏を中心に活動している大手劇団の研究生になると言っていた。「役者として独り立ちできるよう頑張る」と胸を張っていたが、その後どうなったのかを鹿野は知らない。後輩である斎藤には、最後の最後に告白を受けた。衝撃だった。まさか斎藤均が、鹿野素直に対して恋愛感情を抱いていたなんて想像すらしていなかった。愛の告白を、鹿野は散々迷った上で辞退した。斎藤は泣き笑いの顔で「鹿野さんならそう言うと思った」と言って、赤い薔薇の花束をくれた。その斎藤が現在どこで何をしているのかも、鹿野は知らない。
田淵駒乃は、喫煙所で待っていた。薔薇の花束を父親に預け、鹿野は黒いスーツ姿で田淵の前に立った。
「鹿野さんには言っとこうと思って」
と、卒業生ではない田淵は言った。
「何を」
鹿野は煙草に火を点け、紫煙の向こう側の田淵を睨め付けた。
「私、中退して、真小田くんと劇団やるから」
「そう」
そんな噂は耳にしていた。真小田自身も、大学を卒業するつもりはもうないらしい。一応来年度いっぱいは在籍するものの、気持ちは完全に劇団立ち上げに向いていて、彼の同輩や後輩にもその動きに同調するものが大勢いると言う話だった。
「だから、ごめんね鹿野さん」
急に展開が分からなくなった。首を傾げる鹿野の目をじっと見詰めて、田淵は続けた。
「鹿野さんのことは、真小田くんの劇団に誘えない」
「それは」
別に構わない。というか誘われても困る。鹿野はいま、とても忙しく過ごしている。
「誘ってあげられなくてごめんね、鹿野さん」
田淵は恍惚としていた。この台詞を吐くためだけに彼女は演劇講座を受講し、役者として舞台に立つことを望んだのではないかとすら──邪推した。
「でも鹿野さんが好きなのは演劇じゃなくて、栄治さんでしょう?」
「そういう人とは、一緒に活動できない。仕方ないよね」
絶句した。反論はしなかった。できなかった、という方が正しいか。
今の田淵には、何を言っても届かない。生きている世界が違う。
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