2 - 5 昔話 ④
だから、授業で使用した台本について、
「今日の戯曲は、真小田くんの作品です」
と不田房がネタバラしをした際、誰よりも驚いていたのは鹿野だった。不田房の作品ではないということは、言われなくても分かった。不田房はあんな風に攻撃的な言葉を使わない。陰湿な物言いもしない。不田房はもっと──うまい。使用された戯曲は稚拙で、攻撃的で、下品で、陰湿で、だからこそ他者を惹き付ける奇妙な光を放っていた。鹿野は、その光が届く範囲の外にいたので、いまいち理解ができなかったのだけど。
その年の秋の学祭で真小田が脚本・演出を担当した短い舞台公演が行われた際に、鹿野の拒否感は限界を超えた。関わってはいけない。彼と──彼を崇拝する連中には。だが不田房は違った。
「面白いね」
と、いつもの喫煙所で優しく微笑んで言った。
「でもあの舞台装置は、そう何回も使えないな。出費も多くなりそうだし……」
そういう問題じゃないだろう、と叫びたかった。あいつらは、あなたを、あなたたちを、先達を、踏み付けて、馬鹿にして、嘲って、そうして──
「鹿野」
不田房は怒らない。どんなことがあっても、怒りを顕にすることがない。配役を発表した翌日に主演予定だった男子生徒が「プレッシャーに耐えられないから降板したい」と言ってきた時にも、全員自腹合宿で借りていたコテージの窓を破壊された時にも、それから、
「怒ると、疲れるよ」
「でも!」
「鹿野。鹿野くん。俺らはもっといい舞台をやろう。噛み付いたら負けだ。分かるよね?」
分からない。分かるわけがない。
そうだあの日、いつもの喫煙所で鹿野は泣いた。
真小田崇作演出で行われた舞台で、装置として使われたのは無数の戯曲だった。本だった。不田房栄治が書いたものもある。コピーではない。彼と、彼の仲間たちは、書店で新刊を、或いは古本を買い集め、引き裂いて、千切って、破壊して、物語が書かれた紙を踏み付けて演技を行った。最後列で吐き気に耐える鹿野と、姿勢を伸ばして舞台に相対する不田房を、舞台に立つ全員が見据えていた。挑発。挑発だった。乗っても無駄だと分かっていた。理解はできていた。彼らと同じ土俵に立つなんてそんな──汚いこと──絶対に──
「誘ってあげなくてごめんね、か・の・さ・ん」
今はいつだ。ここはどこだ。
懐かしくもない大学のホールか? いや、あのホールは2年ほど前に改修されて、鹿野が知るものとはまったく違う姿になったと聞いた。写真でも見た。公演を行うには向いていない仕様になったホールの写真を見て「思い出は思い出として大事にしようね」と笑う不田房の横顔を──思い出して──
「鹿野さん? 大丈夫? 鹿野さん?」
探偵の声がする。
鹿野素直は泣いている。
真夏の喫茶店の座席で、見開いた両目から涙が流れるのを止められずにいる。
10年前。喫煙所で泣いた。悔しかったから。
今はなぜ泣いているのか、よく分からない。
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