第三章 高い空の季節

3 - 1 田淵駒乃 ①

 『暗闇橋の向こうに』に所属している面々の素行調査は探偵・間宮にすべて預けることにして、鹿野は電車に乗って自宅に帰った。気付くと夕方だった。渋谷は相変わらずの灼熱地獄だった。

 家に帰り、シャワーを浴びるのも面倒臭くなってベッドに倒れ込んだ。せめて化粧だけは落とさねば、と思うものの、体がまったく動かない。疲弊していた。

 過去の記憶を掘り返すというのは、これほどまでに面倒な作業なのか。

 Q県。合宿。それに真小田崇と彼の仲間たちによる最初の公演。忘れていたわけではない。鹿野素直は記憶力が良いのだ。忘れようとしていた、記憶の底に押し込めていた、それだけだ。


 うたた寝をしていたらしい。チャイムの音で目が覚めた。


「鹿野ー? 俺だけどー!」


 不田房栄治だった。


「探偵の人どうだった? 話盛り上がった?」

「盛り上がる感じの話をしに行ったわけではないのでなんとも……宍戸さんは?」

「今夜探偵の人に会いに行くって言ってた!」

「……では、明日宍戸さんに改めて確認した方がいいのでは?」

「あ、……あ! それはそうかも!」


 うたた寝から目覚めたら、夜がだいぶ更けていた。不田房はその日の稽古が終わってからすぐに鹿野の自宅にやって来たらしい。「電車とバスですか」と尋ねると「久しぶりにバイク乗っちゃった」と彼はカラカラと笑った。バイクなら面倒な乗り換えをだいぶショートカットできるし、ここから不田房の自宅に帰るのにもそう時間はかからない。


「明日宍戸さんに聞こう。で、鹿野は大丈夫なの?」

「は? ……何がですか?」


 質問を投げ付け合うのも正直馬鹿馬鹿しい。今の鹿野は化粧を落とさずに寝て起きた顔をしているし、目もたぶん腫れている。泣いたから。不田房だって気が付くだろう。

 不田房には緑茶のペットボトル、自分の手元には無糖の炭酸飲料を起きながら、鹿野は諦めの境地で肩を竦めた。


「ちょっと嫌なこと色々思い出すことになって」

「嫌なこと?」

「合宿、覚えてます? 10年前」

「んぁ……Q県だったっけ? コテージの?」

「そう」


 懐かしいなぁ、と不田房はペットボトルの蓋を開けながら笑う。懐かしがることができるのだ、この男は。不田房栄治と鹿野素直はどうにか一緒に仕事ができているだけで本来はお互い別々の世界に住んでいるのではないかと感じることが頻繁にあるが、こういう時、特に強くそんな風に想像する。怒りがない。恨みも。不田房の負の感情を鹿野がすべて担っているのではないかと、そういう馬鹿みたいな想像をすることもある。


「割られたねえ窓ガラス」


 10年前、Q県での全員自腹合宿。全員自腹とはいえ、コテージの宿泊代は無料だった。泉堂一郎の持ち物だったからだ。参加メンバーが自腹で支払ったのは移動費と食費ぐらい。

 真小田を含む一部のメンバーが夜中に酒を飲んで割った窓ガラスの修繕費は、不田房が支払った。泉堂は──今ほど鹿野と親しくなる前の泉堂は呆れ返り、「演助ちゃん以外にまともな人材いないのか?」と水割りが入ったグラスを片手に呻いていた。不田房はその時も「いやぁ俺の管理が良くなかったのかなぁ」などとヘラヘラと笑っていた。


「マジ怒ったほうがいいですよ、不田房さん」


 煙草に火を点けながら鹿野は呟いた。


「絶対あいつらですって」

「あいつら? ……真小田たちってこと?」

「そう」


 再確認しないでほしい。他に誰がこんな──性根の歪んだ真似をするというのか。


「でもさ、証拠もないのに怒れないよ」

「証拠があっても怒んないでしょうが、あんたは」

「怒ると疲れるし」


 10年前の再現のような物言いに、鹿野は大きく嘆息した。


「剃刀包んでたあの紙」

「最初の戯曲だ」

「あれの原本……というか、不田房さんが配ったものを持っている人間なんて、本当に限られるんですよ。理解してます?」

「してるよ」

「嘘」

「してるって」


 不田房も煙草を取り出す。狭い部屋が紫煙で満ちる。


「動機がないじゃん。あとあの……SNSのID? あのアカウントもさ、卒業生の子で見てる子は見てるし」

「その『見てる子』が真小田たちと一緒になって嫌がらせをしてきてるとか、想像しないんですか?」

「んー」


 人が良いのか、馬鹿なのか。不田房のことが分からない。今も昔も、ずっと。


「俺別に見られて困ること書き込んでないし」

「いや書いてるから。宍戸さん家で飲んだ時の写真とか、アレ、自宅特定してくださいって感じの写りでヤバかったですよ」

「鹿野にそう言われてすぐ消したし」

「デジタルタトゥー! 消えないんですよ、完全には!」


 封筒に自分の名前が書かれていることは、今はどうでも良かった。不審な手紙を送り付けてくる相手が、不田房への加害を行動に移したらどうしよう。鹿野の中にはそれしかない。

 彼らはそれを、実行すると思うから。


 田淵たぶち駒乃こまのという名の同期の名前を思い出す。鹿野を演劇講座に引っ張って行ったのが田淵だ。田淵は背が高く、艶やかな長い黒髪、彫りの深い顔立ちに目の大きないわゆる美形で、演劇の経験はないものの『』ということに強い興味を持っていた。実際演劇講座が始まると、自分が引きずっていった鹿野のことを放り出して、大学以外で演劇の経験がある・役者として舞台に立ったことがある他の受講生との関係を深めることに熱心になり、鹿野とはあっという間に疎遠になった。そのはずだった。田淵が鹿野に再び纏わり付くようになったのは、不田房が講師として演劇講座を始め、最初の公演の配役が発表されてからのことだ。田淵は役名をもらえなかった。オーディションを受けていたのは聞いていた。演技経験のある受講生にあれこれ指導をしてもらい「コマちゃんは才能ある」と言われて喜んでいる姿も見かけた──図書室で。やかましいことこの上なかった。だが。不田房は田淵をキャストに入れなかった。田淵は衣装班に回された。


「ね、鹿野ちゃん」


 田淵は非喫煙者だった。その彼女がいつもの喫煙所にやって来た時、ひどく嫌な予感がした。


「なんで鹿野ちゃんは演出助手に指名されたの? オーディションにも、授業にも全然来てなかったのに」


 田淵の目は笑っていなかった。彼女が何を考えているのか、だいたい分かった。

 不田房栄治と肉体関係を持ったのかと。

 そう邪推している目だった。

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