3 - 2 不田房栄治 ①
稽古が始まった。
時には、劇場で不田房と顔を合わせることもあった。鹿野はなぜだか、そうなることが多かった。稽古の休憩時間にもふたり並んで長机の前に座り、ああでもないこうでもないと雑談をしていたせいだと思う。不田房のどうでもいい独り言は、どれもこれも驚くほど鹿野の脳内に残った。それで、「なぜだか分からないけど面白そうだし、当日券あるみたいだし、劇場行ってみよう」と足を運んだ下北沢で、渋谷で、新宿で、派手な柄シャツに身を包んだ不田房に出会っては卒倒しそうになった。大学の関係者と外で会うことなんてほとんどなかった。当日券を購入するために列に並ぶ鹿野を見付けると「鹿野ちゃん! 鹿野ちゃん!」と手を振ってくるのが不田房だった。有名人のくせに、勘弁してくれ──と当時の鹿野は苦虫を噛み潰したような顔で彼に小さく手を振り返した。不田房は、当時はさほど有名人ではなかった。だが鹿野には関係なかった。大学で毎日のように顔を合わせている人間に、大学の外でも出会う。シンプルにストレスだった。
それなのに。
「なぜだか分からないけど面白そう」
それは、つまり、不田房の言葉が鹿野の中に強く残っていた証拠なのだと思う。不田房が「良さそう」「興味ある」「知り合いなんだけどなかなかやる」と言った舞台ばかりを鹿野は見に行った。そしてそこで見たものを、聞いたものを、咀嚼し、糧にして稽古場へと向かった。演出助手に指名されたのは、嫌がらせのようなものだと思っていた。オーディションには顔を出さず、喫煙所で出会っても演劇の話には乗ってこない、そういう学生を無理やりに授業に引っ張り出すための嫌がらせなのだと。
「俺は人に嫌がらせとかしないし」
と、不田房は言った。いつだっただろう。最初の公演の打ち上げの席だっただろうか。
「向いてるやつに向いてる仕事を振っただけ。鹿野ちゃん、演出の才能あるよ」
演出家と演出助手は全然違う。鹿野素直に何か才能があるとしたらそれは演出助手としての能力であり、不田房栄治のように脚本を書いたり、配役を決めたり、稽古で演出を付けたり──といったことはできない。不田房がいてこその鹿野なのだ。ありがちな表現ではあるが、不田房が光なら鹿野は影。不田房が太陽なら鹿野は月。そうやって出会って、今はもう、離れ難くなってしまっている。
「田淵駒乃──ああ、あのちょっと派手な子か」
「覚えてますか」
「ま、昔の生徒のことはね。確かあの子も暗闇橋に所属してるんじゃなかったっけ?」
「それだけ思い出せるなら百点満点ですね」
「ちょっと鹿野ちゃん、俺のことなんだと思ってんの」
「記憶力が決定的に欠けている……」
「ひど!!」
田淵駒乃が奇妙な封書を送り付けてくる犯人だと思っているわけではない。ただ、学生時代に真小田崇の周りに集い、今も彼の側にいる人間として、いちばん初めに頭に浮かんだのが田淵だった。
碌でもない記憶とともに。
だが、不田房の中の田淵が「ちょっと派手な子」止まりなのであれば、それ以上の言葉を重ねるつもりはなかった。人生には、思い出さなくて良いことがある。たくさんある。たとえ鹿野が覚えていても、不田房に伝えなくても良いことは、山ほどある。
不田房は、鹿野が暮らしているマンションの側のコインパーキングにバイクを停めていた。帰る、という彼をパーキングまで見送ることにした。
「まあ……探偵さんっていうプロが介入したなら、多少はマシになるんじゃない?」
「だったらいいんですけどね。今日は、何か届きました?」
「来てたっぽい。宍戸さんが持ってっちゃったから俺は中身見てない」
見せられないような内容だったのだろう、と容易に想像が付く。しかし口には出さない。
「事故らんで帰ってくださいよ」
「事故らんで帰りますよ。俺はね、バイクに乗る時だけは必死だかんね」
「何よりです。明日は稽古に行きますから」
「みんな待ってるよ。台本もね、もうすぐ書き終わる」
「楽しみです」
おやすみを言い合って別れた。
不田房栄治と鹿野素直のあいだには、今も昔も肉体関係はない。恋愛感情もない。ただ離れ難いだけだ。
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