第二章 坂の街
2 - 1 探偵 ①
不田房の判断で、奇妙な手紙が届いていることを新作の出演者、及びスタッフに告げることになった。住所は泉堂ビル、宛名は鹿野素直になってはいるものの、手紙を出した匿名の相手はおそらく不田房栄治にも良い感情を抱いていないということ。剃刀という小さな凶器が送られてきた時点で、この先もっと悪いことが起きる可能性もあるということ。個人的に身の安全を優先したい、もしくは所属事務所に事態を報告した上で降板を希望する場合は、決して引き止めないということ。第二幕が半分ほど書き上がったマックブックを片手に、不田房はそのようなことを淡々と述べた。
「まあ、俺は一応最後まで関与するつもりでいるが」
宍戸クサリが言う。
「不田房に任せておくのも不安だし」
「正直なご意見ありがとう。俺も俺に任せとくの不安」
と、不田房はへにゃへにゃと笑う。
「俺もまあ……いいっすよ、別に。
「剃刀入りだけどな」
音響・
「いいっすいいっす。だって俺スモーカーズ用にスケジュール空けちゃってるし。ここで降りたら仕事なくなっちゃう」
長い黒髪を編み上げ、耳だけではなく顔中に無数のピアスをぶら下げ、黒いTシャツから覗く腕に刻まれた色鮮やかなタトゥーが目を惹く水見はそう続けてカラカラと笑った。鹿野は密かに安堵していた。せめて。せめて制作兼舞台監督の宍戸、音響の水見、それに照明の泉堂だけでも残ってくれれば、演目を変えても公演を打つことはできる。役者が全員降板したとしても、不田房が──不田房はもともと俳優だったから──
「一応事務所と劇団には報告しますけど。自分も続投希望です」
主演俳優、
「うちも大丈夫だと思いますよ。手紙のこと社長には言うときますけど……」
助演ポジションの俳優、
「助かる。衣装は──いつも通り『
「オッケーです」
宍戸の声に、鹿野は大きく肯く。衣装提供、
「
休憩用にと持ち込まれた小さなソファに並んで腰を下ろす白髪の女性・
「あたしはこのまんま参加するわよぉ。栄治の舞台で誰かに刺されたら面白いじゃなあい」
蜜海は、大学を卒業して数年、仲間たちと劇団をやっていた不田房が初めて外部から呼んだ俳優だった。現在70代前半。劇団を解散し、不田房がひとりでヘビースモーカーズとしての活動を始めて以降も、何回も出演してくれている。
「いや燈子さん刺されないから。誰も刺されないから」
「刺されるかもしれないじゃない。通り魔は弱いやつから狙うって言うでしょ? じゃあまずはあたしよねぇ」
葉巻を片手に蜜海はにんまりと笑う。不田房は困ったように眉を寄せ、片手でがしがしと髪をかき回している。
一方狹山もまた、不田房が学生時代に知り合った俳優のひとりだった。蜜海よりは少し若い、60代後半。若い頃は映像作品を中心に脇役俳優として活躍していたが、40代を境に唐突にメインの活動場所を劇場に変更した。不思議な男だ。丸い頭に丸い瞳、小柄でがっしりとした体躯、劇場で仕込み──舞台装置を組み立てたり、ステージを作ったりすることをこう呼ぶ──が行われるとなれば、腰に大工道具一式をぶら下げ、鉢巻をして乗り込んでくる威勢の良い一面もある。
「僕もまあ、出るよ」
薄い眉を八の字にして、狹山は笑う。
「そんなに悪いことにはならないんじゃない? まあ、刺されるのはちょっと嫌だけど……燈子さんが刺されたら次は僕だろうから……」
「んなことにはなりません、って! だよね、宍戸さん?」
「ああ。させない。それじゃあ一旦──」
ヘビースモーカーズ最新作に参加する予定だったキャスト、スタッフは、鹿野、宍戸も含めて全員続投ということになった。蜜海に「ところで台本はいつ完成すんの?」と詰められた不田房は「らいしゅう……らいしゅうには……」と蚊の鳴くような声で応じ、「鹿野ちゃん、怖いことあったらすぐ警察だよ」とキャスト全員に言われた鹿野は神妙な顔で「すぐ110番します」と繰り返し宣誓した。
そして──週明け、月曜日。
鹿野は稽古を休んで、渋谷を訪れていた。渋谷。汚い街だ。鹿野が学生の頃から何も変わらない。再開発を繰り返して駅周りなどは便利になったのかもしれないが、どこからともなく生臭い匂いが漂ってくるところや、燃えるアスファルトを踏み締める度に足首を掴まれるような不快感はまったく変わっていない。
額に浮かぶ汗を拭く。今日は宍戸に命じられて、この坂だらけの街の一角にある喫茶店を目指していた。
探偵に会うのだ。
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