4 - 3 探偵 ⑥
彼は田淵に夢中だった。田淵を追いかけるようにして、翌年の演劇講座を受講した。その時点では、たしかふたりは交際を始めていたような記憶がある。
パッとしない男だった。
不田房とはまるで違うタイプだった。上背はあったものの全体的に覇気がなく、殴ったら殺せそうだな、と思ったのを覚えている。
殴ったら殺せそうだな。
なぜそんなことを思ったんだっけ?
いや、覚えている。思い出す必要もないほどに。
大学三回生の春。鹿野家の愛猫が死んだ。20歳だった。老衰だった。鹿野とほぼ同い年の、きょうだいのような猫だった。鹿野は丸一週間、大学に行くことができなかった。父・迷宮も同じだった。講義をすべて休講にするという無茶苦茶なスケジュールを組んで、父と娘は黙って愛猫の骨壷を眺めて過ごした。
何名かの同期生が連絡をくれたので、「来週には行くから」とだけ返信をした。田淵駒乃からは連絡は来なかった。それ自体は別にどうでもいい。
翌週、鹿野は鉛のように重い体を引きずって大学に向かった。留年する予定はなかったので、今年もきちんと単位をかき集めるつもりだった。それに、演劇講座についても考えなくてはいけなかった。昨年度末に、不田房に言われていたのだ。「来年度も演出助手としてサポートをしてほしい」と。サポート。不田房にとっての自分はもはや、学生ではないのだと感じた。仕事仲間だ。たった一度、並んで稽古場に座っただけだというのに。
その不田房にはいつもの喫煙所で顔を合わせた。一週間ぶりに。
「鹿野、久しぶり。……どうしたの? 元気ない」
「はあ、まあ」
猫が、死んで。と鹿野は呟くように言った。
新年度が始まったからなのか何なのか良く分からないが髪を五分刈りにした不田房は大きく両目を見開き、
「猫? 鹿野ん家の?」
「そうです」
「そうだったんだ……それは……しんどいね」
「ええ……」
涙が溢れそうになったが、ぐっと堪えた。しんどい。しんどいから、一週間家から出られなかった。父は今日も、家にいる。明日は絶対に出勤する、と言っていたが、実際どうなるかは明日になってみないと分からない。
「無理しなくていいと思うよ。鹿野が元気になるまで、俺の授業はどうにかするから。出席日数とかもどうにでもなるし」
「それ……今年も私が助手やる前提ですよね」
「そうだよ。他の子じゃ無理だもん」
そんなやり取りをしているところに、田淵駒乃と林壮平が現れた。前回の公演打ち上げの際のあの一件以来、田淵が不田房を追い回すことはなくなった──いや、完全になくなったわけではない。頻度が減っただけだ。不田房はといえば、田淵が現れても逃げるようなことはなかった。いつも通り、至って自然に。「田淵さん、どうも」などと言ってニコニコしている。とんだ役者だ。
「鹿野さん、猫が死んだってほんと?」
田淵駒乃が、開口一番そう言い放った。
「まあ」
短く応じる。まともに会話をする気はなかった。
「それで一週間休んだの? みんな心配してたけど……」
みんなとは誰のことだ。元舞台班の中村や西のことか。彼女らは、今年は演劇講座は受講しないと言っていた。勉強にはなったし、楽しかったけど──と。けど、と言いたくなる気持ちは分かる。不田房は二度と佐伯を招聘しないだろうが、そういう問題ではないのだ。
「え、猫? 猫が死んで学校休んだの?」
林壮平の声を聞くのは、その日が初めてだった。裏返っていて、聞き取り難い声だった。
「猫が死んだぐらいで学校休むの? 鹿野さんいつも怖い顔してるくせに繊細すぎん?」
「ちょっとお」
──不田房と同じぐらいに背が高いが、全体的に見ると痩身で、筋肉なんてまるで付いてなさそうに見える、
殴れば殺せるだろうと、鹿野は思った。
「鹿野、行こう」
口を挟んだのは不田房だった。
「は」
「並ばないと入れないカフェでう・ち・あ・わ・せ! 今年度も公演成功させるからね、台本書き上がったところまで持って来たんだ。まずは鹿野にチェックしてもらおうと思って」
「いや、は、あの、不田房先生……」
「それにねえ、俺はねえ、人の繊細さを馬鹿にする人間、嫌いなんだぁ」
そのひとことで、林壮平と不田房栄治のあいだには講義が始まる前から決定的な断絶が生まれた。田淵駒乃が顔を引き攣らせているのも見えた。
だが、田淵は別に、不田房を諦めたわけではなかった。
──その林壮平が、泉堂ビルの周りに出没していたなんて。
「取り敢えずまあ、ご覧になって」
間宮探偵が鞄の中からタブレットを取り出し、丸テーブルの上に立てる。カウンターの中で煙草を吸っていた店主がやって来て、サンドウィッチが乗っていた皿と、空になったコーヒーカップを回収して行った。代わりに水が入ったグラスが人数分置かれた。
『あ──あの、撮影、なんで、してるんですか』
映し出されたのは、林壮平の顔だった。青褪めている。七年。鹿野が大学を卒業してから七年、この男とは関わらなかった。老けていた。七年という年月は、鹿野にも、不田房にも、そして林にも平等に降り積もっていた。
『依頼人に見せるためでーす』
間宮探偵の声が応じる。この店ではないどこか──喫茶店か、カラオケボックスか分からないが、とにかくどこかでふたりは顔を突き合わせている。
『依頼人って……不田房先生ですか』
『あらぁ? 心当たりがあるんですか?』
『そ、そうじゃなくって……』
林と田淵はいつ別れたのだったか。覚えていない。どうでもいい情報だからだ。だいたい田淵は、林壮平と交際している
『これ、あなたですよねえ。泉堂ビルの周りの色んなお店の防犯カメラを見せてもらって、集めた映像なんですけど』
映像の中の間宮探偵がスマートフォンを突き付ける。林は一瞬息を呑み、
『なんで、そんな……プライバシーの侵害っすよ……』
『プライバシーを侵害するのが探偵の仕事なんですぅ。それに、そんなこと言うならあなたにも不法侵入、窃盗の罪が……』
『それは! 俺が、やりたくて、やったわけじゃ……』
林の声が裏返る。顔を顰めた鹿野の前に、不田房が黙って水のグラスを置く。
『じゃ誰かに頼まれたんですよね。誰ですか?』
『それは……』
『言わないなら自発的にやったってことで依頼人に報告しますよ。林壮平さんは、不田房栄治さんと鹿野素直さんをストーキングしてたって……』
『違っ……!! なんでだよ、なんで俺……』
映像の中の林の顔が歪む。「結論はまだか」と宍戸が苛付いたような声を上げる。
『頼まれ──たんです。コマから……』
『コマ?』
『探偵なら、もう調べたでしょ? 田淵駒乃……』
名前が出た。不田房を見上げると、彼も鹿野をじっと見詰めていた。
『田淵駒乃さん。L大学中退。現在は劇団・暗闇橋の向こうに所属』
『はい……』
『林さんは所属してないんですよね? 大学を卒業されてすぐに地元のZ県にお帰りになったとか。なぜ参加しなかったんです?』
それは、と林が顔を大きく歪めて言った。
『誘われなかったから』
(──ごめんね)
声が。
蘇る。
(誘ってあげられなくてごめんね、──鹿野さん?)
田淵駒乃の、笑い声。
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