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「後ろっ!」
声に促されるように身をそらしたところで、背中の産毛がざわりと逆立つような寒気が襲った。斧を片手にぐるっと身体を反転させる。
そこには、四足歩行の殻獣がいた。サキミの断末魔を聞いた仲間かとも思われたが、それとは違う。頭は茹でた卵を上からぐしゃりと潰したような形に見えた。あまった皮膚が弛んで、重なり、胴体には何重もの重たそうなしわができている。下半身には尾っぽのようなものがついているが、でろんとだらしなく地面に引きずっている。その殻獣を見た瞬間の本能的な嫌悪感に、アレクの指先に力が入った。
「あれ、前に第1階層にいたはずじゃ……どうしてここに」
シュトルが思わずと言ったように呟く。本来、殻獣は階層を行き来することはできない。縄張りが決まっているのだ。しかし、その例外も地殻洞には存在する。自由に地殻洞を行き来する殻獣は、殻獣のヒエラルキーの頂点に君臨する冠の殻獣と称される。出会えば、生きて帰れないと言われていた。
それに気づいたシュトルがぐっと震える息を吐き出した。それがいやにアレクの耳で大きく響く。
「大丈夫だからなぁ。兄ちゃんがぁ、絶対にまもるからなぁ」
「そ、んなの」
震えるシュトルの舌は、もつれてうまく言葉にならなかった。返事を期待していないアレクは、続きの言葉を待たずに一歩前に出た。
狂気に呑まれていても、無鉄砲に飛びかかるのをアレクにためらわせた。どこが目かもわからない殻獣の意識がこちらに向けられているかと思うとざわざわと肌が内側から撫でられるような気持ち悪さを感じる。そんな感覚全てを、アレクは狂気への燃料にした。
冠の殻獣は特に敵意を向けてはこない。大した相手だとは思っていないように、腰を地面に下ろして落ち着けて、両前足を伸ばした。アレクたちへ冠の殻獣が求めているのは、気晴らしだった。戯れに、2つの生き物が動かなくなるまで遊ぼうとしている。
潰れた卵頭が持ち上がった。伸び上がるとその頭に幾つもできているひびのような隙間が広がる。そこから黒い液体をびちびちと漏らし、まるで頭の中から何かが孵化でもしようとするように震えている。腐ったような臭いが鼻と目を刺激した。
「あ、あああぁぁぁああっ!」
アレクは大斧をその頭に振りかざした。殻獣が吐き出した黒い何かをびしゃりと踏みつけて、まっすぐに刃を叩きつける。しかし、冠の殻獣が床に垂らしているだけだった萎びた紐のような尾が大斧に巻きついた。見た目よりも力強く、振り下ろそうとするアレクの力と拮抗する。
あと少しで届くはずの刃が宙で止まる。力を込めようとしたアレクの足下でびちびちと何かが跳ねる。黒いヘドロのようなものが、アレクの足にまとわりついて這い上がってくる。それはブーツの中に入り込んで、足の指先を舐めた。卵頭がぎゅっと嗤うように縮まって、びしゃりとアレクの腕に同じ黒い何かを吐きかけた。びちりと生きているように腕を伝ったそれはアレクの指先に絡みつく。
「ぐぅっ、がああぁあっ!」
その瞬間に、両手両足から爪を剥がされるような激痛がアレクに走った。黒い何かが、潜り込もうとするように爪の隙間をぶちぶちと食い荒らしている。
痛みにアレクが気をそらされた瞬間に、ぼきりと大斧の先が折れる。刃の部分ががらんと地面に転がって、手に残るのは無理矢理折られた棒だけになってしまう。それでも自由になった腕で棒の切っ先を叩きつけようとするが、無防備なアレクの腹を卵頭がぐっと突かれて、そのままひっくり返すようにぶんっと宙へと投げられた。
「あ、ぐぅうっ、く、そっ!」
それでも諦められず、アレクは持っていた棒を、宙で腕を振りかぶって冠の殻獣に突き出した。激痛の走る両手足ではバランスを取れず、アレクは放り出されるようにして冷たい地面を転がる。いまだびちびちと跳ねる黒い何かに食い荒らされる指先で滑る地面を引っ掻きながらアレクは顔を上げた。
アレクが意地で突き出した棒の切っ先は、うまく冠の殻獣の分厚い皮のしわが寄った胴体に刺さったようだった。ずっと地面に腰を下ろしていた殻獣が立ち上がり、ぐるりと卵頭を回して突き刺さった箇所を確認している。ぶるんと身震いして、刺さった棒をあっさりと落とした。
ざらっと、目も口もどこにあるかわからない殻獣の視線がアレクに浴びせられた感覚があった。追撃が来るかと身体を持ち上げようとするが、手と足を食い散らかす黒い何かのせいでうまく身体が持ち上がらない。何とかを膝を突いてアレクは上半身を起こすが、狂気で呑み込めないほどの痛みとしびれが常に襲ってくる。そんな隙だらけのアレクに、なぜか冠の殻獣は飛びかかってこない。びたんと不機嫌そうにだらしない尾で地面を叩いたかと思うと、アレクに背中を向けた。気づいたアレクは、届かない腕を伸ばす。
冠の殻獣は、シュトルのほうへと向かっていた。
「あ、ああぁぁっ、やめろ、やめぇっ、にげぇろおおっ!」
根を張ったように固まっていたシュトルは、自分に向かってくる圧倒的上位存在にはっはっと浅い息を漏らすのがやっとだった。そこへ冠の殻獣がじわじわと近づいてくる。
ほとんど火が消えかけている、ロープで縛った布の塊がひゅっと持ち上げられた。それは、シュトルが意識して行われたことではなく、左腕の蔦が自らの宿主を守るためのものだった。持ち上がったそれは、近づいてくる足を止めるために振り下ろされる。しかし、子供騙しのようなそれは呆気なく冠の殻獣に受け止められた。あまった皮膚がひだのように折り重なっている部分が、もぞもぞとざわめき、何枚も合わさった唇が開いたように、近づいてきた淡く燃える布の塊を挟み込んだ。ずるずるとそのまま引きずり込もうとする。
危険を察知したように、蔦が絡んでいたロープから離れようとするがそれよりも早く、胴体から流れ出してきた黒い何かが押し寄せて、離すまいと蔦にまとわりついてくる。そのまま宿主であるシュトルまで食らいつこうとする。
「あ、ああ……っ」
黒いヘドロのような何かがシュトルに降りかかる前に、ぷちっと蔦が自ら千切れた。切り離された蔦は、地面に落ちて広がった黒い何かの上でぶらぶらと力なく漂うことしかできなくなる。後ずさるシュトルに冠の殻獣が近づいていく。逃げることはできなかった。
「だぁ、だぃめだっ……」
自分の内側で、皮膚がひび割れるような熱が走ったのがアレクにはわかった。獲物をいたぶろうとする冠の殻獣の足取りをかすむ視界の中に収めているうちに、世界が震えるほど心臓の音が大きくなる。見つめる瞳の奥底が、熱せられた石を突っ込まれたように痛い。ざあざあとアレクの耳に、地面を打つ激しい雨のようにうるさく血の流れる音がした。
ぶつんと何かが千切れる音がした。
倒れていた状態から地面を蹴り上げて、身体を跳ね起こした。前屈みで体勢を崩しながら、邪魔な地面を手で押し退け、ぎりぎりとしなる弓から放れた矢のようにアレクは手を伸ばした。
爪先を食い込ませるように掴んだ胴体に、しかし冠の殻獣は気にかけなかった。びちゃびちゃと皮膚と皮膚の隙間から腐った臭いのする黒い何かが溢れだしてくる。力を込めればこめるほど出てくるそれが手の爪先に食いついてくるが、もうアレクに痛みは感じなかった。ただ、自分の心臓から焦げるような熱さが全身へと巡っている。
そこで冠の殻獣はやっと足を止めた。しゅうしゅうと音がする。首を回すと、目を充血させ、鼻や口から流血しているアレクが自分の胴体を掴んで、指先から煙を出している姿があった。狂気の熱が、ヘドロのような黒い何かを蒸発させていた。アレクは、地面に手をついたときに拾った斧の刃の部分を持ち上げた。刃の部分に指をかけて、自分の肉がざくりと切られるのにも構わず、冠の殻獣の頭を落とすことだけを考えて力を込めた。自分の手から勢いよく噴き出した血がアレクの顔を濡らす。それでも止まらなかった。
そこに至って、ようやく冠の殻獣は目の前の相手がとんでもなくおかしいということに気がついた。
潰れた卵頭を膨らませて、隙間から黒い触手のようなものを出してアレクの頭を呑み込もうとする。アレクは煙を上げる手で邪魔そうにそれらをぶちぶちと握りつぶしては地面にむしって捨てていく。冠の殻獣は抵抗するように身体を回転させ、尾を持ち上げてアレクの腕に巻きついて拘束する。しかし、ぐぐぐっとアレクの反発する力でみしみしと尾が殻獣の下半身から剥がれそうになる。しかし、その前にと黒い触手がアレクの上半身を呑み込んだ。
近づくだけでもどろりと皮膚がただれそうな刺激臭を放ちながら、黒い触手がアレクの眼球をほじくりかえそうと伸びてくる。それに、アレクは恐怖を感じなかった。ただ冠の殻獣の首を落とすのには邪魔になる。邪魔だった。
「に、ににいちゃんががあ、まもってぅ、やうからあ」
黒い触手に歯を突き立てる。噛み千切ろうと奥歯に力を込めた。アレクの口の中は血と泥水と腐った卵が混ざったような味でぐらぐらとひどい気分だった。吐き出すという思考が回らず、ごくりと嚥下してさらに噛みつく。
喰われるかもしれないと、冠の殻獣が初めて怯えを覚えた。
ぱっと黒い触手が逃げるように離れていく。それを追いかけたアレクは、がちんと宙で歯を噛み合わせた。上からのしかかっているアレクを引き剥がすために無茶苦茶に頭を振り回し、胴体をくねらせ、壁に身体を擦り付けるが、アレクは離れなかった。邪魔されなくなった両腕で、血が湧水のように流れるのにも気づかず、刃だけになった斧を握って力を込める。
必死になった冠の殻獣は、ごろごろと身体を回転させ、情けなく腹を天井に見せながら地面の上でばたばたと四つ足を振った。一緒に振り回されたアレクは、しかし自らが流した血でずるっと手を滑らせた。
その瞬間を逃さず、冠の殻獣はまだ手を伸ばしてくるアレクから飛びずさり、頭に大斧の刃の部分が刺さったまま必死に四つ足を動かして逃げ出した。
「あ、だめ、だめめだぁ……まもらぁないとぉ」
追いかけようとして、がくんと膝の力が抜けて倒れ込んだ。止まることなく流れ続ける血のせいで、アレクの身体が耐えきれなくなっていた。それでも、ずっと暴れ続ける狂気の熱が無理矢理アレクを動かそうとする。しゅうしゅうと熱を発している指先で地面の上をかいて、冠の殻獣が逃げていった方向へ無理矢理進もうとする。
そのアレクを止めようと、ずるずる進んでいく先に震える足が立ち塞がった。その人を下から見上げて、アレクはようやく動きを止めた。
「に、ぃちゃんがぁ、なんぉかすうるからぁな。だいじょうぶだぞお」
視界が霞んで白く、すぐそこにいるはずの妹の表情がよくわからなかった。思わず手を伸ばしたところで、前に立っていたはずの足が後ろへと下がった。ぱたっとアレクは浮かせた手を下ろす。自分が手を伸ばすという行為が、妹に恐怖を与えるということを思い出す。灰になりそうなほど熱い頭をアレクは地面にぶつけた。
このまま、自分はいなくなったほうがいいのではないか。妹のためと言って生きながら、ずっと怖がらせてばかりいる。いっそのこと、ここで自らの頭を潰してしまったほうがいいかもしれない。
それがとてもいい考えに思えたアレクは、首を持ち上げかけたところでばさりと上から何かがかけられた。そして、アレクの両足首が浮く。自分よりも小さな手が握っている感触がある。はっと息を詰めたアレクは、身じろぎもしないようにと身体を硬直させた。
どんなことが起こるかもわからない。地面のいたるところに撒き散らされた、冠の殻獣から漏れた黒い何かを避けるようにして、シュトルはアレクに近づいた。もう生きているようにびちびちとは動いていないが警戒を解くことはできなかった。しかし、肝心のアレクがその黒い何かの中で沈んでいる。シュトルはベルトからナイフを抜いて、何度か静かにだまりこんでいる黒い何かだったものをばしゃばしゃと手応えなく刺した。本当にただの黒い液体になっていることを確認して、シュトルはアレクの元へ足を進め、借りたままになっていた耐熱マントを上からかけた。そして、アレクの両足首を脇に挟むようにして持って、ずるずると黒い液体のない壁際へとシュトルは引きずっていく。
ようやく壁のところまで運ばれて、アレクは引っ張られてごろんとうつむけの状態から天井を向くように転がされる。そこで二人の視線が合った。
眉間にしわを寄せ、睨むように目を細めた顔を見て、アレクは自然と謝った。
「ごめぇん、ごめんなああぁ。だえな兄ちゃんでごめんあぁ」
「謝らないで。……全然、血が止まらない」
妹に謝り続けるアレクの鼻、口、手、足から血が止まらない。黒い液体と混ざってどす黒い色になっているアレクの顔をマントの端でぐいぐいと拭うが、あとからあとから血が流れるので切りがない。シュトルは両手のグローブを外した。
目の前に、左手がかざされる。アレクが潰してしまって、うまく動かなくなってしまった、小さな手だ。それがゆっくりと広げられ、閉じられる。
「あ、あああれ? つぶぅれた神経はなおらないってぇ、いしゃにいわれて……」
「私は、シュトル。あなたの妹じゃないよ」
「あ、ああ? あ、ううう、ううん、うん……しゅ、とるさんかぁ」
「そう。……血が逆流すると困るから、横向いてて。応急処置なら、私でもできるから。あなたの持ち物もちょっと借りる」
「う、うううん」
グローブをはめていない指先がアレクの顎をつかんで横を向かせた。乾燥してざらりと硬く冷えた指先になぞられて、熱くなっていたアレクの頭はくすぐられた。されるがままになる。
アレクのベルトから最後の一本になった酒瓶を外して、シュトルはアレクの汚れた手を洗い流した。底の部分が刷り切れて、ぱかぱかと生地が取れかかっているアレクのブーツも靴紐を緩めて脱がせて、真っ赤になってほとんど剥がれている爪先をきれいにする。最後に布に酒を染み込ませて、汚れた肌をごしごしと拭っていった。全身を酒精に包み込まれたアレクは、緩んできた緊張感に目をしばたたせる。
見えている箇所を全て拭い終えると、シュトルは自分の首の後ろに手をやって、寄生植物から取り出した粘液を手のひらにたっぷりと乗せた。そして、それをいまだ血が流れている箇所に塗り込む。患部に塗られたそれは、軽く乾かすと固まって傷口を塞いだ。それを両手両足の指一本一本に施していく。
「鼻血は止まった?」
ぼんやりと眠りに落ちる直前のような感覚にアレクが身を任せていると、耳元で声をかけられた。気がつけばすぐ近くでシュトルが顔を覗き込んでいて、飛び上がりかけたアレクはぐっと腹筋に力を入れて身体を丸めた。
「と、止まったんじゃないか?」
「……もう血は流れてなさそうかな。口からも血を出してたけど、血の味はする?」
「あぁあ、すこし」
「ちょっとだけお酒が残ってるから、これで口をゆすいで。血の巡りが良くならないように、絶対に飲まないで」
「酒か……」
差し出された酒瓶を受け取るために、アレクは肘をついて横になっていた身体を起こした。頭を持ち上げた瞬間に、後ろから髪を引っ張られるような目眩を感じ、アレクは後ろにある壁にもたれかかった。鼻先に突きつけられた酒瓶を受け取るにも、指がもつれてうまく動かない。瓶の底に舐める程度しか残っていなかった酒を口に含んで、横を向いて吐き出した。赤く染まった酒が地面を流れる。
「血の流し過ぎ。起き上がれないでしょ」
「起き上が、れる」
「……本当にできるんだろうけど、まだ起き上がらないで。ちょっと待ってて」
壁に手をついて立ち上がろうとするアレクは、その服を襟をつかんだシュトルの手に止められた。力を抜いて、アレクは重い頭を壁に預けた。
血が足りない状態のアレクを見て、シュトルは自分の服の裾に手を滑り込ませた。そして、すぐに戻した手には3粒ほどの赤い実が連なっている細い枝先が握られていた。
「これ、食べて。味は良くないから、呑み込んだらいい」
「それは、どうもありがとう……もらっていいのか?」
「食べてという言葉に、食べたら殺すなんて意味はくっつけてない。その実の入手先が気になっているのなら……それこそ気にしないで」
「じゃあもらう」
爪に乗せられるほどの小さな赤い実がアレクの手のひらに落とされた。薄暗い地殻洞に似つかわしくない、太陽の下で輝く生命を感じさせる鮮やかな色だった。潰さないように慎重に手を持ち上げて、そのまま日の光のような赤い実を口の中に放り込んだ。シュトルには飲み込めと言われたが、奥歯に引っ掛かって実が弾ける。
「すっぱ」
赤い実はすっぱかった。アレクの鼻の奥あたりがきゅっと締め付けられるような味がする。
ごくりと喉が動いたのを見て、しゃがんだ両膝に頭を乗せながら観察していたシュトルはふっと声を漏らして笑った。
「本当に食べた」
「なんだ。やっぱり、食べたらだめだったのか」
「そんな得体のしれないものを食べるんだと思ったの。地殻洞での探索者の活動はよほどでない限りギルドは関知しない。私がここであなたを亡き者にして、全ての成果を独り占めにすることだってあり得るよ」
「そこまで考えられるほど、俺は頭が回らないよ。それに、毒はきかないし」
「道端で拾ったものも食べるの? 平気だったとしてもおすすめしないかな。……大分、血が戻ってきたみたいだね」
シュトルに言われて、アレクは自分の手を目の高さまで持ち上げた。指先はいまだ痛々しく裂けた痕が残っているが、処置がよかったのか違和感程度で痛みはない。曲げ伸ばしにも問題なく、冷たかった指先に血が通い始めている。
「君には、助けられてばかりいるな」
思ったことがそのままアレクの口から飛び出た。別に悪いこと言ったわけでもないと思ったのだが、アレクの見た先でシュトルは嫌そうに顔を背けて、前髪を荒っぽく左手でかいた。肌を不格好にぼこぼこと隆起して根を這わせているその手の甲で、千切れて力をなくした蔦がぷらんと揺れている。
「その手の、君のその、何て言うんだ、それ、千切れていて痛くはないのか?」
「えっ、何っ……ああ、この子のこと? 植物のほうに痛覚はないよ。元気はなくなったけど、私がちゃんと栄養を取れば、ちゃんと回復してくれる。今回はさすがに無茶させ過ぎた」
「そうか。ご、ごめんな、無茶させて」
「それを言うのなら、そっちのほうが無茶しすぎだったよ。それで助けられてしまったから、責められないけど、謝られるのは腹が立つ。死ぬ気なのかと思った」
「死ぬとか、そういうことも考えられなかった」
そうは言いつつも、アレクはいつ死んでも構わないとは思っていた。遠くにいる妹のために稼ぐことはできるが、それよりもいなくなったほうが喜ぶのではないかと思う。きっといつか自分は冷たい地面の下で、埋められた棺桶よりも深い底で、誰にも知られず消えるだろうという予感がアレクにはある。別に、それが今日だっていい。
言葉にされないアレクの心の裏は、当然シュトルには伝わらない。
「そういうつもりじゃないのはわかってる。お互い無茶した、お互い助かった。……あなたのほうが負担が大きかったし、そこはいつか埋め合わせをする」
「そんなの、気にしなくてもいいのに」
「そっちこそ、そんなこと気にしなくていいよ。……もう少し休んでいて。私はサキミの素材を剥いでくるから」
「え、ああ……」
アレクの様子を見ていたシュトルが立ち上がって、背中を向けて行ってしまう。その小さくなっていく背中を見て、アレクは目を細める。
妹が遠ざかったとき、アレクは追いかけることもできなかった。追いかけて、手を伸ばしても触れることもできない。傷つけることしかできないのなら、離れようと思った。いっそ消えてしまえばいいのだろうと考えた。
そんな心の端のほうで、まだ死ねないと小さく囁かれた。君を無事に帰すまで、死ぬことはできない。
アレクは壁に手をつきながら立ち上がった。ぐらっと頭の重みに一瞬視界が白黒したが、足はしっかりと地面を踏むことができた。ぼろぼろのブーツを履いて、素材を採っているシュトルの丸まった背中へ向かってアレクは進んだ。
「来たの? もう終わったけど」
「ちゃんと、採れたみたいだな。えらいなぁ」
「さすがに慣れてる。動けるなら、もう行こうか。……行ける?」
「ああ、帰ろうかぁ」
シュトルの手の中を覗き込むと、既にサキミの三つ頭のうちの陶器の人形のような顔をそぎおとしたようだった。丁寧に布でくるまれたそれを鞄の中にしまいこみ、立ち上がった。
地殻洞から地上への帰り道は、行きよりもずっと楽なものである。地殻洞というのは来る者は拒むが、帰る者は積極的に帰そうとする。地殻洞の中央には全ての階層を貫くように逆さまの滝が流れている。便宜上滝と探索者たちから呼ばれているが、それは水が上か下に落ちているものではない。それというのが、自然の摂理に反して下から上へと流れている。触れても濡れないし、冷たくもない、ただ中に入ると息ができない。何であるかはわからないが、それは探索者たちにとっては便利という以外にわざわざ知る必要もないことだった。
アレクとシュトルが逆さまの滝へ飛び込むと、上下を無理矢理入れ替えられたような衝撃とともに身体があっという間に押し上げられる。はっと次に大きく息をしたときには、第1階層の滝壺と呼ばれる場所に2人は流れ着いていた。ここまで来れば大した脅威はない。
孤毒の地殻洞を出ると、空の端へ日が落ちつつあった。半日ぶりの日の光に、目を閉じてもまぶたの奥が赤く染まる。
疲労感はあるが、2人の足は力強く土を踏んだ。フルドノの町に戻り、そのままギルドの扉を開いた。もうすぐ日が落ちる時間ということもあり、探索者の姿はほとんどない。
カウンターで作業をしていたアーネストが顔を上げ、自分に向かってくる顔を見て微笑んだ。
「おかえりなさい。今日は、随分と大変だったようですね」
ギルドのカウンターに、2人は探索の成果を乗せた。
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