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そういうわけで、現在シュトルはアレクと共に地殻洞の前に立っていた。
今回目指すのは5階層。目標とするのは、サキミという三つ頭の殻獣であり、その三つ頭の中でも細面の女の形をした頭を割らずに持ってくるということだった。生き物の頭というのは急所であることが多いので、それを傷つけずにということで難易度が上がる。
「えっと、5階層は結構冷えるから、厚着をしていたほうがいい」
「……それにしては、そっちは薄着のように見えるけど」
「狂気状態は体が発熱してるから、寒くないんだ。……サキミは、熱源に向かって攻撃してくる傾向にある。多分、俺のほうを襲ってくるとは思うけど、5階層に着いたら、耐熱マントでも羽織ったほうがいい。余分に持っているから、貸そうか?」
寄生植物たちによって、本体ともいえるシュトルの身体はあまり血が通っておらず冷えているが、全く熱源がないとはいえない。目や気配では誤魔化せない殻獣の相手は、シュトルの苦手とするものだった。
素直にその言葉にシュトルがうなずいていると、アレクが腰に巻き付けているウエストポーチの結び目を解いて、手を突っ込んだかと思うとぞろりと鞄の見た目の容量に合わない大きさのマントを取り出す。驚いて、シュトルはまじまじとアレクの身につけているそれを凝視する。擦り切れてよくわからなかったが、端の方に大きなくちばしのマークが入っていた。オーグライチョウの喉袋を使ったという印であり、見た目以上に大量に収納できると噂の高級品だった。そういえば、そう見えないだけで金持ちだったとシュトルは小さくため息をついた。
それに何を思ったのか、アレクはなかなか受け取ってもらえない耐熱マントに鼻先をくっつけてすんすんと臭いをかぐ。そして、ベルトにつけていた液体の瓶を取り出して、おもむろにマントの上で逆さまにしようとした。
「汚れとか、臭いが気になるなら、アルコールをぶっかければ……何なら燃やすか?」
「燃やさなくていい。今、私が受け取ると荷物が増えるから、5階層に着くまでそっちが持ってて」
「……それなら、わかった」
あともう少しで瓶の蓋を開けるという直前でアレクは止まり、ぐるっと適当に丸めた耐熱マントをまたウエストポーチへと戻していく。地殻洞に入る前の最終調整のはずが、どうも中身があるようなないような話にしかならない。それがシュトルにとって気楽だった。
「どうしよう。俺が、腰にロープでも巻き付けて、端をシュトルさんにでも持ってもらおうか? 以前に何回かチームを組んだときは、勝手に先にどこかへ俺が行ってしまって、ひどく叱られた気がする」
「こっちもそっちも動きづらいでしょ。……私が、できるだけついていけるようにする」
「でも、地殻洞では俺も正気ではないし、声をかけられても立ち止まれないと思う。ふあ、不安だなぁ」
チームを組むと、自然と仲間同士のコミュニケーションというものが生まれてしまう。たまらなくそれが嫌いだったが、今はそこまで嫌な思いをシュトルに思い出させなかった。正気を失いかけている男が、たまたま懐いてついてきた野生動物に思えてきたせいかもしれない。ロープで引っ張って移動なんてすればそれこそ散歩になるなとシュトルは想像した。
「5階層に行く前に、3階層でオドリグサを採取したいの。寄れそう?」
「それは、問題ない。それを忘れるほど、正気が吹っ飛ばなければ」
「ちなみにどういうときに正気が吹っ飛ぶの?」
「え……苦戦するほど強い殻獣が現れる、とか?」
「とか?」
「正気じゃないから、あまり覚えてないんだ……」
それはそれとして人間の男の形をした野生動物の扱いはシュトルの手に余った。動物をペットにして愛でるという感覚も持ったことがない。擦り合わせておかなければいけない話はたくさんあるのに、いま一つ噛み合わない。
「……話してるうちに、日が落ちそう。とりあえずもう行こう。ここで立ち止まっても何も得られない」
「行くのか。それじゃ、先にカンテラを準備しないと」
ベルトに金具で引っかけているカンテラの蓋を開けて、ポーチからモエン草を丸めたものを3つほど取り出して入れた。蓋を閉め、カンテラを軽く揺さぶると、日の下でわかりにくいが発光し始めるのがわかる。
「あとは、酒だな」
さっき耐熱マントに中身をかけようとしていた瓶の蓋を、アレクは慣れたように親指の腹で外した。甘く発酵したきつい酒の匂いがシュトルのところまで届く。
事前にぽつりぽつりとされたアレクの説明いわく、手っとり早く狂気に落ちるために、地殻洞に入る前に酒を飲むらしい。正気と狂気の間を意識的に切り替えられないので、お酒で狂気のスイッチを入れておくのだという。
瓶に口をつけようとしたところで、もう一度アレクが心配性の兄のようにシュトルに確認を取る。
「ほかに言っておきたいことは、ないか? この後、たぶんまともに会話できない。君は、毒については心配しなくてもいいと言ったが、本当に……」
「言うことはないです。さっさと飲んでください」
狂気のいいところの一つは、あまり言いたくない話をうやむやにして誤魔化せることだとシュトルは最近気づいた。
中途半端な位置で止まっていた酒瓶の底を指で押して、まだ言い足りなさそうなアレクに半ば無理やり飲ませる。ごくごくと酒はアレクの喉を通っていき、一気に飲み干されてしまう。
ぐらんと頭が揺れて、肌の血色が良くなり、目の奥の瞳孔が開く。それを見て、シュトルは三歩ほど距離を取った。
「行くか……」
酔ったアレクは、酒瓶を片手にふらふらとそのまま地殻洞へと足を進めていく。その背中を見送り、少し遅れてシュトルも同じく地殻洞へと降りた。
正気から外れた男の足取りは、後ろから見る分には、目的地などなく適当に歩いているのかと思うほど、足取りが定まっていない。しかし、揺れているくせに前に進むことに迷いがない。まだ二度目の地殻洞ということで慎重になるシュトルは、少し遅れることとなった。
頭上の寄生花で足元を照らしながら、暗闇の中で光るアレクのカンテラを目印にしてシュトルは追いかける。ふとぴたりと向こうで小さく揺れる光がぴたりと止まった。止まっている間にとシュトルが足を動かしていると、こちらを向いてじっと立っているアレクに追いついた。シュトルが隣に立つと、待っていたかのようにまた進み始める。今度は進むスピードが先ほどより緩やかだった。
殻獣のほとんど生息しない第一階層を特に問題なく進み、シュトルが以前に降りた穴までやってきた。今度はつぶれた卵のような頭の殻獣もいない。しかし、アレクはそれに目を向けることもなく通りすぎる。その後ろについていきながら、シュトルは一応声をかける。
「通りすぎたけど、あそこから降りなくてもいいの?」
「あぁ、ああ。3階層の、あれ、オドリ何とかを採るなら、こっちのほうが良かったような、気がするんだがぁ……気のせいだったかなぁ。頼りないお兄ちゃんでごめんなぁ。いつも、俺が道に迷って、お前に案内されてばっかりでなぁ」
若干不安の残る回答だったが、今のところ声は聞こえているようだった。ここでの妹扱いは、キリがないので無視することにする。
ぐずぐずといつかあった妹との思い出に懺悔しながら、その苦さを流し込むように、アレクは懐からまた酒瓶を取り出して一口飲みながら、とぼとぼ歩いていく。
そうやってしばらく歩いたところで、また下に下るための穴に行き当たった。ここは一つ前のものよりも幅が広く、光で照らせば下が見える程度の高さだった。そして、またお誂え向きなことに穴のすぐ横には手と足がかけられるような凸凹のある岩壁がある。降りるにはぴったりだった。
「ここからぁ、降りるぞぉ。兄ちゃんがぁ、先に降りるからなあ」
「どうぞ」
シュトルが許可を出すと、アレクは岩壁には目もくれず、そのまま何もないところへとひょいっと軽く飛び込んだ。はっとシュトルが穴を覗き込んだのと同時にどすんっと揺れる音が響く。殻獣を刺激しないように、こちらの存在を知らせないように、音や振動をできるだけ発しないのが一般的な探索者のセオリーだ。案の定、下のほうでざわりと何かが蠢く気配を感じたが、襲ってくるようなことはなかった。
「大丈夫そうだぁ」
高さにして2階建て程度の高さではびくともしないらしいアレクは、カンテラを揺らしながらシュトルのほうに大きく手を振った。
シュトルも蔦と両手で岩壁の出っ張りをつかみながら、難なく下の階層へと降りた。降りてくる再中も真下でゆらゆらとしていたアレクは、それじゃあ行くかと言ったところで急にしゃがみこんだ。かと思えば、手に取った手のひらに余るぐらいの石を拾い上げて、暗闇の一方向へと投げた。ひゅっと鋭くを風を切るったかと思うと暗闇の向こうでズカンと爆発するような音とともに、何かの声がざわざわと騒いだ。
「……今の、何?」
「いまの? 今のやりたいかぁ? 兄ちゃんと同じ大きさだとぉやりにくいだろうからなぁ、もうちょっと小さい石のほうがいいぞお。……平べったいの、探すかぁ」
「いや、いらない。投げないから。本当にいらない」
しゃがみこんでまた石を探そうとするアレクに、シュトルは勘違いを正すためにいらないことを繰り返した。既に何個か石を手に取っていたアレクは、持っていたそれらをぱきぱき割ってから捨てて、少し落ち込んだようにぐらりと首を傾けた。
「そうだよなぁ。お前は、賢いからぁ、いつも勉強して、邪魔する俺はいつも叱られてなぁ、ごめんなぁ」
「いいから。先に進んで」
「ああぁ、ごめんなぁ」
また、お酒をぐいっと口にして、乱暴に袖でぬぐったかと思うと石を投げた方向へと進んでいく。投げられた石のせいで、警戒した殻獣がすぐにでも飛びかかってくるのではとシュトルは身構えていたが、静かすぎるほどに動きがない。むしろ、得体の知れない存在の気配を怖がって逃げたようだった。
シュトルが首をめぐらせて、自分たちの周りを確認した。先ほどアレクが石を投げたように、幾つから足元にごろごろと転がっているが地面自体は平らでどちらかと言えば歩きやすい。地面から壁、天井と、今歩いている道はどれもつるりと滑らかなようだった。まるできれいに削り取ったような、まるで何かが通った跡のようなとまで考えて、シュトルはあの人自分が遭遇した蛇のような長い胴体を持つ殻獣のことを思い出した。もしかしたら、あれが通った道なのかもしれない。
そこで、シュトルはあるものを見つけて足を止めた。ここまで滑らかだったはずの地面に、突然小さな無数の穴ができていたからだった。歩くのに支障があるわけもない模様のような小さな穴だったが、違和感を覚えてシュトルはその地面の上へと目を向けた。寄生花が照らしてくれた天井にはぽつぽつと、岩の内側から何かが噴き出したような形の無数の穴が空いている。シュトルが頭を上げて、寄生花の光を動かすと、天井近くで何かがきらきらと光っているのがわかった。
「ねぇ、ここの道って……いや、やっぱり何でもない」
声にしてから、タイミングが悪かったとシュトルは言葉を引っ込めようとした。特に何も気にせずに歩いていたアレクは、ちょうど無数の穴が空いている天井の下を歩いていた。声をかけられたことに気づいたアレクは、立ち止まってくるりと無防備に振り返った。
「どうしたぁ?」
「何でもない。進むか戻るか、どっちでもいいからそこから離れて……って、あっ」
「すすむかもどるか?」
どちらかと言われればどちらにすればいいかわからなくなる。完全に動きを止めたアレクの天井で、きらきらと光っていたものがぽとりと頭に落ちてきた。そして、その一つをきっかけにぽたぽたと続けて降ってきて、ばらばらとまるで大雨のように何かがアレクの上に降り注いだ。それらは岩の地面に触れると、じゅっと音を立てて小さな穴を空けた。
天井に群れで巣をつくり、獲物が下にやってくると、口内でつくりだした酸の唾液を降らせて仕留める殻獣の名前をショウスコルと呼ぶ。暗い地殻洞では、気づかずに被害に遭う探索者たちも多い。
地面に勢いよく降り、跳ねる酸の雨から距離を取りつつ、酸を全身に浴びているアレクに対してどうするべきかと、自分の手持ちの道具をシュトルは頭に浮かべた。酸の中に飛び込めるほどの装備は持っていない。酸の雨が止んだ瞬間にショウスコルの巣から離れて、治療をすべきかとまで考えたところで、薄手のカーテンのような激しい酸の雨の中のぼんやりした人影が手を挙げた。
「急に、雨が降ってきたなぁ」
酸にまみれた成人男性を引きずって運ぶ方法を考えながらロープを手繰り寄せていたシュトルは、一瞬苦悶の声が変なふうに聞こえたと思った。
「そっちは大丈夫かぁ。さっきまではなぁ、晴れてたのに。お前にはぁ、歩きづらいかもしれないぞぉ」
シュトルは、ぱっとロープから手を離した。酸の雨の向こうから呑気にこちらへ歩み寄ってくるアレクに、自分と同じように考えてはいけないと反省する。
「……うんん? こっちはぁ晴れてるんだなぁ。ぬれなかったのなら、よかった」
「うん。それ以上は近づかないで」
「ええ? ああ、兄ちゃんぬれてるもんなあ。ごめんなぁ。今日は、洗濯当番は兄ちゃんがするからなぁ。ちゃんとべつべつに、わけてから洗うの、覚えてるぞぉ」
手のひらを向けたシュトルに、かくりかくりとアレクが頷く。ぽたぽたと酸の滴を落としているが、その肌は少し赤くかぶれているという程度で本人は気にもしていない。身につけている装備や服も、上級素材のものばかりのおかげかほとんど問題はなさそうだった。シュトルは、それ以上は必要ないと視線を外した。ちょうど酸の雨が降る音も止まる。
ショウスコルは、酸で弱らせた後、天井から降りてきて一斉に獲物に襲いかかり、巣に持ち帰ってじっくりと食すという生態を持つ。しかし、自分たちの攻撃が失敗したということは殻獣でもわかったらしく、2、3匹ほどがぼとぼとと落ちてきたが、何もない酸で濡れただけの地面で腕をばたばたとかいていた。細長い筒のような顔をこちらを向いたかと思うと、短い四つ足をばたばたと動かして巣へ戻って行こうとする。
「とりあえず、先に進もう」
ショウスコルの酸は、吐いてからすぐにもう一度吐いてくることはない。酸の雨をやり過ごすのが探索者の正道となる。
底に鉄板が入っているブーツで酸で滑る地面を踏みつけて、シュトルはショウスコルの巣の下をさっさと通りすぎた。天井を確認して小さな穴が見えなくなったところで足を止めて振り返ると、肩を落として少し沈んでいるように見えるアレクがついてきていた。その胸元にシュトルは自分の持っていた布をさらに破いて小さくして投げつけた。探索には、清潔な布というは必需品である。
「それで拭いて」
「え、ああ、いいのかぁ? 兄ちゃん、ぬれたぐらいじゃあ、風邪なんか引かないぞぉ。お前のものを汚さなくても……」
「そっちがよくても、その滴が間違ってこっちにまで飛んできたら困るから。適当に拭いたら、その布はいらないから適当に捨てて」
「そうだ、よなぁ。兄ちゃんの使ったものなんてぇ、もう使いたくないよなぁ」
そう言いながら、アレクはシュトルの布で拭っていく。何の加工も特殊素材もない普通の布が、酸を吸ってぼろぼろと崩れていく。捨てていいと言ったのにごめんごめんと泣いている姿を、シュトルは黙って見守った。
「それじゃあ、行くなぁ……」
またベルトの酒瓶に口をつけて、とぼとぼとアレクがまた進んでいく。その後ろをシュトルがついていく。今のところ、2人の探索は順調に何の問題もなく進んでいた。
圧倒的な強者がいると緊張感が緩んでしまう。目の前の背中を追いかけながら、シュトルはぼんやりと以前所属していたギルドでの探索、まだ一人ではなかったときのことを思い出した。
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