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今回の目的は5階層にあり、4階層に用はない。そのため、足を止めることなくすぐに抜けようと決めていた。それもそも、この第4階層は長居せずに通り抜けることが探索者たちには推奨されている。
4階層には白い細かな砂が広がる。砂利よりも沈み込むが、足下は安定していて進みやすい。空気はからっと乾いており、空気中に細かい砂がまぎれているのか、口の中が少しざらっとした。そして、ほかの階層と比べて明るい。それは、白い砂からぼっぼっと炎が上がっているからだ。発火し、熱せられてうねる空気が2人の肌をじりじりと温める。その熱気は、剥き出しになっている部分の肌を痛めつけるようだった。
「行くぞぉ。あんまり、急がないようになぁ」
早く通り抜けたいのに急がないようにと、まるで矛盾している注意をアレクは口にした。しかし、防塵ゴーグルを着けたシュトルもわかったようにうなずく。
砂に溢れた第4階層。ここの階層には殻獣がほとんど見られない。それほど、生物が過ごすことに適していないということを意味している。
それは移り死の炎砂とも呼ばれている。この階層の砂には、発火作用がある。小さな砂粒から手のひら大の炎を生み出すのだが、何がきっかけで発火しているのかいまだはっきりと解明されていないことがこの階層の凶悪さを増している。奥深くから吹く風に舞った砂粒が、熱から逃げようと急いだ探索者の足下から、何もなかった目の前から突然燃え上がるということもあり得る。救いといえば、火がついてすぐに消火してしまえばそこまで被害はないということぐらいだ。逆に走って通り抜けようとすると、全身が炎に包まれることとなる。あとはできるだけ砂の上を素早く、そして刺激しないように慎重に、最後には神に祈りながら進むしかない。
砂と接している時間と面積を少なくするために、足を高く上げ、踵を上げながら砂の道を進む。明るいので、行くべき方向について注意しなくていいことだけが救いだった。炎によって薄くなる空気に、大きく肩を揺らして呼吸をした。そこへ奥のほうからオオオッと音がした。風がやってくる。
「俺の、後ろに」
アレクは腕を背後に回して、シュトルを自分の背中に隠れる位置に立たせる。絶対に発火するというわけではないが、必ずしも無事であるという保証もない。火にまとわりつかれる痛みとはどんなものだったかと思いながら、アレクは仁王立ちになって胸を張り、腕を軽く広げて迎え入れる体勢になった。アレクにぶつかる面積が広いほど、後ろにいる相手は安全になる。
ひゅっと風とともに砂が舞い上がり、こちらに押し寄せてくる。
そのとき、後ろから伸びてきた手がアレクのベルトに引っかけられている酒瓶を取ったことに気づかなかった。アレクは、背後からシュッと鋭い音が鳴って薄目を空けた。鼻に慣れたきつい酒の匂いが届く。顔にぶつかるはずの砂粒がかからず、代わりに顔に霧がかかったように湿っている。
ぼっと炎がまき上がった。アレクの前髪が熱気で揺れるほど近くで、熱の塊がゆらりとアレクを呑み込もうと腕を伸ばしている。しかし、炎は触れる前に空気へ溶けて消えていく。
そうして、風が通り過ぎていった。
何だったんだとアレクが指で頬を撫でていると、顔の前で酒瓶が揺らされる。振り返ると、酒瓶を片手に持っているシュトルがいた。その額の寄生花がしゅうしゅうと花弁を開いたり閉じたりして大きく身震いしている。よく見ると、花弁が濡れているようだった。
「事後報告だけど、お酒をちょっと借りたから」
「ああぇ、それはいいけどなぁ……あれ、いいのかぁ? 兄ちゃんの酒は、酔うためだけのだからなぁ。あんまいいやつじゃないぞぉ。今度買おうかぁ?」
「いらない。私が飲むんじゃなくて、この子にちょっと飲ませただけ。すぐに吐き出させたけど」
「そう、かぁ。……シュトルさんが、飲まないのなら。これは、酒かぁ」
アレクは自分の頬を濡らしているのが酒だということに気づいた。そして、さっきの砂の嵐の直撃を防いだのもそれだということに何となく察する。
「さすがに同行している身の上で、これ以上足手まといになりたくはないから。砂が来る前に、お酒を撒いたらいいと思って。勝手をしたのは、ごめん」
「酒のことは、別にいいぞぉ。でも、別に俺は、ちょっとぐらいなら……」
「そういえば、地殻洞に入る前に言ってた耐熱マントは?」
「あ、ああぁ。そうだなぁ。気が利かない兄ちゃんでぇ、ごめんなぁ」
そこでやっと耐熱マントの存在をアレクは思い出した。耐熱マントなら、炎にまかれてもある程度の熱は防いでくれる。上等な素材でつくられたものであるため、すぐに燃えて駄目になるということもない。この階層に降りる前に渡しておけばよかったと、アレクは反省しつつ耐熱マントを引っ張り出した。ちなみに、アレクはいつもマントの存在を忘れるのでこの階層で身にまとったことがない。
しかし、催促した割にシュトルは耐熱マントをなかなか受け取ろうとはしなかった。やっと手に取ったかと思うと、広げたマントをアレクの肩へとかけた。
「ええっと、やっぱり臭いが嫌になったかぁ?」
「違う。……さっきはお酒で防いだけど、お酒にも限りがあるし、全部使うわけにもいかないから、そう何回も使える手じゃない。そうなると、悔しいけど、体格のいいあなたがそのマントを被って、盾になってくれたほうが進みやすい。マントについたら、私がすぐに火を消す」
「俺なんかより、お前がマントをしていたほうがいいんじゃないかぁ。炎は足下からだって上がるぞぉ。兄ちゃんは、風からしか守ってやれないぃ」
「……私とあなたは、対等ではないにしろ、一方的なものにするつもりはないから」
ぎらりと左右で色の異なる瞳が強い意志の光をきらめかせた。絶対に退かないだろうなということが、経験からアレクはわかった。そういえば、遠い昔の冬の日に、妹が上着のボタンを一番上まで手ずから留めてきて、自分をマフラーでぐるぐる巻きにしてきたことがあったことが、アレクの脳みその奥でちらりとよみがえった。あれは、風邪を引いた妹のために慌てて薬を貰いに行こうとしたところを無理矢理引き留められ、やられたのだった。妹は熱でふらふらだったのに、兄の世話を焼かなければという意識はそんな状態でも働くようだった。
肩にかけられたマントをしっかりと首元で留めて、アレクはあの日と同じように礼を述べた。
「ありがとうなぁ。俺は頭が回らないから、いつも助けてもらってばかりだなぁ」
「……助けになるなら、いいんだけど。また風が吹く前に行こう」
アレクを先頭に、再び2人は炎の踊る砂の道を進む。何度か足下からぼうっと炎にまとわりつかれたが、熱に対して怯えまず、シュトルが主に消火する側に回って対処すれば特に問題は起きなかった。
また奥から唸るような声とともに、風が吹く。アレクが前に出て、マントの裾を伸ばして、風と砂を受ける。ぼぼぼっと火がつくが、風が通り抜けてすぐにシュトルがマントの端をつかんで、燃える炎を押し潰すように消火する。
「さっきから、風の吹く間隔が短いね。音もだんだん大きくなっている気がする」
「ああぁ、なんだったかぁ。ここの殻獣は、めったに動かないんだけどなぁ。運が悪かったかもしれないなぁ。でも、もうすぐ下へ降りる穴に……」
前方に見えるはずの穴の近くに、小さい子供ほどの大きさ影が動いていることにアレクは気づいた。その動きは、止まっているかのようにゆっくりしている。でろりと溶けた金属のような身体全体波打たせて、這うように移動する。頭の部分は、まるで垂れ下がる布のような身体のこぶで覆われている。それは、殻獣が息をするとびたびたと揺れて、隙間から裂け目のような大口が見えた。その皮膚は発火性のある砂のせいかところどころ燃えているが、意に介した様子がない。それは、第4階層の主とも言われる殻獣だった。
「あ、ああ、そうだぁ。ミミトリカだったなぁ」
左腕を前に出して身構えるシュトルの、その手にはめられているグローブを見て、アレクは思い出した。
ミミトリカは動きは早くはないが、ひどく厄介な殻獣の一つであった。その原因の一つとして、今、大きく息を吸い込むようにその顔のこぶが蠢いたのがわかった。アレクはマントの端を握る。
きいいいぃいぃぃんっと耳が痛くなる音とともに、ミミトリカは口から息を強く吐き出した。うるさいと不快な気持ちを狂気に呑み込ませて、舞い上がる砂と炎をアレクはマントで受け止めた。薄目を開けていたアレクの目に乾燥した空気と熱と砂が飛び込んで、充血する。続く強い風を、アレクが苛立ちとともにマントを強く払うとまとわりつく炎がごおっと大きく跳ね上がった。アレクの払った手に火の粉が降り注いで皮膚を焼いていく。その痛みがさらに狂気を加速させていく。
「ああ、痛っ、いたいなぁあっ」
痛みによって狂気が増していく。狂気が増していくにつれて、痛みは遠く薄れていき、アレクの意識そのものも現実から離れていく。
ミミトリカの息吹が止まないうちに、火に包まれながらアレクは前方へ突進した。強く踏まれた足下からは炎が新たに巻き起こり、全身を焦がそうとしてくるが、狂気が高まったアレクには何も感じなかった。狂気によって強化された肌はわずかに熱を鈍く感じるのみだった。そのまま斧を振り上げようとするアレクに、ミミトリカは大嵐を受けた水面のように全身を震わせて、甲高い声を出しながらぱかりと口を開いた。近づくと、濁ったあぶくのようなものをぱちぱち弾けさせている長い舌が見えた。
「伏せてっ!」
その声が、狂気に深く落ちていた耳になぜ届いたのか。アレク自身にもよくわからなかった。妹の声だと思ったからかもしれない。言われるがまま、身を低くすると、アレクの頭上を後ろから何かが通り越していき、そのままミミトリカの開いていた大口に飛び込んでいく。自分の舌の上にものが乗っかり、反射的にぱくりと口が閉じられる。そして、また口を開こうとしたミミトリカは口の中がくっついて開かないということに気がついた。口に含んだものは、シュトルの寄生植物の出す粘着性のある分泌物を染み込ませた布だった。
必死に口を開こうと身体を伸び縮みさせてミミトリカが暴れる。じわじわとぬるつく液体がその身体から漏れ出てきて、足下を濡らした。そのまま追撃しようとしたアレクをシュトルが止めた。
「このまま、穴に飛び込むよっ」
ぼぼぼぼっと殻獣の身体から出た粘液に火が点いたかと思うと、辺りが一面の火の海になる。その中を突っ切って飛び込んでくるシュトルとともに、アレクも穴へと飛び込んだ。重力に任せてそのまま2人はそのまま下へと落ちていく。
高所から落下により、熱くなった頬を切っていく風がアレクを冷ましていく。冷たい風に揺らされて、少しだけ冷静になったアレクが気づいたのは、自分と一緒に落ちている少女の手が、アレクの服を皺になるほど強く掴んで引っ張っているということだった。
どうすればこの子を守れるかと考えて、アレクはできるだけ身体から力を抜いて、その小さい頭の上に触れないように手をかざした。もうすぐ、地面に落ちる。
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