冠の殻獣
1
妹と遊んだときのことを、アレクは思い出していた。といっても、面白みもなく、頭も悪い、不器用な兄は、遊び相手として不足だったのだろう。あまり遊びに誘ってはくれなかったし、近所の薬師の老婆のところへよく本を読んでもらいにいっていたなと、久しぶりにアレクは薬師の老婆のいかめしい顔を思い出した。幼い頃から、自分と違ってとても賢い子だった。
アレクの目の前で、白くて丸い後頭部を見せて下を向く少女の背中がある。幸運なことに、手を離してしまったはずのオドリグサが足下の転がっているのを発見した。オドリグサの髪とも言うべき伸びた葉の部分を、アレクより一回り小さな手が強くつかんでいる。そうやってオドリグサが動かないように固定して、もう片方の手に持っていたナイフで手と足に当たる根っこの部分を切り落としていく。作業が一区切りして、シュトルはすんと鼻をすすった。
「うまく、切れたかぁ?」
「……手足のところ、逃亡防止のために切るだけだから。根っこは、切ってもどうせまた再生するし」
オドリグサの根っこ部分をきれいに処理したシュトルは、採取用の瓶にオドリグサを詰めていく。それを布で包んで、丁寧に彼女の鞄にしまう。
アレクの妹は、慕っている薬師の老婆の真似をして、たまに薬屋さんごっこに誘ってくれた。家の裏で摘んできた草を刻んだり、絞ったり、混ぜたりして、妹考案の謎の薬をつくっていた。アレクは、その薬を飲む患者役を任命され、妹の作業をどきどきしながら見つめていた。完成したら飲まなくていけないからだ。
「飲まなくてもいいのかぁ?」
「え? お酒なら、好きに飲んでくれればいいけど」
「でも、飲まなかったら、お前は泣いて怒るだろぉ……」
「な、泣いた、というか、目に砂利が入っただけだからっ。そもそも怒らないしっ」
「ああ、ごめん、ごめんなあぁ。兄ちゃん、また怒らせたなぁ」
アレクの妹は、幼い頃からしっかりとしていて、まだ年相応に幼かった兄に頼ることはせず、むしろ自分が世話を焼く側であると認識していた。だからなのか、アレクが兄らしく振る舞ったり、兄の前で自分の幼さを指摘されたりすると、泣いて怒った。妹特性の薬を飲んだ兄がひどい腹痛で寝込み、薬師の老婆がこっぴどく妹を叱ったときも泣いて怒っていた。あのとき、お腹が痛くて庇ってやれなかったことをアレクはときどき後悔している。
「今度は、ちゃあんとばれないようにするからなぁ。兄ちゃん、狂気を手に入れたからぁ、飲んでも腹を壊さなくなったんだぁ」
「……それは、よかったね」
「ああ、でも、だめかぁ。こんな狂ってる兄ちゃん、お前は嫌いだもんなぁ」
ギフトを手に入れてから、妹との距離が遠くなったようにアレクは感じていた。近づこうと思っても、声をかけても、手を振っても、すぐに背を向けられてしまう。口も利いてくれない。
ああ、あのときだ。いつも怒って泣いていた妹が、顔をくしゃくしゃにして苦しそうに泣いていた。どうしてそうなってしまったのか、よくわからなかった。あのときのことを、アレクはうまく思い出せない。
喉の奥が熱くなった気がして、アレクはその熱を冷ますためにベルトから酒瓶を引き抜いた。持った感触からして残っている量は少なく、蓋を開けて一気に飲み干した。軽くなった瓶を地面に投げ捨てて粉々にする。
「そろそろぉ、行くかぁ……」
下に行かなければいけないことは覚えている。うまく思い出せない何かは放り出して、アレクは覚えていることを優先することにした。
腰のカンテラで足下を照らしつつ、すっかり慣れてしまった薄暗い空間を勘だけで進もうとしたが、ふと自分の腹あたりが少し冷たい気がしたアレクは一旦止まった。指の腹でなでると、何だか濡れている気がする。
さっき酒をこぼしたんだったかと忘れてしまったついさっきを思い出すようにアレクは宙を見上げたが、そこには何もなかった。
「進むの?」
「帰りぃたかったかぁ?」
「さっき、あなたの得物だった斧を投げちゃったでしょ。手ぶらでの探索はさすがに危険かと、思って。……私が、足を引っ張った、せいだけど」
立ち止まったアレクの背中に追いかけながら、シュトルはいつもよりためらいがちに、最後には消えそうなほど小さな声で話した。身じろぎするたびに足下で鳴る砂利のほうが騒がしいくらいだった。
アレクは、そういえば自分の背中が寂しいような、軽いような気がするなと肩を回した。そして、斧を投げた瞬間のことがぼんやりと脳裏に流れる。
「そういえばぁ、そうだったなぁ」
「ギルドからはできるだけ早くって言われていたけど……代表代理には、ちゃんと私が遅れるって言う。私の、せいだし」
「ああぁ、だいじょうぶかぁ?」
「ちゃんと報告する、あなたのせいにはしない……って、そっか。代表代理には嘘がつけないんだったっけ。そうだった」
「に、兄ちゃんがぁ、握った手ぇ、つつぶれてぇないかぁ、いたくないかぁ」
助けるためとはいえ、手を握ってしまったことをアレクは思い出してしまった。自分のやらかしてしまった事態にざらりと血の気が引く思いだったが、狂気によって逆に爆発的に全身へ血が巡っていく。かっかっと湯気が立ちそうなほどアレクは熱かった。
ぐらぐらと噴火寸前の揺れるアレクの頭を見て、シュトルは少しぎこちない動きではあったが、グローブをつけている左手を目の前にかざした。そして、指を一本一本曲げていく。それを、信じられないとアレクは凝視した。
「私の指は、だいじょうぶだから」
「でも、ででもでもなぁ、痛いだろぉ。ままたぁ、つぶぅしたかもぉしれない。は、はやくぅちりょういんにぃ……っ!」
「あ」
アレクは、前に立つ妹が、はっと大きく眼を見開いたその表情を見て、とっさに自分の伸ばした腕が触れない程度まで後ろに下がった。
ギフトを手に入れてしまってから、思い出せないことが多い。でも、忘れてはいけないことがアレクにはあった。手の中で潰れる感触、泣いている声、二度と笑いかけてくれなくなった妹。いつか国立学校に入るのだと言っていたのに、ペンも握れなくなってしまった。枝で地面に文字を書いて、それを一つ一つ、頭の悪い兄に教えてくれた。特性の薬をつくってくれた小さな手を、アレクは動かなくしてしまった。
「おれおれ俺おれぇがぁ、お兄ちゃんのくせにぃ、おまえのてをぉっ」
「私は、あなたの妹じゃないっ! よく見て、あなたの妹の手じゃない!」
グローブを取り払ったシュトルの手がもう一度目の前に広げられた。緑の蔦が巻き付き、血の気の薄い灰色の皮膚と癒着している。蔦は息づくように脈動して、それに肌が引っ張られて不気味にぽこぽこと浮き上がっては歪んでいる。人の手の形に赤く腫れた跡が手の甲にはあったが、それほどひどいものではなかった。そして、人差し指がゆっくりと警戒する小動物のようにアレクに近づいていく。
はっとアレクは咄嗟に息を殺した。もう二度と妹を傷つけてはいけない。しかし、ずっと昔の記憶よりも大きくなった気がする。そういえば、何年も手紙のやりとりだけだ。……長い間会っていない。
シュトルの指先がつとアレクの顎に触れて、すぐさま離れていった。その指先には鮮やかな赤い色がついている。
「鼻血が出てる。全然止まらない上に、勢いが良すぎて怖いんだけど。……私が妹じゃないのはわかってる?」
「あ、ああ、ああ、シュトルさん……」
つうっと顎の先のほうまで伝ってくる感触がようやくアレクにも感じることができた。手で鼻の下から顎下まで撫でるように触ると、ぬるっと血が手のひらに伸ばされた。
地殻洞で正気になるのは危険ではあるが、血を流し続けるのも危険であるという判断はぼんやりと今のアレクでも行うことができた。血の臭いに誘われて、足下にぐるぐると絡み付こうとしている多足虫のような殻獣がいることにも気づく。
ぶんと巻き付かれた足をシュトルがいるのとは反対の方向へ蹴り上げて、引き剥がす。そして、腰のベルトでまだ幾つか引っ提げている酒の瓶の一つを顔の上で引っくり返して、鼻の下を洗い流した。その少しふらつく頭でアレクは気鎮めの薬を軽く吸い込む。
「ここで、止まっているのは危ないから、少し移動しよう。それでいいか、シュトルさん?」
「うん、平気」
鼻の付け根あたりを指で押さえつつ、血の臭いで集まる殻獣たちを避けるようにアレクたちはその場から離れた。
しばらくじゃりじゃりと進む足音だけが響くことになる。そろそろいいかと鼻から指を離したアレクは、振り返ってついてきているシュトルに目をやった。外していたグローブをはめ直していたシュトルは、急にこちらを向いたアレクにびくっと肩を震わせる。
「シュトルさんに、迷惑かけた。ごめん」
「……私がうまくできなかったのが原因だから。正気に戻ったみたいだったけど、これも良くなかった?」
「いや。狂気状態だと、身体能力が上がる分、血の巡りが良すぎて出血すると歯止めが利かないから助かった。血が出れば出るほど狂気状態も酷くなるから、血が出過ぎる前に正気に戻れたほうがいいんだ」
一度、殻獣相手に苦戦して大怪我を負ったことがアレクにはあった。何とか殻獣は仕留めたものの、流れて過ぎた血で身体はふらふらになり、強すぎる狂気状態でまともな判断もできず、当然1人であるから誰かに助けてもらうこともできなかった。そんな危機的状態だったが、よく覚えていないがどうにか帰れたらしい。ただし、その日のギルドはまるで腐臭ただようグエントレンの群れが襲ってきたような様だったとアレクはアーネストから聞かされていた。
生食は危険ですから、あまりしないでくださいとアレクはアーネストからそのときに言われたのだ。いまいち意味がわからない。ただ、そのとき身につけていた装備は全て血で真っ赤に染まっていた。まるで血の海に顔でも突っ込んだかのような有り様で、いい機会だからと何もかも新しく買い換えたのだ。
「そういえば、言い忘れていたな。血を出すと止まらなくなるから、できればそのときは正気に戻してほしい。ここから下の階層だと、怪我をする確率が上がるから」
「え、まだ下りるの?」
「シュトルさんが戻りたいなら、戻るけど。でも、何度もシュトルさんを連れ回すのは、良くないかと思った。俺は平気だ」
「あなたの斧、なくなったけど」
「おの? ああ……」
そういえばそういう話をしていたかと思いながら、アレクは見た目より入るウエストポーチに手を入れて、アルケミー樹脂を染み込ませた何の変哲もない三つ折の棒と、斧の刃の部分をそれぞれ取り出した。三つ折りの棒は広げて、折り目部分をぐっと手で強く圧をかけて戻らないようにしようとしたが、アレクの狂気が遠ざかっていたためになかなかうまくいかなかった。
酒を飲むかと考えているアレクに、シュトルがためらいがちに声をかける。
「それって、予備の斧?」
「そうだな。斧を壊すこともあるから、幾つかストックがある。武器の心配なら大丈夫だ。素手でもある程度は対応できる」
「そう。じゃ、このまま進めるのか」
そのシュトルの声があまり気乗りしていないようにアレクには聞こえた。薄暗い中、目を細めてアレクはその表情を探った。シュトルの光源は、その額の寄生花にあるので顔が見やすかった。
半分以上白い前髪が光を反射して、きらきらとその目元を飾っているように見える。寄生植物の根が左頬の上に浮き出ている。癖になっているのか、色が濁っている瞳とひきつった顔半分を隠すようにうつむき加減だった。滑らかな頬の部分も生気を感じさせない色になっている。額からの光が彼女の顔に色濃い影をつくって、どこか暗い印象を持たせていた。
「何? 何かあった?」
「疲れているのかと、思ったんだ」
「私は別に疲れるようなことはしてない。あなたが平気なら、さっさと進んだほうがいいでしょ」
「ああ……」
話を切り捨てるように、強い語尾でシュトルは話を終わらせた。アレクも力なく返事をして、顔を前に戻す。
妹に似ているなとアレクは心の中でつぶやいた。自分が困っていても、弱っていても、嫌だと思っていても、絶対にそれを認めようとしなかった。平気な顔をして、強がって、何でもないとそのまま我慢してしまう。アレクが指摘すると余計に意固地になってしまう。
だから、お兄ちゃんが守らないといけない。
みしりと嫌な音を鳴らした手元を見やると、アレクが握っていた棒が折れそうにしなっていた。手を外すと折れ目のところにうまく圧がかかって、希望どおり棒が曲がらなくなっていた。
棒の折り目3か所全てに圧をかけ終えて、最後に斧の刃の部分を棒の先に引っかける。斧の研かれた刃部分と反対にある2つの輪を棒に通して、その部分をまた握り込んで動かないように手で圧をかける。何度か斧を手の中で振り回して、問題ないか確認する。
「これで、もう大丈夫だぞぉ」
「……わかった。それじゃ、進もう」
2人の前には、さらに下へ続く穴がぽっかりと開いていた。
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