強い衝撃が全身を走ったが、意識してアレクは動かないように自分の肘を引いた。反射でも腕を振ってしまえば、自分と一緒にいるシュトルにぶつかって怪我をさせてしまう危険がある。痛みを逃がすこともできないまま、ぶれる意識の中で自分以外の動く姿を探した。しびれる身体をゆっくりと転がして、手をついて身体を起こそうとする。そのアレクの身体の上に何かがかぶせられたのがわかった。


「まだ、ちょっと燃えているところがあるから。少しそのままでいて」

「わ、かった」

「……うん。もういいよ」


 何かが外されて、四つん這いの格好のままアレクは顔を上げた。防塵ゴーグルを外したシュトルが、大した怪我もない様子で見下ろしているのが見える。足下には火の残りかすのようなものがと燃えて、やがてだんだん小さくなって消えた。

 アレクの目の前で、シュトルのグローブをはめた手が戸惑うようにひらめかせている。


「立てる?」

「ああぁ、大丈夫だぞぉ」

「あ」


 さっきまでいた場所とは打って変わってひやりと冷たい床に手をついてアレクは立ち上がった。シュトルが何か言ったような気がして、どうしたのかと視線を向けたが、前に出していた手を背中へ隠して首を横に振った。

 辿り着いた第5階層は、先ほどまでと随分と印象が異なった。撫でればつるりと少しの引っかかりもないだろう滑らかな床や天井、壁は誰かが綺麗に整えたかのようだ。じっと覗き込めば、覗く自分の姿の影が映り込む曇った硝子のようなものでできている。それはぼんやりとは光っているが温度を感じさせず、この階層全体がひやりと冷たい空気を持っていた。

 第4階層で熱せられた肌が冷えた空気で宥められて、アレクには心地よく感じられた。しかし、隣で小さくくしゃみが響いた。


「だ、大丈夫かぁ? か、風邪を引いたら駄目だぞぉ」

「私は風邪は引かないけど……」

「ここれを、はやく着るんだぁ」


 アレクは自分の着ていた耐熱マントを脱いで、シュトルの頭の上からそれを被せた。やや乱暴な仕草だったせいで髪が乱れたが、文句を言わずにシュトルは耐熱マントで身を覆った。男性用であるため、丈は長いがぎりぎり地面に引きずることはなかった。ところどころ生地に焦げたような黒い跡があるが、使えないほどではなかった。

 よしと満足のいってアレクが足を動かすと、がしゃんと転がっていた大斧を蹴り飛ばしてしまった。それを拾い上げて、何度か素振りをして使えることを確認してから肩にかついだ。


「はやく、目的のやつをぉ見つけて、帰ろうなぁ。腹減っただろうぅ?」

「お腹はそこまで空いてない。……目的のサキミっていうのは、何度か倒したことがあるんでしょ? でも、綺麗な素材を採るために何体かは相手にしないといけないかも」

「そうだなぁ」


 アレクは腰のベルトに引っかけたままのカンテラに触れた。頑丈なつくりであるために、高所から落ちた衝撃にも傷一つついていない。ただ、明かりが少し弱まっていた。アレクはモエン草を追加で放り込んで、薄暗い辺りを見回した。広い空間には、アレクとシュトル以外の存在の影はもちろん、音も確認できない。


「今までは、どうやって探してたの?」

「今までぇ? 今まではぁ、おぼえてないなぁ。いつもは、ここまで正気じゃなかったからなぁ。いつのまにか見つけて、たおしてぇ、持って帰ってるなぁ」

「ああ、そう……」


 シュトルに言われて、まだ少し働くアレクの脳みそが少しだけ焦りを見せた。それがまた狂気につながって、アレクはまた空気を裂くように大斧をぶんっと振った。


「ちょっと、けがでもするかぁ?」

「……え。今、何て?」

「ああぁ、大丈夫だぞぉ。ちゃんとお兄ちゃんが守るからなぁ。けがなんてさせないぞ」

「私は怪我しないけど、そっちは怪我をするの?」

「そうだなぁ」


 あと2本しか残っていない酒瓶のうち1本を手にとって、アレクはぐいっと喉に通した。喉がかっと熱くなり、それと一緒に脳みそも沸騰するように熱くなっていく。それでも、まだ狂気が足りなかった。


「いつもより正気だからなぁ。狂化が、うまく使えないんだぁ。痛いと狂気がわいてくるからぁ、はやく強くなりたいときは、ものすごく痛い目にあうといいぃ」


 難点は、血を出す怪我をすると高確率で貧血になるということだ。しかし、血を出さないで痛い思いをするのはなかなか難しい。骨折を試したこともあったが、あやうく二度と腕が上がらなくなりかけたので禁止を言い渡されている。

 ぐうっとアレクの隣でシュトルがうめいている。唇に歯をたてて、ぐっと強く噛んでいるのがわかった。


「そんなことしなくても、十分強いと思うけど」

「そうかぁ。でも、下に行くほど厄介なのが多いだろぉ。……今まで、そんなこと考えなかったし、できなかったけどなぁ。今回はまもらないといけないだろぉ」

「……そこまでして、守る必要ってある?」

「当たり前だろぉ。俺は、お兄ちゃんだからなぁ」


 それは、アレクにとって考える必要もない言葉だった。今度こそ、絶対に、妹は守らなければいけない。そうしなければいけない。

 だから、うつむく姿に困ったなとは思ったが言える言葉も、出せる手もアレクにはなかった。こういうとき、何をしても妹は泣いて怒るのだ。あのときも喜んでくれると思ったが泣かれてしまった。泣かせるぐらいなら、黙っていたほうがいいだろう。

 2人して黙ったおかげで、静かな空間にはよく音が響いた。足音を潜ませてひたひたと近づくかすかな音が、アレクの耳に入ってきた。

 近づく音が止まったところで、ふっと鋭く息を吐きながら素早く振り返ったアレクは、その勢いのまま手の中の大斧を振り抜いた。こちらに忍び寄り、音もなく飛びかかった頭の鋭い牙が斧とぶつかる。横から伸びてきた鱗頭が首を伸ばしてきたが、それごと思い切り吹き飛ばす。そのままアレクの力に負けた殻獣は、しかし図体に見合わない身軽な動作で壁を蹴って、しなやかに着地した。

 たてがみの目立つ中央の獣の顔、ぬるりとした鱗を光らせる首の長い顔、隠れるようにこちらを見つめる陶器の仮面のような顔、そしてその三つ頭が一つの胴体にくっついている、サキミだった。


「ああぁ、思ったよりも、すぐに見つかったなぁ」


 ちらりとアレクは視線だけ横に動かすと、シュトルは黙ったまま邪魔にならない位置へ移動しているのを視界に入れて、大斧を握り直した。

 サキミはかちかちと前足の爪で床を叩いた。そして、ぎいっと引っ掻いて嫌な音を出す。ぐるるっと低い声で獣頭が唸り、横の鱗頭が首を前に出して舌をちろちろと出すのを咎めるようにたてがみを揺らした。それに抗議するようにしゅうしゅうと鱗頭が鳴いている。一つの身体で仲間割れをしているようだった。

 それならとアレクが床を蹴って近づこうとしたところ、3つ目の人工物のような仮面の頭の目がきらりと光った。その瞬間にすべての頭がアレクを見て、ちょうど大斧を振りかぶったアレクの腹に突進した。アレクは咄嗟にもう片方の腕で岩のような身体を受け止めるがさすがにバランスが崩れて、一歩後ろへ下がってしまう。しかし、無理矢理大斧を近づいてきたサキミの脳天に下ろした。その直前に、わかっていたかのようにするりと呆気なく殻獣を身を引いて距離を取る。斧はわずかに掠めただけになった。

 がちんと床を削っただけになった大斧を持ち上げて、アレクははあっとため息をついた。自然と酒瓶に手が伸びて、戦闘中であるにもかかわらず飲んでしまう。


「うまくいかねぇなぁ。これだけしか取り柄がねえのになぁ。……狂気が足りないのかぁ、どう思う?」


 アレクの口から漏れたのは独り言だった。考える頭で、爪の1枚か2枚でも剥がしてしまおうかと、アレクは自分の指先を軽く曲げた。

 しかし、そうする前にサキミが動いた。目の前の脅威であるアレクから鱗頭が目を外して、胴体が逃げるように横へ飛ぶ。さっきまでサキミがいた場所に炎の塊がぶんっと降ってくる。それは酒を染み込ませた布にロープを巻いて、さらにロープの端をシュトルが寄生植物の蔦を絡ませているものだった。蔦がぐんとロープを手繰りよせると、火がまた飛び上がる。

 サキミは、熱を発するものを感知して襲う。

 シュトルが操るその火に向かって、サキミが太い前足を伸ばして、ロープを爪で器用に引っかけて、引きちぎることなく地面に押さえつける。燃える火に臆することなく、サキミは足下の火を赤い舌で舐めた。中央の頭のたてがみにも火が燃え移ってぱちぱちと光っている。その獣の視線が、はっきりとシュトルを狙っていた。

 それは駄目だ。それだけは駄目だ。絶対に許せない。

 瞬間的に湧き上がった熱によって、アレクは考える間もなく地面を蹴った。目前にまで迫ったところで、気づいた鱗頭がしゅっと警告音とともに顎を大きく開いてアレクに飛びかかった。アレクはその喉に腕を突っ込んで力ずくで爪を立てて、内側から捻り上げた。ぷつりと牙が肌に食い込んだような気がしたがそれだけだった。ぶちっとそのまま鱗頭を胴体から引き抜く。

 ガアッと遅れてたてがみを光らせる獣の顔がアレクに反撃しようとするが、その前に斧を振り下ろした。ぐしゃりと潰れる感触がある。だが、まだ胴体が倒れていないので斧をもう一度、三度、四度……。


「とまってっ!」


 アレクの鼻先を炎が掠めた。特に止まるほどの妨害でもなかったが、それを行ったシュトルがこちらに近づいてきているのが見えたので、サキミの胴体を足で踏みつけて大斧を下ろした。


「それ以上やると、素材として持ち帰らないといけない部分も傷つく。運がいいことに、1頭目でうまく傷をつけずに仕留められたみたい。3つ目の頭は、傷一つない状態で納品しろって代表代理が、」

「だから、危ないことはしたら駄目だって言っただろぉっ! また、けがしたらどうするんだぁっ!」


 また、危ないことをした妹を叱った。何かを話しかけていた唇がきゅっと閉じられる。アレクの妹がいつもやる不満のポーズだった。兄に怒られても、妹は不満に思うばかりで反省してくれない。それでも、アレクは叱らなければとその顔を見据える。視界がぼんやりとしていて、輪郭しかわからなかった。


「どっちも怪我しなかった。うまく対象の殻獣を仕留められた。何も問題ないよ」

「兄ちゃんの話をぉ、ちゃあんと聞いてくれぇっ! いつもは兄ちゃんより賢いだろぉ? 馬鹿な兄ちゃんが怒るぐらぁい、馬鹿なことをしたらだめだろぉ」

「……その叱り方は、どうかと思う」

「兄ちゃんが嫌いでもぉいいからぁ。お前の気が休まるならぁ、どんな痛い思いだってがまんできる。そもそもぉ、痛いと思えるほどのぉ能がないけどなぁ」


 妹に与えた苦しみの罰になるなら、一方的に痛めつけられたってアレクは構わなかった。この僻地の地殻洞なら、最も苦しむとされるこの場所なら、きっと相応しいと思っていた。痛くたってすぐに狂気に呑み込まれる。狂気に落ちれば落ちるほど嫌われるとわかっていた。それでも、妹のために何かしたいと狂ったアレクは望んでいた。


「……どうしよう。目標を倒したし、正気に戻してもいいのかな」


 妹が何か言っている。まともじゃないアレクの頭には、その言葉がうまく理解できない。すっかり賢くなってしまったなぁとアレクは感心して、誇らしい気持ちになった。俺の稼いだお金で、国立学校に行ったのだ。きっと一番優秀だろう。また怪我をして、ペンが握れなくなったら困ってしまう。そう言えば説得できるかと思い、ペンは……とまでアレクは言いかけた。

 それを遮るように、少女の悲鳴のような声が上がった。


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