フルドノ町

 ばしゃんと桶いっぱいにした水を持ち上げて、頭からかぶる。なまぬるく感じる水が頬を伝って、首へと流れていく。空になった桶が手の中でバキッと割れて、端が歪んだ。アレクはそっと桶を置いて、深呼吸しながら井戸に設置された汲み上げポンプの取っ手を押して、もう一度水を溜める。さっき割ったばかりの桶の端から水が溢れるほどいっぱいにして、桶を両手でつかむ。桶の水には、ぼんやりと頼りなさそうな男が情けない顔をしている。その自分の顔を消すために、アレクは桶を持ち上げて引っくり返した。冷たい水がやっと熱くなった頭に染みていく。


「朝から元気なのは結構なのですが、ここが公共の場であるということを忘れないでください。水の跳ね具合が尋常じゃないので、誰も周囲に近寄れていません」

「……おはよう、アーネスト」

「おはようございます、アレク。挨拶の前に、ずぶ濡れの僕に対して言うことはありませんか?」

「あぁ、ごめん」


 ようやく行水を止めたアレクに声をかけたのは、肩から上がびっしょりと濡れている探索者ギルド所長代理のアーネストだった。威圧感のあるアーネストの言葉にアレクが謝罪を口にすると、満足そうにうなずかれる。その背後を伺うと半径5メートルほどに濡れた地面、そしてさらにその外側にこっそりと隠れるように身を潜める町の住民たちがいた。警戒している様子は、何もアレクが水をとんでもない範囲に飛ばしていたからという理由だけではない。それは、アレクが持つ“ギフト”にも関連していた。

 気分の落ち込みと連動するようにがっくりと頭を落としたアレクの肩を、アーネストが幼馴染の気安さで叩く。


「それで、今日はどうしてこんな時間から水浴びを? いつもは地殻洞から戻ったときにするでしょう?」

「……水でも頭からかぶってこいと言われたから」

「ワメルトさんにですか? 何か物でも壊しましたか? 今度やったら、宿をまた追い出すと言われていませんでしたっけ?」

「まだ壊してない。壊しそうだったから、追い出されたんだ」


 宿屋カゲカケは、ワメルトという元探索者が営んでいる。表通りから裏道に入って奥まったところにひっそりと位置しており、客を泊めるかどうかを宿の主人が選んでいる少し気難しいところのある宿だった。アレクは泊まってもいいとされていたが、何度か物を壊しては叩き出されるということを繰り返している。そもそもアレクは本来であれば、宿に泊まる必要はなかった。


「アレクの家の床、いつ修復が完了するんでしたっけ? 1週間後?」

「2週間後。ほかの仕事が立て込んでるらしいから、俺の家の修復は後に回してもらった」


 既に年単位でこの町に腰を落ち着けているアレクは、自らのギフトの性質もあって、町はずれに小さな家を持っていた。数日前に自らの足で床を豪快に踏み抜いて家を傾かせてしまうまではそこで暮らしていた。自分のコントロールできない力で家を壊す事故は度々起こり、その度に宿屋カゲカケに泊まらせてもらっていた。そして、毎回宿の物を壊して弁償するはめになる。

 そんな宿生活を送っていたつい昨日、怪我人を背負って慌てて宿屋に戻ったところ、その怪我人がアレクと同じ宿屋に泊まっているとわかり、そのままワメルトに看病をお願いすることとなった。ぐらぐらと沸騰していた頭でも、怪我をさせた相手に謝らなければということは判断できたので、怪我人が起きてくるのを待っていたのだが夜が更けてもいっこうに起きてこない。よほど頭を強く打ったのかもしれないと不安になってきたアレクを蹴り飛ばして、ワメルトが他人の部屋の前に立つなと言わなければ部屋の前で一晩中待っていただろう。割り当てられた部屋のベッドの上でまんじりともせず仰向けになり、朝日が窓から差し込んだタイミングで宿のロビーに出て、階段近くで下りてこないだろうかとうろうろとしていたところ、またもワメルトに外で水でもかぶってこいと叩き出された。

 それで言われるがまま、まだギルドも開いていない早い時間から水をかぶるために広場まで来たのだった。そこで、アレクはギルド職員であるアーネストが背後にいることに気がついた。


「アーネストがここにいるってことは、もうすぐギルドが開く時間か?」

「そうですよ。……一体いつから水をかぶっていたんですか?」

「そうか。じゃ、そろそろ宿屋に戻る」

「それがいいです。冷静になったのなら、部屋に戻って温かいシャワーでも浴びてきてください。万が一でも風邪を引いたら困るでしょう」

「そうする。じゃあな」


 軽く手を振ると、濡れたままだった腕から水しぶきが飛ぶ。渋い顔をするアーネストに悪いと軽く頭を下げて、自分の今の仮の住まいへ戻っていった。アレクが去っていった背後では、やっと広場に入ることができた人々が賑わしい朝の空気をつくっていた。

 ぽつぽつの自分の歩いた跡を濡らしながら帰ったアレクが宿屋カゲカケに入ると、ちょうど奥にある食堂から出てきた宿の主人のワメルトに出くわした。ワメルトはぽたぽたと滴を落とし、床を濡らしてぼうっとしているアレクを見て露骨に顔をしかめられた。


「あなた、服の水を絞ってから宿に帰るっていう考えはないのかしら? この床、誰がどうすると思ってるの?」

「どうせ乾くし、着替えると思って。床のことは考えてなかった。……ところで、あの子って起きてきた?」

「起きてきて、食堂で朝食を食べているところよ。ちょっと! その濡れた格好で会いにいくつもりじゃないでしょうね!」

「駄目なのか……」

「女の子に会う格好としては、最低最悪ね! あと食堂の床まで濡らさないで! 自分の部屋へ行って、とっとと着替えてきなさい!」

「わかった」


 こういうときは人の助言に従ったほうがいいということを学んでいるアレクは、おとなしく自分の部屋へと向かう。着替えといっても、今着ているものと大して変わらない服しか持っていない。適当に着替えて、ついでに濡れた髪を軽くタオルで拭きとって、これでよしと今度こそ食堂に向かう。

 宿屋カゲカケの入口からカウンターを抜けて奥の部屋に食堂はある。数人で囲める大きいテーブルが2つと1人で席に着くための小さなテーブルが4つ。清潔なクロスがそれぞれのテーブルにかけられており、しわ一つなくぴんと広げられている。窓際には水を入れ替えたばかりの花瓶があり、窓からこぼれる朝の光を受けてみずみずしく清らかな花弁が開く。足元に敷かれた幾何学模様の敷物は店主が生地にまでこだわった逸品で、少し足がやわらかく沈む感覚はまだ起き抜けの夢心地をゆったりと包み込んでくれる感触となっていた。室内の照明にもこだわっており、窓からの光を入れた自然な空間をつくるために5段階以上に光の色を変えられる特注もの。一般的な探索者用の宿屋とは思えないほどの落ち着いた空間に整えられた食堂は、ワメルトのこだわりだった。

 壁際のテーブルの一つに、アレクが待っていた人物が座っているのを見つけた。足早に近づこうとして、ぬっと黒い影が立ちふさがる。それは本当に頭から足まで黒い人の形をした影だった。その手には水差しを持っている。これは、宿の主人ワメルトのギフトである“影ぼうし”であり、ワメルト自身の影を切り離して従業員として働かせている。

 影は大きく身体を曲げてアレクを観察したかと思うとやれやれというように首を振って去っていく。なんだと見送っていると、調理場から出てきた影の本体が影と同じようにアレクをまじまじと見て首を横に振った。


「……着替えてこいって言葉をそのまま聞くんじゃないわよ、お馬鹿さんなの?」

「あれは、着替えるなという意味だったのか?」

「女の子としゃべれるぐらいに身だしなみを整えてこいって意味よ、まったく」


 近づいてきたワメルトに小声で説教されるが、アレクはいまいちぴんと来ない。濡れた服で会うのが駄目だということはわかったが、服を着替える以上に何かすることがあっただろうかと考えても、頭の中からは何の選択肢も出てこない。服が悪いと言われてもこれしか持っていないし、今の時間では服屋もまだ開いていない。


「それとも、アーネストに何か服を借りにいったほうがいいのか? あいつなら、偉い人に会うための洒落た服を持っているだろうし」

「そこまでしろは言わないわよ。……適当に拭いてそのままにした髪をどうにかしなさい。櫛を使えなんてことは言わないから、せめて鏡の前で手で整えようとするぐらいの気持ちは持ってちょうだい」

「髪?」


 手で触れたところで、髪が湿っていることぐらいしかわからない。アレクが適当に自分の髪を指で引っ張るようにして伸ばしていると、目の前に食事を運ぶためのトレイをかざされる。殴られるのかと一瞬身構えたアレクだったが、眉間にしわを寄せたワメルトがよく磨かれたその銀の裏面を指さす。


「こんなのでも、ないよりましでしょ。ちゃんと自分の姿を見て整えてみなさい」

「あ、はい……」


 ぼんやりと銀のトレイの浮かぶ自分の姿と睨み合って、アレクは手を動かす。よく観察してみると、前髪が半分だけ逆立っており、耳の裏あたりの髪がぐるんと渦を巻いて飛び出している。とりあえずそこだけ直すと、及第点とばかりにワメルトから重々しくうなずかれる。

 それではとアレクが一人で座っている彼女のテーブルに向かおうとしたところで、ぱちりと目が合った。一人用のテーブル席で食事を取っていたシュトルだった。芽吹く大地の色が交じった白髪が乱れなく一つにまとめられ、ゆらりと肩の上辺りで揺れている。その額の上のほうで息づく手の平ほどの寄生花は、今は眠るように花弁を固く閉じていた。シュトルは引きつりよれている顔半分を隠すように、身体を少し斜めに傾けるようにしてひねって、色の違う両目でアレクを鋭く射抜いている。


「何か?」

「あ、元気になったか? 頭の調子は?」

「あなたに心配されるようなことなんにも。……用事はそれだけ?」

「君が怪我してたのは、俺のせいだから。とりあえず謝らないといけないと思って……その、ごめん」


 シュトルに近づこうとしたが、警戒するように左腕を身体の前に動かしたのを見て、距離を取ったままアレクは足を止めた。その場で頭下げて謝罪するが、それに対しては言葉もなく無反応を返される。遠くの朝の賑わいが響くほど静かな食堂の空気に耐えかねて、アレクはおそるおそる顔を上げる。さっきまでと変わらない体勢で、むしろ引きつれた顔半分が怒ったようにひくりと動いているように見えた。


「何か見返りを求めてるの?」

「見返り……あ、治療費はもちろん出す。そこら辺は全部ワメルトさんに、任せたけど」


 アレクがそう言いながら振り返ると、後ろで腕を組んで様子を見守っていたワメルトがひらひらと手を振る。


「私がしたのは強く打った部分を氷で冷やしたぐらいよ、治療費なんていらないわ。違和感があるならちゃんと医者にかかって。あ、一応治療行為は私の影に行わせたから。こんな感じでも見た目はおじさんだし、女性の肌に触れない気遣いはしたわ」

「それはどうも」


 治療をしたというワメルトにちらっと目礼をして、そしてまたシュトルの視線が素早くアレクへと戻っていく。まるで殻獣を前にして逃亡の隙をうかがっているような油断のなさだった。その片足は一歩分引いており、何か動きがあればすぐに走り出せるよう準備をしている。だが、そんなことまでアレクは気を回すことができなかった。わかっていることといえば、妹ではないらしい少女が自分に対して良い感情を持っていないということだった。 


「怪我が大したことがないならよかった。それで……」

「それで、私に何をやらせたいの? どういうつもりで助けたの?」

「どういうって言われると、俺が怪我をさせたから」

「地殻洞では、探索者の命は誰からも保証されない。毒で倒れて苦しもうと、殻獣に襲われて倒れようと、仲間内で殺し合おうと、地殻洞で起こったことは基本的に無視される。そんな場所で、油断していた私が怪我をしたところで、あなたが助ける意味なんてなかった。何でわざわざ助けたの? 回りくどいのはいいから、さっさと言って」

「何でって言われると……君が女の子だから助けたんだ」

「は?」


 シュトルの口から飛び出したたった一音で、アレクは両耳をかっと熱くさせて弁解しようとする。


「違う、悪い意味じゃない」

「悪い意味じゃないと言えば何でも通るわけじゃないから」


 どんどんと気分を下降させていくシュトルに対して、その空気を肌で感じながらどうにか挽回しようと意味のないことばかり口に出すアレク。食堂の空気はどんどん悪くなっていく。


「もう、いい? 私、昨日依頼をこなせなかったから、今日は早く準備を整えて地殻洞に潜りたいの」

「ま、待ってくれ。俺が言いたいのは、そういうことじゃなくて……」


 椅子から立ち上がって食堂から出ようとするシュトルに、アレクは焦って引き留めようとして、離れていこうとするその腕に手を伸ばす。後ろで不安ながらも黙って見守っていたワメルトが、間に入ろうとしてとっさに手に持っていた銀のトレイを持ち上げる。


 バキンと固いものが曲がる音がした。


 アレクはあっと声を漏らし、シュトルは驚いて足を止め、ワメルトは手の中の衝撃と無残に握りつぶされた銀トレイを呆然と見つめた。


「……ああぁっ、ごめん、ごめんなぁ。いつも迷惑かけるお兄ちゃんでごめんなぁ」


 そう言って嘆いたのは、愛用していた銀トレイを両手で抱えているワメルトではなく、握りつぶした張本人であるアレクだった。さっきまでぼそぼそと話していたのとは変わって、どこか酔ったような調子外れの口調で整えたはずの髪をがしがしとかく。それは、シュトルがギルドで初めてアレクと顔を会わせたときの雰囲気と似ていた。いつもの調子になったアレクに、銀トレイの無残な姿を悲しむ暇もないとワメルトはため息をついて自分の“影”を呼び寄せた。


「こうなっちゃったら、落ち着いて話なんてできるわけないわね。一旦、外に出すわ」

「まだぁ、話が終わってないぞぉ。無能なお兄ちゃんでもぉ、謝ることぐらい、しないと駄目なんだぁ」

「この子はあんたの妹じゃないわ。ほら、落ち着いて。いつもの薬はどこ?」

「ああぁ、そう。そうだそうだ、あの子も、今頃はこのぐらいに成長していると思うんだぁ」

「はいはい。それでいつもより気にしていたわけね。ところで薬は?」

「たぁくさん、成長しているだろうになぁ。俺はぁ、いつまでも成長がぁない兄ちゃんなんだぁ……」


 ワメルトの操る2つの影が両脇から無理やりずりずりと移動させようとするのを、ぶつぶつと斜め下を見ながらつぶやくアレクは気にするでもなく身を任せている。その横でさんざん薬のことを問われても、そのことについては少しも聞こえていない様子で自分の世界に入っていた。

 そんな奇妙な様子を少し離れた場所でシュトルが眺めていると、もう少しで食堂から出されるというところでアレクの指先が壁に引っかかった。そして、引きずり出されるのに抵抗しようとして、宿自体からぴしぴしと嫌な音が響き、ひいっとワメルトが悲鳴を上げる。しかし、アレクはシュトルを誰かに重ねて見ながら必死に訴える。


「お兄ちゃんが悪かったぁ! な、何か欲しいものでもぉあるかぁ? 今なら稼いでるから、何でも買ってあげられるぞぉ!」

「ちょっと! アレク! 手を離してちょうだい! 抵抗するな! 宿を壊したら、一生出禁にするからなっ!」


 明らかに正気じゃない様子にシュトルは、ここからどう逃げ出そうかと考え始めたが、食堂を出る通路はアレク本人がいて通れず、窓の外は別の建物があるだけの狭い隙間しかなく逃亡には向いていない。ちらちらとこちらに救いを求めるワメルトからの視線も突き刺さり、シュトルは仕方なく口を開いた。


「……怪我させられたお詫びに、グローブ買って。それで、あなたに助けられた恩も、かけられた迷惑もチャラにして」


 そう告げたところで、ぱっとアレクは壁に引っかけていた指を外した。その隙に両脇を抱えていた影は頭と足をもって身体を持ち上げ、さっさと宿から追い出そうと運搬していく。宿の入口からぽいっと外に放り出されたアレクはぐるんと地面を一回転して、地面に膝をついた。

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