入ってすぐは外からの光が差し込んでいるが、2歩、3歩と進めば、その先はぷつんと空間が切れたように闇だけがある。シュトルは自分の額の上で咲いている寄生花に手をかざした。


「光を」


 ぼうっと花びらの一枚いちまいが強く光を発する。自分が進むべき足元を確認して、慎重に地殻洞を下っていった。耳をそばだてると、自分の足音のほかに、ごうごうと奥深くから吹いてくる風に乗ってしゅうしゅうと何かの息遣いが聞こえてくる。

 事前にギルドから提供された地殻洞の地図は確認していたが、内部の細かい道のりは示されていなかった。どの階層にどんな危険植物や生物が生息しているかということぐらいで、実際の地形については大雑把な説明があるのみだった。なぜなら地殻洞はあまりにも広く、そして目印になりそうなものがほとんどない。地図にはおおよその距離や広さ、その場所の特性が描かれているのみだ。

 シュトルがぐるりと首を回して周囲の地形を確認すると、天井からだらんと垂れ下がるように岩の柱が何本も伸びていて地形が把握しにくい。分かれ道になっているのか、それとも進んだ先がつながっているのかもわかりづらく、光源があったとしても道の先が見通しにくい。この石柱の林を抜けるのは相当時間がかかりそうだった。


「たしか、依頼のオドリグサは第3階層にあるっていう話だったから……」


 地殻洞の構造は場所によって様々ではあるが、何かを区分けするようにはっきりと階層が分かれているのはどれも共通している。だから、地殻洞を潜っていくには階層を下りるための降下口を見つけなければいけない。地図で確認したところ、この階層で発見されている降下口は複数箇所あるが、入口に近いものは3つだ。

 石の柱に手をつきながら、耳をすまして風の音が聞こえるほうへとシュトルは足を進める。自分の足音に邪魔されないように、滑らせるように足を進ませ、風の音に導かれながら進んでいたせいか手元への注意が散漫になっていたシュトルは石柱についた手がずるりと吸い込まれて、やっと気がついた。


「……食べないでくれる? 手を突っ込んだ私も悪かったけど」


 石柱にべったりと体を張りつかせていたのは、地殻洞に棲みつく軟体の殻獣――ガランポッドだった。この地殻洞の固有種なのか、シュトルが知っているのと少し形が違う。ぶよぶよと指で軽く押すだけで変形するその背中には、硝子を粉々に砕いたみたいな歯をびっしりと生やした大口がある。その口に無防備にも手を押しつけてしまい、ガランポッドが捕食されようと引きずり込んでくる。無理やり手を引くと案外簡単に解放されるが、グローブをつけた手にはねっちょりと糸を引く粘液がついている。シュトルがわずかに顔を近づけて臭いをかぎ、すぐに手を遠ざける。


「毒ではあるけど……強い酸とかじゃなく麻痺とかかな。ちょっと気を抜き過ぎた」


 ふっと一度大きく息をつくと、シュトルは慎重に自分の動かす手、肩、足、頭、それぞれの動きとその先に何があるかを注意深く観察してじりじりと進んでいく。風の吹き上がる音がどんどん近くなる。ゆっくりとシュトルが頭をかがめたところで、光の照らす先に下へと続く穴を発見した。それと同時に、その傍らに存在する殻獣の存在にも気づくことになる。大きさはシュトルの胸元あたり、大きな子どもぐらいの大きさはある。吹き上げる風にゆらゆらと尻尾を垂らして、揺らされるのを楽しんでいるようだった。寝心地の悪そうな地殻洞の凹凸のある地面の上で、まるで二つの腕を組んで枕にしている寝そべる姿は人間のようだ。頭はつるっとゆで卵のてっぺんをちょっとだけ上からぐしゃっと押しつぶしたみたいに崩れていており、目や口を確認できない。シュトルの知識にはない殻獣だった。今すぐに暴れるといった様子ではなさそうだった。迂回するかどうか一瞬悩んで、このままいくとシュトルは決める。想像より探索難度の高い初見の地殻洞は、長居するより最短で進むほうがいいと判断した。

 シュトルは武器を手に取ることもなく、ただ静かに穴と地殻獣に近づいた。穴は随分と深そうだった。以前の探索者たちが降りていったであろう下へ続く縄梯子があったが、それをそのまま使うほど無警戒ではいられない。腰のベルトに取り付けているロープの先を引っ張ったシュトルは、ベルトの留め金部分とローブがしっかり固定されているのを確認すると、自分の首の後ろにロープの先に差し入れる。ぼこんと首に根を張っている植物が脈動したのを確認して、シュトルはロープの先を今度は地面に投げ捨てて、靴の先で数回踏みつけてすぐに離す。ぷらぷらと踏んだほうの足を浮かせて待つこと数十秒、シュトルはローブの先につけたとりもち状の粘液が接着したことを確認するためにローブを強く引っ張った。問題がないことを確認して、シュトルはもう一度頭の中で情報を整理する。

 一番近くの穴から降りた場合、その先は飛翔する昆虫型の殻獣、バラスが大量にいる巣に着く。その殻獣の鱗粉は、触れた途端に皮膚に炎症を起こす種類の毒を持つ。人間の捕食はしないが、一匹でも攻撃をすれば集団で襲ってきて厄介なのですぐに通り抜けるのがよい。

 額につけていた防塵ゴーグルをずらしながら、穴のすぐ傍でまどろんでいる殻獣に近づく。シュトルが近づいても気にはしていないようだった。あくまでも殻獣と対峙する姿勢のまま、シュトルは穴へと身体を滑らせて、ロープを使って身体を下ろしていこうとしたところ、寝ていたはずの殻獣が身じろぎしたかと思うと、くしゃみのようにばふんっと息を吐いた。シュトルの顔に息がかかって、前髪が浮いた。恐らくその吐息にも毒が含まれているが、シュトルには意味をなさない。

 未知の殻獣に攻撃の意思はなかったようで、くしゃみでずれてしまった頭の位置をもぞもぞ動かして、寝やすい位置を探っている。こちらに向かって来ないことを確認すると、シュトルはロープを使って自分の身体を下層へと降ろしていった。

 身体を下へと降ろしているうちに風の音に交じって、羽音のようなものが聞こえてくる。十や二十どころか、百でも千でも足りないかもしれないほどの、叩きつけるような羽音。とっさにシュトルは自分の額の上で道を照らしてくれている寄生花に声をかける。


「食べたら、駄目だからね」


 しゅうっと鳴く寄生花は、それでも花弁の奥の小さな歯を噛みならして残念そうだった。その惜しいと嘆く音が止むのを待ってから、さらに下っていく。下るにつれて羽音は耳の近くをかすめ、腕や足にばちばちと何かがぶつかっていく。ロープをつかんでいる手の上にぶんと飛んできた2、3匹のバラスが節くれて細い産毛の生えた足でとまった。グローブ越しではあるものの見ていていい気分はしない。それからうっすら視線を反らしつつ、滑るようにして降りていく。

 とんと足を下ろしたシュトルは、砂嵐のように視界を遮りながらばたばたざわめくバラスの群れを腕で振り払いながら壁際へと進む。壁に手をついて、進む方向を定めようと、自分の光源を揺らしながら周囲を確認する。そのうちに、遠くのほうの壁に爛々と暗闇に光るものを発見した。ぱちりと明滅し、こちらを貫くその光は、生きているものの眼のようだった。シュトルは、それがいるのとは逆方向に足を進める。そうやって遠ざかっていく途中で、見える範囲に収めていたはずの眼の光が消える、と同時に頭上にぼっと何かが飛び出してきた。急に現れた白い毛糸玉のようなそれは、忙しなく宙を泳いでいたバラスたちをからめとって地面にずしんと降ってくる。よく見れば、その白いものは毛玉ではなく泡を吐いている殻獣だった。ぶくぶくと中心から湧いてくるように泡立ち、どんどん膨らんでバラスたちを巻き込んでいった。パニックになったように動きに激しさが増すバラスの群れは、バチバチとそれこそ羽をハンマーのように打ち鳴らしている。壁に身を寄せていたシュトルの頬をバラスが掠めて飛んでいったかと思うと、頬がひりひりと痛む。指で確認するとぱっくりと切れているようだった。


 警戒するために後ろ向きで進んでいたシュトルは体の向きを変え、壁に手を滑らせながら、走ってその場から離れることを選んだ。警告音のように響く音を引き寄せられるのか、奥から次々とバラスがやってくる。肩にばちんとぶつかってきた衝撃に二、三歩後ろにたたらを踏んだが、何とか踏ん張りつつ天井の低い横道へとシュトルは逃げ込んだ。遠くのほうから響いてくるバラスたちの羽音に耳を澄ませつつ、腕をぐるりと回す。わずかな痛みはありつつも動きには支障がないようだった。


「……ちょっと、あまく見ていたかも」


 シュトルはため息をついた。今まで、B級までの地殻洞になら潜ったことがあり、経験もそれなりにある。A級の実力はまだないという自覚はあるものの、自分の“ギフト”であれば、この地殻洞でもやっていけるのだと信じてここまでやってきた。

 ぐっぱぐっぱと手を開いて閉じてを繰り返していると、グローブの隙間からしゅるしゅると緑の蔦が伸びてシュトルの鼻先を突いた。引きつっている半分の頬がぎゅっと内側から引っ張られ、頭上の花の光が明滅し、首の後ろがじくりと痛んだ。自らの身体に寄生する植物たちの訴えにうんとシュトルはうなずく。


「大丈夫。私の“ギフト”さえあれば、ここでだって生き延びていける」


 シュトルのギフトは、植物を操るものだと勘違いされることもあったが、実際は“自律”という、あらゆる状態異常も無効にできるものである。毒も効かないため、『孤毒の地殻洞』を潜るには最適ともいえる能力だった。しかし、シュトルには殻獣が徘徊する地殻洞を潜るのに必要な戦闘能力というものが足りなかった。本来であれば、チームを組まなければB級すらまともに渡り歩けない。それをどうにかしていたのが、シュトルの身体に植え付けた寄生植物たちだった。“ギフト”を使って、支配権を奪われないようにしながら身体の半分以上寄生植物に明け渡した結果、動物や魔獣を含め殻獣はシュトルを植物であるという認識をするようになった。ただし、見えなくなるわけでも、いなくなるわけでもないので、ぶつかったり、踏みつぶされそうになったり、気まぐれに引っかかれそうになるということは多々あった。それでもうまくやってこれていたわけだが、バラスという比較的小型の殻獣に軽くぶつかるだけでもシュトルは吹き飛ばされそうになった。A級の殻獣の強さの桁が違うとなると、一人での探索は無理ではないかという思考に傾きかける。口の中で、大嫌いな薄いスープの味がしたような気がした。


「……一人で生きていかなきゃ。誰の助けもいらないんだから。それに、まったくの一人というわけでもないし」


 いまだにしゅるしゅると伸び縮みをしている自身の蔦に戻るように指示して、シュトルは弱気になりかけていた気分を振り払うように頭も振り、そしてまた探索のために進み始めた。

 シュトルが逃げ込んだ横道はどんどんと横幅が狭くなっていくようだった。身体を斜めにしながら進んでいくと、遠くでパシッと何かが打ちつけられる音が響いた。規則的に響く音と怒鳴るような声、それから石と石がぶつかり合うような固い音で、進行方向に人がいることがわかった。前に進むのはやめて引き返そうかと思ったが、この勢いだと戻っても一本道の途中でかち合ってしまいそうだった。

 ここで正面から迎えたほうがいいかと足を止めていると、前方からカッカッカという音とともに小さな影がやってきたことに気づいた。逃げるように地面を力強く蹴りながら駆けてきた四足歩行の殻獣は、進行方向の障害物であるシュトルに唸り、飛び越えようと突進してくる。とっさの判断に迷ったシュトルよりも先に、蔦が伸びてその殻獣の身体に巻き付いて拘束した。じたばたと小さな手足を暴れさせながら逃れようとするのは、ポトカーウという馬に似た形の猫ほどの大きさの生き物だった。この地特有の固有種なのか、たてがみにいばらのような棘がついている。そして、それと同時に人間たちの複数の足音とともに闇の中に現れた光が近づいてくる。


「待ちやがれっ! ここまでやって、逃がすわけには――……んだてめぇ」


 やってきたのは、当然シュトルと同じ探索者たちだった。だが、毒対策に防塵マスクやゴーグルという完全防備をしているため、誰かという判断がろくにできない。顔がわかったとしても、来てばかりのシュトルに探索者の見分けがつくわけがない。ただ、この場で唯一軽装であったシュトルに対する相手は違うようだった。先頭になって追いかけていた男が、シュトルと蔦に捕らわれているポトカーウを見比べ、手に持っていた鞭をぱしんと床に打ち鳴らした。どうやらゴーグル越しにこちらを睨んでいるようだった。その背後にいる丸刈りと長髪の男も攻撃的な雰囲気を出している。


「おいおいおい。獲物の横取りは探索者として、マナー違反じゃねぇのか?」

「出会いがしらに喧嘩口調なのは、人としてマナー違反だと思うんだけど」

「その糞生意気な口は閉じることはできねぇのか?」


 ひどく苛立った口調でこちらを威圧するように上から見下ろしてくる男。こちらを知ったような素振りとその手に持っている鞭などから、顔の見えない男がギルドで言い争った男であるということに思い至ったが、特に言及することなくシュトルは拘束していたポトカーウを自分の手元に引き寄せた。


「おいっ! それは俺らの獲物だって言ってんだろ!」

「そんなに探索者のマナーとやらを気にするなんて、随分とお行儀がいいみたいだね?」


 腕に根付いている蔦の一部がぎゅっと引きつれるほど暴れるポトカーウに、シュトルは右手首から白い糸のような細い蔓を伸ばして指に巻き付けて、そのままその先をポトカーウの鼻先で揺らした。固い蹄を振り回して暴れていたポトカーウは、がくがくっと身体を痙攣させたかと思うと、ぱたっと脱力して口の端からよだれを垂らした。意識を強制的に失わせたポトカーウを蔦から引き取って腕の中で抱きしめて、こちらを警戒するように見つめている探索者たちを見つめる。


「あなたたちが受けている依頼っていうのは、ポトカーウの蹄の採取? ポトカーウはそこまで強くないけど、逃げ足は速いからなかなか難しい依頼だったかな」

「……地上での探索者同士の争いはギルドに止められるが、地殻洞での探索者の命は誰にも保証されない。それがわかってて、俺らに喧嘩売ってるんだよなぁっ!」


 ビシッと鞭が振るわれて、後ろにいるチームの仲間らしき2人も武器を抜き、シュトルへの攻撃の意思を示している。多勢に無勢ではあるが、狭い道であるために一斉にかかってこられるということはない。むしろ図体のでかい男たちと比べて、小柄なシュトルや小回りの利く寄生植物のほうが有利という面もある。もちろん明確な敵対をするつもりはなかった。ただ、二度と自分に近づかないようにしてやろうと思っただけで。


「喧嘩なんてするつもりなかったんだけど、誤解させた? そんなに苦労しているんだから、同じ探索者として施すのも当然のことだよ。はい、どうぞ」


 植物の蔦を伸ばしたまま、シュトルは自分の腕の中のポトカーウを差し出した。しかし、差し出された側の男たちは黙ったまま、むしろその腕を避けるように一歩下がった。その姿を見たシュトルは、口元を笑みの形にしながらわざとらしくて左手のグローブを外した。その指の先、爪の先にまで幾重にも巻きつき、身の内側に這っている植物の根が、ほっそりとした少女の手を覆っている。息をするように脈動する緑の血管は遠目からでもわかるだろう。額の上の寄生花も光を明滅させながら、花弁を軽く震わせている。さらに男たちが一歩後ろに足を引く。


「どうしたの? 欲しいほしいと言ったくせに受け取らないの? ほら?」


 ひゅっと数度うなった鞭が、シュトルの差し出した腕の中のポトカーウに巻きつき、そのまま男の腕の中に乱暴に移された。ポトカーウに巻きつく前に、シュトルの脇や首近くをかすめていったが、蔦が全て受け止めたおかげで肌に打たれることはなかった。その代わり、蔦を無理やり引っ張られるような痛みで肌が引きつったが表情には出さない。

 鞭の男は手に入れたポトカーウを後ろに立っていたチームの一人に乱暴に放り投げると、薄っすら笑みを浮かべたままのシュトルに舌打ちする。


「あんま舐めんじゃねぇぞ。お前をここで這いつくばらせて、モップみたいに引きずりまわしてやってもいいんだ」

「地殻洞でまでお掃除したがるなんて、やっぱりお行儀がいい探索者なの? そもそも、あなたの言うとおりにしたつもりだけど。馬鹿にしたように思われるなんて、とっても心外」

「洞窟でぴーぴーさえずる小鳥は、一番最初に静かになるもんだぞ。俺が黙らせてやろうか?」


 ピシッと鞭がしなって鋭くうなる音が響いた。その残響が細長い道を遠くまで反響して消えるまで、お互いに黙ったまま睨み合う。

 最初に動いたのは男だった。鞭を腰のベルトに戻すと、後ろに控えている男たちに手で合図を出して引き返すように指示した。そして、顎を引き上げてシュトルを見下ろした。


「ここは引いてやる。……ここでお前を相手にしてやるほど、こっちも暇じゃない」

「それはどうも。私も暇じゃないから助かったわ」

「――俺は、舐められるのが一番我慢ならねぇ。馬鹿にした奴は一生忘れねぇ。いつか、そのふざけた顔を俺が雑巾にしてやる」

「あなた、本当に掃除好きみたいだね。でも、私も侮られるのが一番嫌い。お互いさまなんて、最悪だけど」


 ゴーグル越しの見えない目元で睨むようにしながら距離を取っていき、手の届かない範囲まで来たところで男はさっと背中を向けて荒々しく離れていった。

 その後ろ姿を見送っても、シュトルはしばらく動かなかった。つんと左腕から伸びた蔦が前髪を撫でたところで、やっと笑顔で固まっていた顔を崩して息をつく。むき出しにしたままの自分の腕を眺めて、だらりと下げた。


「やけになっている場合じゃない。……あんなくだらない言い争いして、殺されたら本当に笑えない」


 平静を装ってやり取りはしていたが、実際は弱気になる自分を無視したくて無理やり強気になっていただけだ。一歩間違えれば自殺行為。一人でも生きていけると証明するなら、冷静にならなければいけない。ぱしんと自分で自分の左頬を叩いて、シュトルはもう一度自分の左手を眺めて、ぎゅっと握りこぶしをつくった。


「そろそろ、あいつらも行ったかな……」

 この一本道で、シュトルとさっきの男たちの向かう先は同じだ。いまさら引き返す気にもならない。

 自分で外した左手のグローブをはめ直そうとしたところで、どんと地面が揺れた。持っていたグローブの片方を落としたが、シュトルは拾うことなくその場で片膝を立てて壁に手をついて身体を支えながら、揺れの発生源が何かを探る。数度連続して地面が揺れる衝撃が響き、ぱらぱらと上から小石が降ってくる。少しの間が過ぎて、進もうと思っていた前方から響く揺れが壁から手の平に伝わってくる。その場から跳ねるように立ち上がったところで、目の前の闇が形になったような殻獣の大きな口が現れた。

 狭い道に無理やり潜り込んでつぶれた顔は、それだけでシュトルの半分ほどある。ぬるりと粘液を滴らせる長い胴体をくねらせながら、大波のようにシュトルを呑み込もうと押し寄せてくる。幾ら植物扱いとして認識されるといっても、このままじっとしていれば当然圧し潰される。しかし、後ろに走って逃げてもこの殻獣の突進してくるスピードには勝てない。迫る巨体の殻獣をじっと見つめて、どこかに生き残る道筋はないかとシュトルが目を凝らしていると、こちらに向かっていたはずの殻獣がまるで誰かに後ろに引っ張られたように大きく身体をのけぞらせて、ずんっと頭をシュトルのすぐ鼻先に落とした。大きな口からはみ出した二又の舌がぞろりとシュトルのブーツを舐める。


 きぃゃあああっ!


 頭を揺らして鳴いた殻獣は、何かから逃げようと大きく胴体を波打たせて、シュトルの頭上を飛び越えて上へと逃げようとする。完全に殻獣の頭の下に位置する形になり、ドクっとシュトルの心臓は嫌な音を立てた。さっきと同じ勢いで頭が落ちてくれば、シュトルはぺっちゃんこになる。

 殻獣と壁の隙間が目に入ったシュトルは、無理やりそこに身体を割り込ませる。岩壁を足で蹴って体を持ち上げ、波打つ胴体の上に飛び乗った。びしゃりと飛び散るほど染み出している殻獣の粘液はねばりが強く、足を持ち上げようとするとねっとりと糸を引いて動きを引き留めようとする。動きづらいことこの上ないが、滑ることはないために胴体の上から簡単に転げ落ちるということはなさそうだった。足を持ち上げるようにして、シュトルは殻獣の頭と反対の方向へと進む。

 もう足は止められない。だが、これが正解だとも言えない。この巨大な殻獣が逃げ出すほどの何かがこの先にある。さっきの探索者の男たちが意趣返しにこの殻獣を送ってきたのかとシュトルはちらりと考えたが、これを御せるほどの実力があるとは思えない。だとすれば、この先には何がいるのか。


 ふわっと足元が浮いた――のはシュトルの気のせいではなかった。シュトルが踏んでいた殻獣の胴体ごと浮いていた。持ち上げられた胴体は、何かの力によって手繰り寄せられ、その力によってシュトルも身体が宙に浮いて強く引き寄せられる。崩れた姿勢を整えることもできないまま、左右から挟むようにあった岩壁が急に消えて開けた場所へとシュトルは放り出された。

 そこで目が合ったのは、凶悪な何かでも、おぞましい何かでも、目を背けたくなる何かでもない、一人のひょろりと細長い男だった。

 その男の手には、殻獣の尾を両手で握って肩に持ち上げていた。シュトルが確認できたのはそこまでだった。すぐそこに迫っている岩の地面から身を守るために、シュトルは両腕で頭を抱えるようにして、くるりと身体を曲げる。地面に叩きつけられる衝撃とともに、勢いが止まらない身体が壁に叩きつけられるのを、身体から伸びた蔦が緩衝材となって助けた。


「……ひと? 俺が引っ張ったのは人だったかぁ? いや、俺のつかんでいるの尾だよなぁ。人に尾っぽはないもんだ」


 ぶつぶつと男が呟きながら、虚ろな瞳で何を見ることもなくぼうっと突っ立っている。どこから見ても無防備で隙だらけのその姿を、地面に転がったままシュトルが見上げていると、狭い隙間から無理やり引きずり出され、大きくしなった殻獣の頭が男を上から岩をも砕く勢いで飛びかかった。

 しかし、男はぼんやりと立ったままだった。立ったまま片腕を何気ない様子でぶんと振り殻獣の横面を殴りつけて地面に叩きつけた。地に伏した殻獣は頭を震わせ、逃げようともがいているのか胴体をばたばたと跳ねさせるが、男が尾を抱えたままであるためそれは叶わなかった。抵抗して全身をくねらせて暴れるその胴体がシュトルの顔の上に影をつくった。


 ひきぃゃあああああっ!


 断末魔がこだました。いつのまにか背中の斧を手にしていた男は、自分の得物を殻獣の頭に軽く振り下ろしただけで両断していた。それでもなお暴れる胴体を、血で濡れた斧を持ち上げたその勢いで裂いてしまう。撒き散らされた血が、シュトルの目の前にまで流れてくる。


「……あ。粘液は、生きている間じゃないと採取できないんだったよなぁ。殺したら、駄目だった。駄目だったよなぁ。また、間違えた。間違ってばっかりのお兄ちゃんでごめんなぁ」


 がつんと斧を地面に置いた男は、血だまりの中で独り言をつぶやきながら上着の内側から酒瓶を取り出して中身をぐっと飲み干した。そこでやっとシュトルは、そこにいるのがギルドの職員にアレクと呼ばれていた妙な男だとわかった。ろくな防具もつけていないその顔がはっきりとわかったからだった。

 ずっとを止めていた息をシュトルがはっと吐き出す。それに反応したのか、ふらふらと視線を何もない宙でさまよわせていたアレクが不意に身体を動かした。彼の腰のベルトに留められていたモエン草が光るカンテラが揺れて、壁に映った大きな影が同時にゆらりと大きく身じろぎする。そして、腰を地面につけたまま動けずにいたシュトルの前に立った。


「だ、大丈夫かぁ? ごめん、ごめんなぁ」

「え。いや、あの……」


 謝罪の言葉をぶつぶつと誰にというわけでもなくつぶやきながら、アレクは手を伸ばしてシュトルの左手を取った。グローブもつけていない無防備な手が握られて、久々に触れた他人の燃えるような熱さに、シュトルは強い力でねじられたような痛みを感じた。


「あ」


 その瞬間に世界が引っくり返った。比喩ではなく、そのままの意味で。間抜けに漏れたアレクの声がシュトルの頭の上から聞こえる。立ち上がらせようとして力加減を間違えたのか、シュトルの身体ごとぐるんと持ち上げられて一回転して、足が天を下にしていた。つるりと滑った手が離れて、シュトルはそのまま投げ飛ばされそうになる。伸ばされたままシュトルの左手を、逆さまに立つアレクがつかもうと腕を伸ばす。届くというその寸前に、ぐっと身を引いたシュトルはそのまま勢いよく壁に向かって放り出され――そのまま意識は闇の中へと消えていった。


 こうして、新たに町にやってきた探索者の挑戦の一歩目は失敗に終わった。


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