3
アレクは逃げ出してきたハタグソクロウの処理を黙々とこなしていた。逃げようと羽ばたく姿目掛けて足元の土を握って丸めたものを投げている。石だと間違って人に当たった場合、大事故になるからだ。
「小さい頃も、こうやって泥遊びしたよなぁ。……あのときはぁ、2人とも服が泥だらけになったよなぁ」
誰にも聞こえない独り言を呟きながら、アレクはがちがちに固めた泥団子でハタグソクロウを打ち落とした。砕け散った泥と一緒になって地面に落ちたそれらを、歩くように踏みつけて絶命させる。ほかと比べて淡々とした作業のような動きだが、それが逆に異様さを引き立てていた。
「かっこいいなぁ!」
大道芸を観賞する子供のように声を上げるグゼの手元では、持っているペンがぐりぐりと動いて、紙の上を走らせている。
どうせわからないと思いつつもシュトルが紙をちらりと確認すると、そこには目の前にある光景をそのまま切り取ったような絵があった。思わずシュトルがじっと見てしまうのにも気づかず、グゼは目はアレクを追いつつも、手を別の生き物のように動かし続けた。黒いインクの線が形を描いていき、紙の上に腕を振りかぶるアレクの姿を浮かばせる。実際に動いているアレクと紙に描かれたものを見比べて、シュトルは首をかしげた。
「なんか、実物よりもいいように見える」
こんなふうに見えているのだとしたら、かっこいいと思うのかもしれないとシュトルは結論をつける。しかし、その言葉を聞いたグゼは止まることのなかったペンを操る手を静止させて、手元の紙と向こうに立っている後ろ姿を何度も繰り返し確認し始めた。そして、いやいやと紙をシュトルに見せつけようとする。
「そんなことありませんよ! 自分は見たままを描くのが得意なので、これはアレクさんそのものです!」
「そうなんだったら、別にそれでもいいけど」
「そうなんですともっ!」
単純にそう思っただけで、別にどちらでもよかったシュトルは適当に同調する。力強く肯定したグゼは、興奮のままに、アレクをもっとよく見ようとまた一歩近づいた。
もうほとんどハタグソクロウも狩られているし、危険もなさそうだしいいかとその動きを止めなかったシュトルは、しかしブブウオオオオンッと吠える声に耳を打たれた。咄嗟に弓を構えつつ、無防備なままのグゼの前に出る。
誰かが声を張り上げた。
「助けてくれぇっ!」
初めに駆け込んできたのは、今回の騒動の原因であるあの丸刈りと長髪の2人組だった。汗でべったりと濡れて、肩で息をしながら、恐怖で顔を歪ませている。走り続けて力が入らなくなったのか、それとも集まっている探索者たちの顔を見て安心したのか、2人は必死に動かしていた足を緩めた。
そこで、またブウウウオオッと唸る声が響いた。振り返った2人はひいっと細く息を呑んで、こちら側へと手を伸ばした。
「め、メグイノコシだっ!」
姿を現したのは、大型魔獣のメグイノコシだった。黒々とした丸い瞳は顔に対して大き過ぎるせいで、少し視線をぎょろっと動かすだけで見ている人間に不安感を与える。眉間の横から生えた2つの牙は鋭く光っており、横に頭を振れば人間の身体は真っ二つになることが予想できる。血の味と臭いを好み、旅人を幾人も葬ってきた凶悪な魔獣だった。
その巨体を震わせたかと思うと、また雄叫びを上げる。多くのハタグソクロウから流れた強い血臭によって荒く息を吐いて興奮した魔獣は、自らも新たに血を増やしてやろうというやる気に溢れていた。その対象は、魔獣から見ればちっぽけな存在である人間たちだった。
多くの探索者が集まっているため、ただ圧倒的な力で弄ばれるということはないが、厳しい戦いを余儀なくされるだろう……本来であれば。探索者たちの空気に緊張の糸は張っていたが、どことなく余裕があった。
なぜなら、メグイノコシから一番近い距離にいるのがアレクだったからだ。
警戒していたシュトルもふうっと息を吐いて、手の中の弓を一旦下ろした。振り返ると、突然の凶悪な魔獣の出現に、グゼがガチガチと歯を鳴らしていた。
「あなた、危ないから下がったほうがいいよ。……一人で動ける?」
「え、あ、ええっ、ああ……」
「無理そうか」
恐怖に震えているグゼは、シュトルの声にもうまく反応できていないようだった。恐怖の根元から目が離せないといった様子だったが、それでも無意識に血の気が引いた冷たくなった指先でペンを動かしている。
そこでもう一度、メグイノコシの声が響いた。しかし、先ほどと様子が違う。顔を戻すと、そこには2つある牙のうちの一つを素手でつかんで、引っこ抜いているアレクの姿があった。自らが強者である証を奪われて、メグイノコシは怒り狂って上体を起こした。そのまま足元の人間を踏み潰そうとするが、狂ったアレクに敵うはずもなかった。
アレクは引き抜いた牙をそのまま軽く振りかぶって、上体が浮いているメグイノコシを突いた。鋼のような剛毛に覆われた身体に突き刺さり、そのまま巨体が横に倒れる。どすんとシュトルの立っている場所にまで振動が伝わった。
「問題なく倒せそうだけど、ここにいたら何が飛んでくるかわからないな。探索者たちの集まってるほうに、行ったほうがいい」
「え、あ、はい……」
シュトルがもう一度声をかけると、グゼはまだぼうっとしているようだったが、身体の震えは収まっていた。早く行くようにしっしっと手を払うと、雲の上を歩いているような足取りでグゼは探索者たちのほう向かっていく。その背中を追いかけようとして、シュトルは立ち止まった。
アレクは何の気負いもなくメグイノコシの前に立っていた。冠の殻獣に比べれば、凶悪といってもあの程度の魔獣はどうということはないだろう。倒れたメグイノコシは、目の前にいる人間が自分に死をもたらすことを悟ったのか、しかし最期の抵抗をしようと暴れていた。それすらも軽くあしらって、最後に一つ残った牙も拳で砕いている。
誰かが手を貸す必要もない。むしろ邪魔になるだろうと探索者たちは遠巻きにそれを見守っている。たった一人で戦うアレクが、随分と遠いとシュトルは感じた。
大斧を手に取ったアレクに、すっかり力を失くしたメグイノコシが大きな頭で地面をこすって、不気味な瞳で呪うように血で濡れた狂った人間を見つめていた。もうあとはその一振りで終わる。だから、シュトルがその一人の背中に近づくことは何の役に立つこともなかった。ただ、最後ぐらいは近くにいてもいいだろうと思いついただけだった。
「え……」
振り下ろした瞬間に、気配に気づいたアレクがシュトルのほうに首だけ振り返った。ここにあるものを映していなかった目が、シュトルを捉える。
ドカンッという音とともにメグイノコシの身体が破裂したようにシュトルには見えた。獣の臭いに包まれ、全身に血が降りかかる。力を入れすぎた大斧の先が溶けたようにひしゃげており、勢いよく弾け飛んだ刃の部分が放物線を描いていった。ぎゃあっと後ろで見物していた探索者たちが叫ぶ。一人の頭の横すれすれを掠めていったからだ。
大斧の柄から手を外したアレクは、間近で大量に浴びたどろどろの血を滴らせながら、ふらふらと頭を揺らした。
「ご、ごごめんなぁ。おお前がいるってわすれてえ、兄ちゃん、力加減をぉ間違えたんだぁ……け、けがはないかぁ?」
「これは全部、あなたのせいだけど、返り血だから怪我はないよ」
頭の上から垂れてくる血を何度も腕で拭いながら、シュトルはついさっきの自分の気まぐれを後悔した。洗ってもこの血の汚れはなかなかとれないだろう。これが全部ジャムだったとしたらと考えて、それでも嫌だなとシュトルは頭を振る。
「ご、ごめん、ごめんなぁ……」
ぶつぶつと謝り続けるアレクが一歩近づこうとする。それを、無惨に殺されたメグイノコシの怨念、もしくはぶちまけられて足に引っかかった臓物が引き止めた。それすらもぶちぶちっと狂気じみた力で引きちぎっていく。しかし、大量に地面に流れる血が諦めることなく足にまとわりついて、アレクはずべっと滑った。
「あ」
ばしゃんっと血の海の中にアレクは沈んだ。余すことなく血が全身を染め上げて、このまま歩けば殺人鬼どころか、怪物と間違われるだろう姿になっていた。
アレクは、傷一つつかなかった赤い手で顔を覆った。太陽から自分の顔を隠して、何かに耐えるように手をぎゅっと握っている。
「だ、駄目なお兄ちゃんでごめん、ごめんなあぁ」
狂いながら血の中でばたばたと足を揺らす男を見下ろして、シュトルは口を開きかけて、舌の上の鉄臭い味に顔をしかめ、しかし決心して呼んだ。
「……アレク」
たかが一人の名前を、呼ぶためにシュトルはぎゅっと心臓を服の上から両手で押さえつけた。幸いというわけでもないが、顔を汚している血のおかげで顔色は誰にもわからない。
返事がない。しんとした空気に耐えきれず、シュトルがなかったことにしようかと考え始めた頃に、倒れていたアレクの腕が動いた。手の下からアレクの目が覗いて、名前を呼んだ相手を探し当てた。
「は、あい……」
やっと返ってきた声に、シュトルは誤魔化すように強い口調になった。
「手、出してっ」
「え、えぇっと」
「両腕を、空に向かって真っ直ぐ伸ばしてっ」
「わ、わかったぁ」
アレクはきっと言うとおりにしてくれるだろうという確信を持って、シュトルは指示した。思ったとおり、アレクは言われたとおりに両腕を持ち上げて、空へと伸ばした。シュトルはふうっと深呼吸をして、思い切りをつけてその両手を自分の手でつかんだ。
触れた瞬間に、硬直する。
傷つけないように、アレクは息を止めた。シュトルは両手を強く握って引っ張る。その力の流れに逆らわないように、機械仕掛けの人形のようにかくかくとアレクは引っ張られる。そうやって立ち上がったアレクを見て、そろりとシュトルは手を離した。
「終わったのなら、ギルドに戻ろう。私だって、早く帰りたい」
「そ、そうかぁ。帰ろうか」
アレクの髪の先からはぼたぼたと血の滴が垂れている。さすがにそのまま帰ったら、道行く人に叫ばれそうだし、宿の主人であるワメルトは怒りで卒倒しそうだった。
何か拭くものがあればと探そうとしたところで、シュトルは視線が刺さっていると気がついた。一定の距離を保っていた探索者たちが、狂ったアレクに近づける存在が本当にいたのかと興味深そうにしていた。その中には、星を目に落としたようにきらきら輝かせながら、がりがりペンを動かしているグゼの姿もある。
「まぁ、これで緊急依頼は、イレギュラーはありつつも達成できたわけだ。諸悪の根源も取っ捕まえられたしな」
最初に動いたのは、額に火傷のある男だった。張り詰めていた空気に穴を開けるように長いため息をする。それを合図にしたようにざわざわと固まっていた探索者たちも力を抜いて、動き出す。
「久しぶりに思いっきり暴れたなぁ!」
「酒が飲みてぇ」
「ったく。どこのどいつが、こんなのを起こしたんだろうなぁ?」
ロープで手足を拘束されて地面に転がされていた丸刈りと長髪の男を何人かが蹴ったり、背中を軽く殴ったりする。メグイノコシに追われて失った血の気を取り戻した2人は、顔を真っ赤にして罵倒する。
「うるっせえ! 馬鹿にしてんじゃねえぞ! 糞がっ!」
「くそっ、オシカの真似をしてやろうと思ったのにっ! 何でうまくいかねぇんだよっ!」
「ぺらぺらしゃべるんじゃねぇよ、馬鹿どもがっ!」
元チームとして見ていられなかったのか、オシカが鞭の持ち手部分で殴り付けて2人を黙らせる。大人しくなった2人を拘束したまま引きずって、ギルドに戻るようだった。ぞろぞろと探索者たちが町への道を続いていく。
その中で、額に火傷のある男がシュトルに近づいてきた。
「随分と汚れてるようだが、大丈夫か?」
「……怪我はないよ」
「そうか。槍の血を拭うためのもんだが、使いたきゃ使ってくれ」
「どうも……」
本当にどうしようもなく汚れていたために、シュトルはありがたく受け取った。
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