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「お、おお俺はいつまでたってもぉ、馬鹿で間抜けなお兄ちゃんだぁ。また、俺のせいで怪我をさせるなんてなぁ。ごめん、ごめんごめんなぁあ、わわ悪い兄ちゃんでごめんなぁ」
脈絡のない謝罪を口にしながら、床にすりつけたままの頭を自らの両腕で交互に殴り続ける。その動作だけなら癇癪を起した子どもだったが、どうも音がかわいらしくない。本気で自分の頭を殴っているアレクの頭から衝撃が建物全体に伝わってどすどすと響いていく。しかし、建物を揺らしている張本人の頭の中を狂気がぐらぐら揺らしているせいで、視界が揺れているのか、地面が揺れているのかも判別がつかない。そもそも判別できるだけの理性が残っていなかった。
アレクから距離を取るために車いすを動かしたミモザは、シュトルの横に並んだ。はっと我に返ったシュトルが挙げたままだった両手を下ろす姿を横目で見つつ、やれやれと大げさに肩を回したミモザが大きく文句を言う。
「まぁた、正気を失って。まったく大した問題児だよ。こっちはいい迷惑さ、ねぇ?」
「え、は、そう、だね」
「本当に。私の家が壊れたらどうしてくれるんだか」
そう慣れたように文句を言うミモザは、これが日常の延長戦とでもいうような風情だった。思わずシュトルも、自然な形で相槌を打ってしまう。しかし、二人の足元からぐらぐら揺らしてくる強い衝撃はまったく止まることがない。アレクの両腕は止まることなく自らの頭を殴っていたが、頭よりも先にこの建物が壊れかねなかった。ぱらぱらと天井から粉のようなものまで降ってくる。
「ばあちゃんっ! アレクっ! ――ったく! もう店で暴れるなって言っただろうがよ!」
扉から慌ただしくやってきた肉屋の男が、床に膝をついて暴れるアレクを見て舌打ちをする。その手には、先が二又に分かれた棒状のものが握られている。ふんと気合を入れた肉屋の男は、両腕でその二又の棒を突き出した。アレクの身体が横から二又の先に捕らえられるが、一瞬動きを妨げただけで、そのさきはぽきんと呆気なく割れた。ああと嘆く声もアレクには届かない。人というより暴れる獣というありさまだった。
本格的に建物が傾く危険が差し迫り、ミモザは隣で肩をすくめているシュトルに声をかける。
「うちの家が倒れちまったら、今日寝るところに困るんだ。あいつに、何か言ってやってくれないかい?」
「何か?」
「暴れるな自己中野郎とでも言ってやんな。一緒に買い物しようと誘っておいて、勝手に暴れてこっちを放置する輩は最悪も最悪だってねっ!」
「……それは、そうだ」
肉屋の男が先の割れた棒の先で、荒れ続けるアレクを突いている。そこに一歩シュトルが近づいて、息を吸った。
「いいかげん、暴れるな! 迷惑なのよっ!」
ぼこんと最後の一殴りをして、自分の頭に拳を乗せた状態で止まった。そのままアレクは頭を抱えて、うぐうぐと籠った声で野生の獣のように唸る。近づかない、動かない、迷惑という言葉がアレクの脳みそに針山のように突き刺さっていた。その背後に俊敏に回った肉屋の主人は、アレクの脇から腕を伸ばしてポケットにある白い包みを取り出した。それは、既に今日何度も服用している気鎮めの薬だった。
紙を慎重に開いたかと思うと、片手で自分の鼻と口を塞ぐようにガードしつつ、主人は薬をこすり付けられた頭と床の間に差し込んだ。すうすうと息を吸うとともに、少しずつアレクの熱かった頭から熱が引いていった。そこでやっと自分の熱が移った床が生ぬるく熱を帯びていることに気がつく。床に手をついて、ゆっくりとアレクが顔を上げると車いすの上で両腕を組んでいるミモザと視線を反らして距離をとっているシュトルが視界に入った。床に両手をついたまま謝罪するためにアレクは頭を下げる。
「い、いつも、ごめんなぁ」
「やぁっと正気に戻ったってのに、もう一回狂気に落ちそうになるんじゃないよ。……まったく、手のかかる子だね」
「おれ、俺は、お兄ちゃんなのに、いつも手をかからせて……」
「あの、私はあなたの妹じゃないから。いい加減覚えてくれる?」
「あ、ああ、そうか? そうだ、シュトルさん」
わかったふうにがくがくとアレクは頭を揺らしたが、こちらを少し遠巻きにしているシュトルを見ていると、どうしても妹の顔が浮かんでくる。もう何年も会っていないが、きっと今頃はこのぐらいに成長しているはずだった。いつも手紙のやり取りだけで、顔を見に帰っていいかと聞いても強く拒否される。最後に見た妹の顔も、アレクの中でぼやけてきていた。
ぐつぐつと頭がゆだりそうになって、またアレクは身を屈めて薬を吸った。2包目だ。それを、シュトルが心配するでもなく疑問を口にする。
「あんなに薬って、使っていいものだった?」
「アレクのギフトは、聞いたところによると状態を上書きするって話だ。ああやって、ばかすか薬を使っても影響はないらしいが、見ていて楽しいもんでもないね」
「ギフト……」
「そう、ギフト……知らないかい? アレク、お前さんは一緒に出かける相手にぐらい説明しときな」
まともに話すこともできないアレクに代わって、ミモザが疑問に答えていたが、その途中で何も知らないシュトルに気づくと今日何度目かわからない呆れ顔を見せた。
薄膜一枚隔てたように周りの状況が遠く感じるアレクには、言われた言葉を理解するまで時間がかかる。アレクのギフトは、多くの人がそうであるように10歳になった頃に発現した。それ以来、妹との距離も、周りとの交流も、まともな思考もままならなくなった。
「身体を強化するギフトだっていうのは、見ていたからわかる。それ以上のことは、他人のことだし知らないけど」
「ま、本来ギフトの話は繊細なものだからね。本人が公言しない限り、触れないのがマナーってもんだ。ただ、アレクのギフトについてはもう町中が知っているんだよ。注意喚起の意味もあって、子供にも言い聞かせられてるからね」
小さい町とはいえ、子供にまでギフトを言い聞かせられるほどかとシュトルはここまで来た道を思い返していた。通り過ぎていく人は、恐怖こそはないものの、アレクを見て警戒するように距離を取っていた。
ようやく頭に言葉が響き始めたアレクが、口を開いた。
「……俺のギフトは、狂化だ」
「きょうか?」
「あぁ、狂ってこそ力を増す、狂化だ」
落ち着いてきて、そこで自分が床に腰を下ろしたままで、周りに自分がぶちまけたグローブなどの革製品が散らばっていることにようやくアレクは気づいた。肉屋の男が、散らかったそれらを黙々と片付けて、あとはアレクの足元にあるものだけだった。せめてこれぐらいはと拾い上げると、肉屋の男がそれらもまとめて簡単に棚の上に並べた。
「じゃ、落ち着いたみたいだし、俺は店に戻る。……アレク、戻るときにこっちの肉も買って帰れよ。迷惑料だ」
「わかった」
どすどすと足音荒く戻っていく孫の姿を、どいつもこいつも慌ただしいねとミモザが見送る。その忙しない音が遠ざかると、部屋にはしんと静けさと気詰まりな空気が流れた。アレクは引き出しが壊れた棚を見て揺れて、シュトルは包帯を巻いた腕を背中に隠す。
ふむと視線の合わない二人を交互に見たミモザは、年とともにしわが増え、細くなった華奢な指で山となってまとめられたグローブから一つを取り出した。
「とりあえず、これを持っていきな。サイズは合っているから」
「え」
はいと渡すためにミモザから差し出されたベルト式グローブを一度、二度とシュトルは見る。見る限りでは、自分の手にはまりそうだと判断して、差し出された手と手が触れないように下から引っ張るようにして受け取った。ちらりとシュトルがミモザの顔をうかがうと、顎をしゃくられたので、そろそろと両手にグローブをはめた。ぴったりと指先が生地と沿う。手首の部分をベルトで固定して、軽く手を回してもずれることがない。
「探索には、これで十分だと思う」
「そいつはよかった。シュトルちゃんの手の型はさっきとったから、それを基にしてオーダーメイドとなると20日ほどで仕上げられるかね」
「手の型って、長年やっていれば見るだけでとれるものなんだ」
「いや。これは、私のギフトだよ。“型どり”」
ミモザは両手の人差し指と親指を重ねて、また小さな四角い窓をつくった。そこからシュトルを覗き込みながら、下がり気味の口の端を持ち上げる。微笑みというには豪快なその笑みは、少し自慢気だった。
「こうやって、自分の手の中から覗き込んだ物の形を寸分違わず計ることができる。こういう仕事には持ってこいってね」
「それで、私の手の型をとったの?」
「そう。最高の仕上がりにしてやるから、楽しみにしてな」
指でつくった窓をおもむろに崩すと、ミモザは車いすの背もたれにどすんと身体を預けた。少しだけ木製の車輪が浮き上がって、おっと慌てて肘掛けの部分をつかむ。そして、ゆっくりと首を後ろへともたれかからせた。ミモザの細いあごがさらされて、無防備に視線を遠くへ投げかける。
「今となっては、堂々とギフトを使って商売しているけどね。若い頃は、もっとどうしようもないことに使ったよ。例えば、厳重な金庫の鍵をそのまんまに複製したり、オークションに出される本物と見違える偽物の彫像をつくったり、人間の顔の型をとって本物そっくりのマスクをつくったりもしたね。その結果、極悪人として引っ捕らえられ、縛り首にされる寸前までいった」
その話口調に重いものも暗いものもない。ただ、表情には積み重ねた時と苦み、それから悟りのようなものが浮かんでいた。それなりの付き合いのあったアレクも知らなかった話に、シュトルと同じように昔話を語る顔をじっと見つめた。
「ま、縛り首とはならず、ここへの追放となったわけだね。その当時、これは縛り首よりも重い罪だった。毒に侵された、中央から遠く離れたこの地は、やがて飢えながら、毒でじわじわと苦しんで死ぬ、罪人の果ての場所だった。一思いに死にたいと自ら命を絶つ者もあれば、自棄になって理性なく暴れて最期にはぼろ切れみたいになる奴もいた」
ミモザは、骨張った自分の指先をするりと撫でた。たまに町へとやってくる商人から買った紅で塗った指先はそこだけ温かな光が灯ったように明るい。その下に、毒が染み付いて青く、暗く、腐ったような爪が隠れているとは思えない。この爪をミモザは気に入っていた。
「転機があったのが、王様が変わってからだね。地殻洞への探索を積極的に支援するとなって、国がこの罪人ばかりの場所を拠点として整えて、いろいろすったもんだの事件が大小起きつつ、ちらほらと探索者が来るようになった。こんな場所に来る探索者も訳ありばかりだったけど、そうやって人が増えて、少しずつ発展し、町として人の生きる場所になった」
遠くを見ていた目を戻して、ミモザは目の前の若い2人を目に映した。青白い顔をして虚勢を張っている子と、ぼんやりと焦点が合っているんだかわからない空虚な子。そんな子ども達も気に入っていた。そのままでもいいし、がらりと変わってもいい。若い者の行く末を見守るのが、年寄りの娯楽だとくふりと笑う。
「だから、我々はどんな探索者も受け入れる。どうしようもなかった場所が救われたのは、あんたたちのおかげだからね。ようこそ、フルドノの町へ。私は歓迎するよ」
最後にシュトルに向かって、ミモザはそう告げた。まだ傷一つついていないつやつやのグローブをはめた両手を所在なさげにこすりあわせて、シュトルは少しだけ口を尖らせた。
「歓迎されても、私は仲良くしたいわけじゃない。私のギフトのことだって、教えられたからってわざわざ教えるつもりもない」
「教えてくれなくたっていいのさ。うちはどんなものも受け入れる。だから、幸か不幸かそう簡単には怖がってはやれないよ。ちょっと居心地が悪いかも知れないけどね」
「……あの人は、怖がられてないの?」
「俺か?」
突然話を向けられて、アレクは思ったより大きな声を出してしまった。遠巻きにされていることは、もちろんわかっている。怖がられているかどうかと問われれば、そうだとも言える。たまに町の幼い子供たちが肝試し感覚で声をかけたり、どれだけ近づけるか、背中に触れられるかといった遊びを行うことがある。恐怖の対象とはなっているだろう。妹からは、恐怖ではなく嫌悪を向けられているが。
そうだなと返事をしようとしたが、アレクよりも先にミモザが笑い飛ばした。
「アレクは、まぁ気まぐれな暴風みたいなもんだよ。備えがなければ家も吹っ飛んじまうが、準備さえしてりゃあそんなに被害はない。……いや、今さっき家が吹っ飛びそうになったかね。悪いね、今のは嘘だった」
「さっきは、悪かった」
「本当だよ、まったく。ま、全く怖くないとはいえないかもしれないけど、それなりの付き合い方がわかってるのさ」
うまく噛み砕いて納得できないでいるシュトルは、頷くとも返事をするともできないでいた。だが、ミモザはその反応を見るでもなくぱんと両手を叩いた。
「さて、長話はここまでにしておくかね。昔の話なんてものを脈絡なくしゃべりたくなっちまうのは、年ってことなのかね。やれやれ、気分はまだまだお嬢さんだってのに」
やだやだと自分の頬や首のしわを伸ばすように、ぐいぐいとミモザは両手で撫ではじめる。血の気があまり通っていなさそうな肌に、鮮やかな爪の紅がぽんと鮮やかに浮かんでいる。その指先でわざとらしく怒ったように眉尻を引き上げて、アレクを振り返った。
「さてとお会計の時間だよ。オーダーメイドの料金と今日渡したグローブと……それから迷惑料もとろうかね、棚を壊されたことだし」
「わかった。幾らになる?」
「あれとこれと、しめてこのぐらいかね」
シュトルの目に入らないように背中を向けた状態で、ミモザが8本の指を立たせた。アレクはこくりと頷いて、800カランを差し出された木製の受け皿に入れた。出された貨幣を数えて、毎度と受け取られる。
「それじゃ、20日後くらいにうちにおいで。そんときはシュトルちゃん一人で来てくれても構わないよ」
「それは、そうするわ」
迷いなく言いきったシュトルに、そうなのかとアレクがはっと口を開いた。その瞬間に、やっと買い物という目的を果たせたという気の緩みが出てきたのか、腹のあたりからぐうっと音が鳴った。
「腹へった」
そういえば朝から何も食べていなかったとアレクは気づいた。シュトルのことばかり気にしていたせいで、忘れていたのだった。お腹が空くと、力が入りすぎてしまう。
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