10 オレらは敢えてそれを捨てた

「ちわーす」


 火曜は部活の日。

 化学室の扉を開けると、副部長だけがいた。


「や。早いね」


 大机に腰掛けて手をひらひら振っている。


「てか皆が遅くないすか?」

「門倉ちゃんが鍵を開けないと部活が始まらないからね。みんな職員会議が終わる頃に来るよ」

「なんで副部長はもう来てるんです?」

「んーまあ責任者だから? だいたい部長と俺は先に来て、部員を待つようにしてる」


 意外と真面目な答えが返ってきた。


「部長と仲良いすね」

「いや悪い。絶望的に悪い。考えてもごらん、仲の良い相手にプロレス技かけるかい?」


 むしろ仲の良くない相手にプロレス技かける方が問題ある気もするんですが。


「カメラ屋の娘と、カメラ好きの子供。小三くらいからの面識だよ。ミサにとって俺は、自分の家のショーウィンドーにいつも貼り付いてる変な子供。俺にとってのミサは、宝物がぎっしり並ぶお店に『ただいま』って入っていく羨ましい子供。仲良くなれる訳がない」

「先輩知ってます? それ『フラグ』って奴すよ」

「いやいや。まさか」


 篠塚先輩はへらっと笑った。

 どうやら自覚ないらしい。


「部長は?」

「バスケ部の方に顔を出してるよ。一昨日の日曜日、試合だったからね」

「掛け持ちすか」

「うちの学校には、正式な部員じゃなくても臨時で部活動に参加できる助っ人システムが存在する。まあ文化部の部長、それも受験を控えた二学期の三年に助っ人を頼むくらいだから、うちの学校の女バスもお察しってもんだ」


 そしてそれに応じるミサもどうかと思うけどねーなんて言いながら、篠塚先輩は、鞄の中から茶封筒をひとつ取りだした。

 中身を自分が腰掛けている大机にぶちまける。それは、写真だった。

 今時ちょっと懐かしくなった、フィルム写真をプリントした奴。


 写っていたのは、バスケの試合の様子だった。

 そこに柘植先輩もいる。清楚なロングストレートをポニーテールにして。

 いつか見たプロレス技をキメる憤怒の形相ではなく、爽やかな表情でボールを追っている。


「おお。試合の写真」

「ちょうど良い。お勉強しようか、広瀬君。この写真をどう思う?」

「どうって……迫力あるっす」


 部長以外のメンバーの写真もある。どれもざっくり『迫力がある』。

 そう、この辺りは写真に疎くても分かる。ここから先、マジックアワーハンターかつカメラ部員として一歩踏み込まなくてはいけない。

 じっと見る。じっと。


 柘植先輩のポニーテールの毛先に至るまで、完璧に時が止まっていた。

 つまり。


「シャッタースピードが速い」

「正解!」


 副部長は音が出ない程度に小さく拍手してくれた。照れる。

 そのくらいは覚えた。写真は光と時間のかけ算だ。こういう時の止まったような写真は十分な光量を一瞬で取り込むことによって撮れる。

 ……何か他にも条件あるらしいんだけどまだ知らない。オレの、封印された能力だ。


「もうひとつ分かるかな」

「もうひとつ……ですか?」

「君が今、手に馴染ませてる単焦点レンズではできない——おっと、今のでほとんど答え言っちゃったようなもんだね。これとこれ、何が違う?」


 机にぶちまけた写真の中から、副部長が選んだ二枚。

 どちらもゴールポスト下、写っているのは柘植先輩だった。片方は胸から上で、片方は全身。


「……ズームインしてる?」

「その通り! こっちはミサに寄ってて、こっちは引いてる。コンパクトカメラでもやってることだから別に難しくはないかな」

「まあ、ズームするくらいのことは分かります。てか俺、現在進行形で倍率固定のレンズに頭使ってるんで」


 副部長に使い込めと言われたレンズは単焦点。ズームインズームアウトできない奴だ。もっと大きく撮りたいとか、もう少し引きで全体入れたいとか、そういう時に自分が前後に動くしかない奴。

 あのレンズじゃこんな風に、柘植先輩のアップを撮ったり全身を入れたり変化のある写真は撮れない。オレがバスケットコートに乱入しない限り。


「なんでズームするレンズとしないレンズがあるんすか?」

「全てにおいて高性能な究極の一本なんてものが存在し得ないからだよ。大抵のレンズはそれぞれ長所と短所を持っている。何かを犠牲にすることで、別の性能を高めているんだ」


 超望遠はでかくて重い。

 コンパクトで安価なズームレンズなら、明るさに妥協が必要になる。

 逆にオレが使っているレンズは、焦点距離が固定だからこそ驚異的に明るい。


「レンズには個性がある。だから撮りたい被写体に合わせて、レンズの得意不得意を見極めて、適切に選ぶ。分かるかな、ここに沼が存在する。あれも撮りたいこれも撮りたいって、無駄に色んなレンズが欲しくなるわけだ」

「分かります」

「君はまだ初心者だから、敢えてレンズの性能を制限した。広角単焦点に合った被写体を選ぶという、通常とは逆のアプローチだ。けどそれは、カメラを識る上で役立つと思っているよ」


 遠くから、分かるーホントそれーみたいないかにもな女子トークが近付いて来た。ここ化学室のあるB校舎三階は火曜の放課後、他に使用中の部屋がない。即ちカメラ部員だ。

 というオレの推測はみごとに当たった。


「お待たせー。あっ広瀬君、早いね」

「どもっす。部長もバスケの試合お疲れっした」

「なんで知ってるのよ」

「お待たせしました。すぐに鍵を開けますね」

「慌てなくて良いよ門倉ちゃーん。どうせみんな遅いしー」


 そっか。部員が遅刻がちなのは、門倉先生に気を遣ってるんだな。

 ずらっと揃って待ってたら、先生を慌てさせてしまう。


「門倉先生も、お疲れっす」


 カメラを出すべく、準備室の鍵を開ける門倉先生を追いかける。

 声をかけると、ちょっと照れ臭そうに笑った。


「ここでは先生って付けなくて良いですよ。教える立場ではなくて、一緒に教えてもらっていますから」


 なるほどそれで門倉ちゃんか。

 愛されてる顧問だ。


「うわー恥ずかしい。試合の写真見てたんだ」


 カメラバッグを肩に、急いで化学室に戻る。柘植部長がちょうど、自分の写真に驚いているところだった。


「まあカメラ部としての教育的指導を兼ねて」

「ふーん。それで広瀬君は、この写真で何を学んだのかな?」

「ん? そっすね。オレが使ってるレンズはズームができなくて、篠塚先輩がこれ撮ったレンズはできる。みたいな」


 大机に広げた写真を指先で弾くように等間隔に広げて眺めていた柘植先輩が小さく吹き出した。

 面白いことを言ったつもりはないんだけど、何か、面白かったっぽい。


「そっかそっかー。大切なことだよね」

「広瀬君の使っているレンズはズームが『出来ない』のではなく『しない』と考える方が正確です。内部の光学素子を通る度に光は減衰していきます。複雑な可変構造を敢えて捨て極限まで簡素化することで、光を損なわないよう設計されているんです」


 レンズ大好き門倉顧問の眼鏡がきらんと光った。やや早口。

 でも言ってることは分かる。


 そう、ズームができないからってオレのレンズは劣っている訳ではない。

 オレとオレの写真に必要なのは、光だからだ。


 ……いやまだ初日に篠塚先輩が撮ってみせた薬品棚を超える奥行き、出せてないんですが。

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