09 心の傷に効く薬

「わぁ、本当に広瀬君だ! いらっしゃーい」


 土曜の午後。

 学校から家に向かって五時の方向にある古い商店街へ、チャリを向ける。

 雨漏りしそうなボロいアーケードの、手前から三件目。揚げたてコロッケの幟を立てた精肉店と理解できないド派手なセンスのオバチャン向け服屋に挟まれて『つげカメラ』は営業していた。

 ショーウィンドウに並ぶカメラとレンズはどれもこれも綺麗で格好良くて生唾を飲んでしまうが、値札についているゼロの数を数えたら急に冷静になった。

 ……こんなにお高いもんだったのか……。


 ン十万の商品を扱っている店であることに気後れしつつ、恐る恐る扉を開ける。

 そこはかとなく酸っぱい匂いがする店内に、おじさんが一人いた。いらっしゃいと怪訝な様子で声をかけられ、咄嗟に、怪しい者ではありません西校カメラ部員ですと答えた。

 思いっきり怪しい者になってしまったが、緊張してたんだから仕方がない。

 だがおじさんは察した様子で、呼んでくるから待っていなさいと告げて奥に引っ込んだ。


 そして。

 ゆったり大きめパーカーと細いジーンズ姿の柘植先輩が、代わりに出てきたのである。

 やっぱりここ、部長の家だった。


「いきなりすみません」

「んー別に、受験勉強しかすることないし?」


 そう言って笑う先輩は、たぶん、勉強から逃げ出す口実を探していた。

 お役に立てたようで何より。


「それで、何を買う?」

「いやいやそういう訳じゃないです!」


 五桁や六桁あたりまえの商品がごろごろ並んでいる店先で、何を仰います。

 安くはないと分かっていたけど改めて、自分が足を突っ込んだ世界の相場にドン引きしたばかりだ。預かると言ってくれた門倉先生、タカ君の環境に涎を垂らす篠塚先輩、親父さんの機材を貸してくれと言って怒られたという名も知らぬOB先輩の本音がようやく分かった。


「冗談よ。広瀬君、一揃い持ってるもんね。お爺さんの形見」

「まだ触ってないですけど」

「鷹栖君に会ったんだ」


 素っ気なく束ねただけの髪を揺らし、優しい貌で微笑む美女。

 部長は察しが良い。黙ってオレは頷いた。


「そっかそっか。いいなぁ、彼が撮影してるとこ一度見たことがあるだけだよ」

「オレなんか一度も見たことないですよ」

「でも教えてもらえてるんだよね? すごく羨ましい」


 部長は小さく唸ってから、カウンターの後ろに屈み、布の包みをひとつ取り出した。

 あれはラッピングクロスというやつだ。爺ちゃんのカメラもあれに包んである。もう少し薄い奴だったけど。


「これと同じ型よね。彼のカメラはプロ仕様だから見た目少し違うけど」

「そっすね」


 包まれていたのは確かに、タカ君の顎乗せに良く似たカメラだった。黒いイボイボのボディと銀色の組み合わせがなんとも渋い。


「それって高いやつです?」

「そうでもないかな。たくさん作られた名機で、数が残ってるからね」

「ほー、なるほど」

「これはわたしの勝手な持論なんだけど、今プレミア価格が付いてるカメラやレンズは『人気がなかった』もしくは『壊れやすい』せいで残機が少なくて、だから希少価値が上がってるのよね。つまりわたし達みたいに、撮る方のカメラ好きにとっては意味のない価値なの」


 良いものだからたくさん売れて、たくさん作られて、たくさん残っている。

 だから高値はつかない。

 宝石みたいな宝物と違って、カメラは量産された道具だもんな。今も廉価なのは劣っているからではなく、それだけ優秀な製品だからだ。


 プレミア価格は普及しなかった証拠、ってなかなか皮肉だ。

 体験入部の日に副部長が言っていたフォトグラファーとコレクターの差を、あらためて痛感する。


「このカメラに、レンズは多分、このくらいかな。……鷹栖君、まだ撮ってないのかぁ」

「うーんと、フィルム入れてないカメラに顎乗せてますね。山の上公園のベンチに座って、美作川鉄橋を眺めながら」


 女性にしては大きな、指の長い手で、慣れた感じでカメラとレンズを合体させていた部長が固まる。


「……なんて勿体無い!」


 死ぬほど同意します。


「でも手放せないのは分かるのよね。ずっと身近にあったものだから。触ってないと不安になっちゃうって言うか」


 ここにも一人、環境に恵まれた『天才』がいた。

 フィルム巻き上げレバーを繰り、あちこちに付いてるダイヤルを回し、シャッターボタンを押す。その度、柘植先輩の手の中で、タカ君の顎‪乗せと同じメーカーのカメラがすがすがしい音を立てる。


 だけど、空っぽだ。

 フィルムが入っていないカメラの、空っぽな音だ。


 タカ君と同じ。


「我慢しないで撮れば良いのに」

「それができたら苦労しないと思いますよ」


 せめて部長にだけは知っておいてもらおうかとも思ったけど、やっぱり言えなかった。

 タカ君が不必要に自分を責め、写真を撮れなくなってしまった理由。


 自分のせいで父親が死んだと思い込んでいるからだと。


「傷付いているからこそオレ、タカ君にはカメラと向き合って欲しいんですけどね」


 深く、柘植部長が頷いた。


「撮れなくても、君に教えることはできるんでしょ? だったら、君が引っ張ってあげてよ」

「そのつもりではいるんですけどねえ、何しろタカ君、デジイチの操作を知りませんから」

「あ、それでフィルムカメラについて調べてるわけか。君の方から鷹栖君のいる場所に近付いてあげようと」

「……思ったけどまだ無理っすね」


 カメラについて、オレはまだずぶの素人。

 篠塚先輩やタカ君に教えられて、ようやく鉛筆を握ってかきかたドリルを開いた一年生レベルだ。

 しかも、ドリルの枠の中に薄く書かれたお手本の文字をなぞるだけで精一杯で、いざ自力で書こうとしてもてんで無理。


「持ってて」

「うぉ!? わ、ちょ待っ!」


 突然カメラを手渡され、咄嗟に受け取ってしまった。

 重っ! 何これおっも! 柘植部長が軽々扱ってたから目の錯覚を起こしてたよ、むちゃくちゃ重い!


「ぶぶぶぶぶちょ、これ重いです!」

「そりゃそうでしょう、鉄とガラスの塊だもの。最近のデジカメはボディもレンズも樹脂だからねえ」


 柘植先輩はカウンターの向こうにしゃがんで何かゴソゴソやりながら、俗に言うオールドレンズについて説明してくれた。

 金属の筒にガラスを研磨したレンズを詰めた、職人の技が活きていた時代のもののことだ。

 爺ちゃんのマニュアルレンズ、あれはまあ長いから、見るからに重そうだなって心の準備ができた。

 けど、こんなコンパクトなレンズでも、意外なほどずっしり来る。


 もちろん樹脂のレンズにも良いところはあって、むしろ良いところしかないからガラスのレンズと置き換わっちゃった訳で。

 軽いし、複雑な設計が可能になった。オートフォーカス当たり前、フレアやゴーストと呼ばれる光の反射も抑えて綺麗に映る。


 ただ、綺麗なだけの写真じゃつまらないのが、うちの高校のカメラ部ってもん。


「これ鷹栖君に渡してくれる?」

「何すか」

「彼のお父さんが預けていったものよ。なかなか取りに来てくれないから困ってたんだ」


 預かっていたカメラを返した掌に乗せられたものは、横に細長い封筒のようなもの。

 知ってる。これ——フィルムだ。

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