17 爺ちゃんが見た黎明
翌朝まだ暗いうちに家を出た。両親には前の晩に話してある。部活の朝練みたいなものだと言えば納得してくれた。
マジックアワー朝バージョンを撮影しに行くんだから練習じゃなくてある意味本番なんだけど、まあ、そこまで正確に説明する必要はないだろう。
弁当はどうするのかと訊かれたので、機材を置きに一旦帰ると伝えた。
猫だけが起きて見送ってくれた、夜明け前。
山の上公園へ、自転車を漕ぐ。
さすがにこの時間は寒い。
今日の午後から天気が崩れ、週間予報はずっと曇り時々雨とのこと。
文化祭の展示作品は、来週火曜が提出期限だ。朝焼けの撮影は、どう考えたって今日しかない。
フィルムを残したのはこのためだ。
失敗できない。
一枚でもいいから、爺ちゃんが撮った美作川に迫りたい。
初めて訪れた、夜明け寸前の山の上公園。いつもオレより先にフォトジェニックな場所を抑えているタカ君師匠のバイクがない、空っぽの駐輪場に一番乗りした。
誰もいない。
冷たく湿った夜の気配が、見慣れた公園に立ち込めている。不思議だった。夕方の公園なら何度も来たのに、全然違う。
いつものベンチは朝露に濡れていて座れない。
レジャーシートを冬枯れした芝生に敷いて、カメラバッグを置く。いそいそとカメラを二台据えている間に、徐々に太陽が迫っていた。
朝焼けの撮影は夕焼けの逆。だんだん空が明るくなっていく。共通なのは、最高の一瞬がとてつもなく短いこと。
だいたいいつも寝ているうちの猫とは違う。撮り直すことなんてできない。
ゆっくりと周囲が明るくなる。
空がピンクになっていく。
「……っ、は」
息が止まっていた。慌てて深呼吸する。
日の出までの数分間。
爺ちゃんだけの、宝物の景色。
いや。
爺ちゃんの写真よりももっと凄い。
俗に言う『爆焼け』だ。
燃えるように赤い空。
真っ赤な地平とまだ夜のままの頭上と、ほんの少し出ていた雲の輝き、茜色に輝き出す眼下の町並み。
美作川鉄橋は複雑なトラス構造の陰影を際立たせ、川面が空の色を映している。
何だ。
なんか泣きそうなんだけど。
凄すぎて、涙出てくるんですけど!
震えるほどに見事な朝焼けを、夢中で撮影した。
少しずつ明るくなっていく空を、少しずつ設定を暗くしながら、何枚も何枚も。
フィルムカメラの方は枚数に限りがあるから、ちょうど良い条件で撮れた時にその数字で撮った。
朝焼けは雨、なんて言葉がある。だからうっすら期待していた。
けれど、ここまで見事とは。
フィルムを一本まるごと使い切ったところで我に返り、息をつく。
魔法の時間は終わろうとしていた。
バイクのエンジン音が聞こえた。新聞配達かなと思っていたら、すぐ近くで止まる。
そして寒そうに肩をすくめたタカ君が、階段をかけ上がってきた。
「いると思った」
「おはよ。そりゃもちろん、撮りに来るしかないよね」
オレらはマジックアワーハンター。見事な朝焼け夕焼けには目がない。
待ち合わせ場所を指定しなくても自然に集まる。
「タカ君も撮った?」
「いや。もう撮り終わっちゃったからね」
モッズコートのポケットから取り出したものを、こちらに投げてよこす手振りをする。両手を出して受け取る構えを見せたら、ふんわりと、投げてくれた。
今でこそ絶滅危惧種となったものの、昔は小物入れに工作の材料にとポピュラーだった乳白色の筒状のフィルムケース。中には昨日、オレが屈辱の帰れコールで吉森を降りた後も撮り続けたであろうタカ君のリバーサルフィルムが入っている。
別に大切なものでも何でもないと言いたげな、雑な扱いがタカ君らしい。
「やるよ。いいのがあったら展示してもいい」
「ありがとう! 大事にする! オレの一生の宝物!」
「……いや大袈裟すぎ」
気が変わって、やっぱ返せと言われたら大変。言質は取ったのだし、いそいそとカメラバッグの底に沈めた。
「それから……ひとつさ、頼まれて欲しいんだけど」
「ん?」
珍しくタカ君が改まった様子で、ボディバッグを下ろしながら近付いてきた。
取り出したのは、ラッピングクロス——つまり撮影機材。
「君んとこの部長って、あれだよね。新地商店街の」
「うん。カメラ屋さんのお嬢さんだね」
「これをさ、渡して欲しいんだ」
そっとクロスを広げて、チラ見せしてくれたのは、思った通りカメラだった。
タカ君の愛機に良く似ている。
「……これは?」
「親父と一緒に回収されたやつ」
「んんっ!?」
「フィルム入ったままなんだけど、どこか壊れてるみたいで巻けなくて、うち暗室ないからどうにもできなくてさ。店の設備でこじ開けて、もし感光してなかったら現像してくれるよう頼んで欲しい」
カメラは重かった。
このオレが預かっても良いのかってくらい、重くて重くてたまらなかった。
「玉手箱みたいだね。開けたら君の時間が流れ始めてしまう」
「だったら余計に、早く処分しないと」
「分かった。君がそう決めたんだったら。部長にお願いしてみるよ。もし中のフィルムが生きてたらどうすれば良い?」
タカ君はすっかり朝になってしまった空を見上げた。
「好きにしなよ。何なら文化祭で展示しても構わないし」
「え?」
「親父、西校カメラ部だったんだって。まああいつの写真じゃ客寄せパンダにはならないだろうけど」
思わず高速で頭をぶるんぶるん振った。
謙遜にもほどがあるよタカ君! 君のお父さんがどんだけカメラ好きに影響を与えたか、分かんない!?
「じゃ。文化祭、行けたら行くよ」
「ちょっと待って。三脚借りっぱだった」
「いいよ別に。貸しとく」
「……分かった。オレ、これを君に返すまで死なないって約束する」
「なに雑な死亡フラグ立ててんだ」
タカ君は、笑うと眉毛が下がる。
「タカ君は、これから?」
「家に帰って追試の勉強。中間試験サボっちゃったからね。やっぱ卒業はしたいし」
「……だね。もし留年したらオレのこと先輩って呼ぶことになっちゃうもんね」
「うわ。想像したらゾッとした」
タカ君は笑顔でじゃあと軽く手を振ってから、来た道を帰っていった。
そして立ち止まり、振り向き。
「色々ありがと。広瀬君」
一言付け足した。
しばらくして軽快なエンジン音が、タカ君の降りていった階段の方から聞こえてくる。
「爺ちゃん」
オレ、今、カメラ始めて良かったって過去イチ思った。
なんでだろ。
いい景色を知って、いい写真が撮れて、撮った写真を褒められて、愉快な仲間と知り合えて。カメラまわりの思い出は全部いいんだけど。
なんか今、泣きそうに嬉しい。
***
次の火曜は、部長に現像をお願いする日。
つげカメラの袋にオレの名前を書き、現像とプリントにチェックを入れてから、フィルムを二本放り込む。自分のとタカ君の。
それから部長に、壊れたカメラを手渡した。
それを受け取り、事情を理解した時。
ぽたぽたと、部長は涙を零した。
人間ってこんなに綺麗に泣くもんなんだと感心するくらい、表情は変わらないのに、ただ涙だけが溢れて止まらないみたいで。
「……ありがとう。任せて」
小さく鼻をすすり、指で涙を拭ってから、柘植先輩は詰まりがちな声で力強くそう言ってくれた。
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