36話 過去のヤクソク3
月日は流れて無意味な時間が過ぎて。
また先生に呼び出されたのだ。母に会うのだと。
このとき、月音はなんとなく心に、じんわりとあたたかいものが広がるのを感じた。これも初めての感情だった、何かに急いて、期待するような、春のひだまりで寝転んだような心地だった。
母は、来なかった。
来られなくなっていた。
冬の寒い日だった。
雪が生命の灯火を消す、月音の中に生まれた熱も春も全て奪い去っていった。
ぴ、ぴ、ぴ。基礎正しい電子音。
先生に手をつかまれて放りこまれたのは、とある病院の一室。白で埋め尽くされて、物々しい器械の威圧感とあの嫌な臭いで満ちた気持ち悪い部屋。
花もテレビもなく。
寂しくぽつんと置かれたベッドの上で横たわるそれ。
ずいぶん前に会った母とはまるで別人だった。
それでも、月音の体は勝手に動いて側に駆け寄る。
投げ出された枯れ木の手に触れようとして、止まる。
宙に浮いた己の手は行き場を失った。
「ごめんね」
掠れた声だった。
呼吸器をつけて、うっすら目を開ける母。
「たまごやき、また、つくるって、いったのにね」
おかあさん、いつもうそついちゃうね。
ほんとうにごめんね。
ぽろぽろと母の眦から宝石よりも美しい涙があふれて、いくつも滑っていく。白い枕にすくい込まれていく。
母は、けっして体の強い人ではなかった。
むしろ儚いひとであった。風邪一つで命の危機すら迫るような。
それでも母は、雨の日も雪の日も嵐の日も、こうなるまでずっと会いに来ていた。
憎い男の面影がある子供に会いに。
苦しくなると分かっていても。むりやり、言われて仕方なしだとしても。
卵焼きを食べさせて、また作るねと嘘なく微笑んでくれた。
本当の親子になろうと。
親子という関係を知らない月音が、これが親子の関係ならば、そうなりたいと思うようにしてくれた。
母は。
「あいしているの」
たとえ、最初は違っても。
でも確かに私の子供だから。
かわいい、わたしの。
譫言のようなつぶやき。
彼女の手が震えながら持ち上がり、何かを探すようにさまよう。
咄嗟に握れば母は一瞬怯えたようにびくりと反応したが、すぐにほぅと安堵したように幸せそうに口元を緩めた。花のような、みずみずしい微笑みだった。
月音は折れてしまわぬよう、慎重に両手で掴むと顔を近づけた。
覗き込んで、瞬きせず、出会ったころと同じく一挙手一投足を見逃さないように、脳に焼き付ける。
「あのね」
「……うん」
「あいしているの」
「うん」
「あいしてる、わたしのかわいい、こ」
「うん」
「だから、どうか、どうか、おねがい」
――生きて。長生きして、幸せになって。
母の、最初で最後の願いだった。
会話もぎこちなく、料理のときが一番話しただけの母親。
それでも月音の気持ちは、もう固まっていた。
迷いなど一切ない。
「おかあさん」
それが憐れみなのか、血のつながりのせいなのか。
月音にはわからない。ただ叶えたい、応えたいと心の底から思った。
それだけで、十分だった。
「百歳まで生きるよ」
なにがあっても。
あなたを、お母さんを嗤った化け物たちに、私は幸せだと笑い返してやるから。
そう返した月音を、眩しそうに目を細めて眺めると母は瞼を下ろした。
月音には、なぜか視界がかすんで、ゆがんで、よく見えなくなった。
「はじめて、よんでくれた」
お母さんって、とても――。
無機質な電子音が無情に鳴り響く。
その続きは、一生聞けないままになった。
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