語り騙られ、水底へ
38話
「ひとつ、聞きたいことがあります」
過去から意識を引き戻し、口を開く。静かな暗闇に嫌なほど響いた。
喉に張り付く違和感に咳き込めば、口内に鉄の味が広がる。
吐き出したい気持ちを抑えて、固まる目の前の男に問うた。
「私は何故、虎沢秀喜……あなたたちに狙われているでしょうか」
それはずっと抱えていた疑問であった。
祖父母を殺したのは虎沢らしい。
そして狙いは一応、血を分けた月音なのだと語っていたがどうにも腑に落ちない。なぜ、あの男は月音に固執しているのか。
今更親子関係を作りたいなどありえぬ。
だからといって月音自身に価値があるのかと言えば、それもない。
母の実家は貧しさとは無縁だが、自分が一族の一人として認められているとは到底思えない。財産なども月音には一切入ってこないだろう、施設を抜け出してからは食い物すら困る生活を送る月音に対して、金銭目的ではないはずだ。
ならば、何故。虎沢秀喜は母が死んだ今更、月音を狙うのか。
「お前、虎沢と愛人の娘だろう」
「愛人……母が、虎沢の?」
男の答えに思わず鼻で笑いそうになる。
愛などなく、冷え切り身を裂く憎悪のみが母を痛めつけていた。過去にもできず毎日毎日引き裂かれ心を殺されていた、それを愛などと。
「それで、愛人だと仮定して。虎沢の狙いはなんですか」
「――お前、勘違いしてんじゃねぇか」
ごつんと、蝋燭の炎が届かぬ暗闇から、重たいものが地面にたたきつけられる音がした。
がらがら引きずる方向に一瞬意識をやったが、すぐさま目の前の男に戻す。
男は嗤っていた。
幾分か余裕が戻ってきたらしい、分厚い舌を覗かせてゲラゲラと下品に、饒舌にほざいた。
「俺らはな、月花と、その共犯者である虎沢秀喜を殺したいんだよ。お前はちょうどいい駒ってやつだ」
は、と短く吐いた月音は瞠目する。
――虎沢の手下では、ない?
「まって、ください。でもあなたは」
確かに見たのだ。
物言わぬ死体になった祖父母の家を出てすぐ、庭から飛び出した影を。
血まみれのナイフを片手に、滑るように塀を跳び越え逃げ出した顔は間違いなく目の前の男だ。
忘れようがない。
頬に返り血を散らばらせて黄ばんだ歯をむきだしに、興奮した嗤いを貼り付けていた、狂気の顔を。
祖父母は虎沢秀喜に殺されたと。
そう明言して。
「テメェのジジイらを殺したのも報復だよ。虎沢のせいで、こっちはメンツを潰された」
月音の言葉を遮った男は、ネズミを追い詰める猫のように加虐的な光を目に宿す。
月音の細い首を片手だけで締め上げ、気管を潰せば酸素の供給が途絶え、苦しみに呻くが男の手は緩まらない。
「あのジジィども、お前のこと『あれならくれてやる、だから助けてくれ』って叫んでたよ。お前は捨てられたんだ」
どうでもいい情報だった。
あんな化け物、そもそも拾ってもらった覚えもなければ恩義もない。月音にとって家族は母だけで、それから。
「――月花にも売られたんだよ」
びしりと、何かにひびが入るのを感じた。
どくどくと心臓が騒がしくなり、締め上げられた喉がますます縮まる。腹の底にたまる不快感が渦巻いて、思考が異様なほどに霞がかかった。
理解を拒絶するように、頭が真っ白になる。
「どうやってセキュリティをかいくぐってお前を攫えたと思う? 普通無理だよなぁ、見張りだっているんだ」
男の下卑た声はやけに鮮明に届いた。
脳に直撃して心を破壊しようと打ち据えられる。軋んで、耐えかねて少しずつすり潰されていく。
「答えは簡単だ。月花がお前の場所まで案内してくれたんだよ」
こわれる。
ぱっと喉から指が離れて一気に酸素が流れ込む。げほりと咳き込む。自分の荒い呼吸音が遠くに聞こえる、分厚い壁を隔てた向こうにいる感覚、目の焦点がうまく定まらない。
「だがまぁ、役目はここまでだな。月花も殺してやる、俺らに逆らって裏切った奴ら全員皆殺しだ。お前はその餌、追い詰めるのにちょうどいいんだよ」
ころされる――泰華が。
瞬間、売られたという言葉よりも何十倍もの衝撃が全身を貫き、目の前が真っ暗になった。
頼りない蝋燭の炎も男の陰湿な瞳の鈍い光も全部が消え去る。音すら途切れて五感が断絶されたかのような、恐怖に飲まれた。
彼を失う。
想像しただけで死を迎えた絶望が襲いかかる。まるで死海の奥底に沈み重くのしかかっていく。
そうか、わたしは。
泰華がいないと、生きているという事実すら薄れるほど。彼を。
自覚した途端、津波のごとく奔流となって様々な感情が渦巻く。どれも初めてのもので、到底追いつけない速度で月音の中で生まれて蹂躙していく。
捨てたいのに、それを手放した瞬間、自分は生きていけなくなるのを本能で察知した。
独りで生きていくと決めていたのに。
憎い己を殺したい衝動を踏みにじって、邪魔する者全て殺してでも生きていかなければならないのに。
弱くなった自分の姿に項垂れるしかできなかった。
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